この記事は2025年10月14日に「第一生命経済研究所」で公開された「経済格差の考察:インフレが生み出す歪み(下)」を一部編集し、転載したものです。


経済格差
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目次

  1. そもそも低成長
  2. 雇用者の実質所得
  3. 4割の無職世帯に恩恵が薄い
  4. 所得増のチャネルを増やせ

そもそも低成長

物価高対策が叫ばれているが、その打撃がどうなっているかは詳しく調査されたことがない。政府は、もう少し情報を集めてから、厳密な政策対応を講じた方がよい。

まず、物価高の状況を把握してみたい。物価高は2022年頃から進み始めたが、この時期はコロナ禍だったので、その始期である2020年1-3月を起点に考えることができる。直近の2025年8月(消費者物価の直近データ)と2020年1-3月の指数を比べると、11.6%の物価上昇である。これは、貨幣価値が▲10.4%下落したのに等しい(=100÷111.6=0.896)。もしも、年収が1.116倍に増えていなければ、物価上昇に割り負けて、実質所得は減少していることになる。

なお、物価の尺度をGDPデフレータに替えて、2020年1-3月から2025年4-6月までの変化を調べると、10.6%の上昇率であった。消費者物価の11.6%とほぼ同じくらいの変化率である。

この間、家計最終消費がどのくらい変化したのかを示しておくと、名目消費が9.5%増で、実質消費が1.2%と辛うじてプラスになっている。これが5年間の変化だとすれば、年間約0.25%(実質)というごく僅かなものになる。日本人はコロナ後に全く豊かになっていないことがわかる。内閣府の計算では、過去5年間の潜在成長率は0.1~0.6%だから、やはり実際の家計の恩恵は低くて、不満がたまっていくことがわかる。

雇用者の実質所得

石破政権までの方針は、賃上げによって物価上昇の痛みを減殺するというものであった。岸田前首相と石破首相が2代続けてこの目標に力を尽くした。その結果をGDP統計のよって調べてみると、雇用者報酬は2020年1-3月から2025年4-6月(直近)まで12.4%の増加、この間の雇用者増を差し引くと1人当たり雇用者報酬増は、+11.7%であった。これは名目値なので、1人当たり実質雇用者報酬増を調べると、▲1.7%とマイナスだった。やはり、実質賃金のマイナスが重くのしかかっている。

次に、雇用者ごとの実質賃金の変化率について調べてみよう。厚生労働省「賃金構造基本統計調査」を使い、男女別・年齢別の年収(月次の決まって支給される現金給与額×12+年間賞与その他特別給与額)を調べると、男性は2019年から2024年の5年間で6.7%(この間の消費者物価上昇率を差し引くと▲1.8%)であった(図表1)。女性は9.3%であった(物価上昇率を差し引くと0.8%)。また、年齢別の変化率は、女性はおおむね各年齢層で上昇していたが、男性は50~54歳のところで伸びが頭打ちになり、45~49歳も相対的にほかの年齢層よりも伸び率が低かった。すでに、賃金水準が高い男性45~54歳は賃上げの恩恵が薄く、実質値でのマイナス幅が大きいと言える。こうした分配格差は、「賃上げの恩恵は自分たちのところには来ない」という批判的な意識を作ってしまう。社会学者が使う言葉を用いれば、ルサンチマン=負の感情、遺恨が生じているのだ。その心理が政治的に「賃上げで物価高の痛みを和らげる」という話を聞いても、それに反発する感情を生み出す。賃上げ格差が生じていることが、格差意識の経済的背景にはある。

第一生命経済研究所
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4割の無職世帯に恩恵が薄い

賃上げに対して、それでは十分ではないという意見が根強く生じる背景は、ほかにもある。家計の中で高齢化が進んでいるためである。家計の構成の内訳をみると、非勤労者世帯が増えている。総務省「家計調査」の総世帯・調査(2025年4-6月)では、総世帯のうち勤労者世帯は52.1%で、無職世帯は38.1%、残りは自営業などで9.9%となっている(図表2)。この無職世帯は、概ね世帯主が年金生活者である。賃上げの恩恵は、この全体の4割を占める年金生活者の世帯には乏しい。つまり、物価上昇に対して、厳しい経済環境に置かれるのだ。

第一生命経済研究所
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確かに、公的年金も物価スライドが働くのだが、2004年の年金改革でマクロ経済スライドが導入されて、物価上昇に割負ける仕組みになっている。具体的に調べてみると、国民年金の受給額は、2019年度65,008円から2025年度69,308円と6.6%増加に止まる。消費者物価が11.6%ほど上昇しているので、国民年金の実質所得は▲5%ほど悪化していることになる。これが、年金生活世帯と勤労者世帯の経済格差を生じさせている。なお、厚生年金の場合を調べると、2019年度は221,504円(夫婦2人)から2025年度232,784円へ5.1%しか増えていない。実質所得は▲6.5%とやはり大幅な切り下げである。マクロ経済スライドは、政府が決めたルールである。

政府が2020年度以降に住民税非課税世帯への給付を毎年のように繰り返しているのは、この年金生活世帯への配慮を考えてのことだろう。年金制度が物価上昇に対して脆弱な仕組みを放置しておいて、別途、給付を繰り返すのは、根本を見ずに放置している不作為責任である。

所得増のチャネルを増やせ

無職世帯の家計収入が低いことは、物価上昇の痛みを実感しやすい背景を作っている。総務省「家計調査」(総世帯)を使って、2025年(2025年1-3月と4-6月の合計の2倍)の無職世帯の収入を調べてみた。年収79.8万円のうち、社会保険給付65.6万円(ウエイト82.2%)がほとんどを占めていた。配偶者・他の家族の勤労収入は7.4万円(同9.2%)、家賃・内職など事業収入が1.8万円(同2.2%)、財産収入が1.7万円(同2.1%)、仕送りなどその他が3.3万円(同4.2%)であった。

注目されるのは、財産収入がわずか年間1.7万円しかないことだ。無職世帯は、老後に備えた金融資産残高が一定程度あろう。総務省「家計調査」には無職世帯の金融資産残高の調査項目はないが、全世帯から勤労者世帯を除外した2人以上世帯は、2025年3月末で2,548万円になっている。この金額が、2人以上の無職世帯の保有する金融資産残高に概ね対応するものであろう。単純に年間1.7万円の財産所得を、この2,548万円で割ると0.067%という超低利回りになる。逆に、2,548万円の運用利回りは税引き後1%であれば、年間25.5万円にもなって、無職世帯の年間所得を30%ほど増やすことができる。日銀が景気にある程度配慮をしながら利上げを進めていくことは、円安是正にもなるし、無職世帯の所得を大きく押し上げることにもなる。給付付き税額控除によって新しい給付金を配ろうとするアイデアが、与野党から提案されているが、場合によっては金融資産の運用利回りを引き上げていくことの方が給付金を上回る所得増を実現できるだろう。

第一生命経済研究所 経済調査部 首席エコノミスト 熊野 英生