大阪万博(1970)を影で支えた技術者の情熱から始まった日本システム技術株式会社(JAST)。1973年の創業から半世紀以上、独立系SIerとして多様な業界で着実な成長を遂げてきた。その歴史は、日本のIT産業の発展と軌を一にする。
そして2025年6月、創業以来50年以上にわたり会社を率いてきた創業者・平林 武昭(たけあき)氏から、息子である平林 卓(たく)氏へ、社長のバトンが渡された。先代が築いた礎の上で、後継者は何を想い、変革の時代をどう乗り越えようとしているのか。
目次
大阪万博を支えた情熱、ソフトウェアの未来を信じた船出
── 1970年の大阪万博が創業のきっかけだとか。
平林氏(以下、敬称略) 当社は1973年3月26日に、私の父である平林武昭(たけあき)を含めた7人が大阪にて創業しました。当時、コンピューターはまだ一般に普及しておらず、ソフトウェアという、形のないものには価値が見出されにくい時代でした。
創業者の父は、もともと石川島播磨重工業(現・IHI)で、教室一つ分ほどの大きさもある巨大なコンピューターに出合い、造船事業の生産工程管理システムに携わっていました。その経験から外部で講師として講演をしていたところ、開催の遅れが懸念されていた1970年の大阪万博の関係者の耳に入り、「ぜひその生産工程管理の考え方を万博の準備に導入してほしい」と強い要請を受けたのです。
当時の日本では、転職は一般的ではありませんでしたが、勤めていた会社の社長から「国家事業を助けるつもりで行ってこい」と後押しされ、父は転職を決意。大阪のソフトウェア会社で大阪万博の開催に向けたプロジェクトに参画し、開催に貢献しました。
万博プロジェクトの終了後、オイルショックの影響もあり仕事がなくなったことを機に、当時、父が講師をしていたコンピューター専門学校の教え子たちと一緒に立ち上げたのが、日本システム技術の始まりです。
── 万博にオイルショック……時代を象徴する出来事の直後の創業だったわけですね。
平林 創業メンバーは皆、技術者でしたから、新しい技術でソフトウェアを開発することに大きな魅力を感じていました。「ソフトウェアが必ずこれからの世界に変革をもたらす」という熱い想いと情熱が会社の原動力です。
創業以来、一貫して資本系列に属さない独立系の会社として歩んできましたから、IT業界特有の多重下請け構造の末端、三次請けや四次請けといった立場からのスタートでした。しかし、特定のメーカーや技術に縛られない自由な環境で、業種業界を問わず、さまざまな開発に挑戦できたことが、結果的に当社の技術力を多角的に育むことにつながりました。
そして、当社が大切にしている経営理念が社員一人ひとりに浸透し、「人間力」としてお客様からの信頼を積み重ねてきました。この「技術力」と「人間力」の両輪で、53年間、着実に成長を遂げることができたと考えています。
「自分は社長の器ではない」……葛藤の末に受け継いだバトン
── そしていみじくも大阪・関西万博が開催されている2025年、事業承継をされました。どのような経緯があったのでしょうか。また、社長就任にあたってのご苦労などは?
平林 父が53年間社長を務めてきましたから、事業承継は長年の課題でした。私は1998年に入社しましたが、将来社長になることを約束されて入社したわけではありません。それどころか、もともとそのつもりは毛頭なく、入社前は富士通で6年間システムエンジニアとして充実した日々を送っていました。
当社に入社してからも、周りからは後継者と見られがちでしたが、私自身は創業社長である父のような強いカリスマ性があるわけでもなく、メンバーをぐいぐい引っ張っていくタイプでもない。社長というポジションは本来、自分の筋ではないのではないか、と社長就任が決まるまでの2〜3年は、ずっと葛藤していました。
── 気持ちが変化するきっかけがあったのでしょうか。
平林 大きな転機となったのは、1年前に行った合宿です。当社の長期ビジョン「JAST VISION 2035」を策定するために、各事業の次世代を担う40代から50代の幹部候補生が集まり、会社の未来について三日三晩、膝を突き合わせて語り合いました。
そこで、各事業のトップたちが、会社の将来を自分事として真剣に考え、夢や情熱を語る姿に心を打たれました。「この会社をさらに価値あるものにしたい」という強い想いが、ひしひしと伝わってきたのです。
そのとき、「このメンバーと一緒なら、彼らと横並びで一丸となって進んでいく形なら、自分にもトップが務まるかもしれない。やってみよう」と、初めて前向きな気持ちが芽生えました。
もちろん、今でも自分が社長の器だとは思っていません。しかし、事業部のトップたちが「一緒にやっていきましょう」と神輿を担いでくれた。彼らに支えられながら、新しいリーダーシップの形を築いていきたいと思っています。
認知度向上への挑戦。新社長就任を機に踏み出した新たな一歩
── 社長に就任されてから、特に課題と感じていることは?そしてそれに対してどのように取り組んでいらっしゃいますか。
平林 社長に就任してまだ数ヵ月ですが、長年の課題として「認知度の低さ」を痛感しています。IR担当として投資家向けの説明会に登壇するたびに、「事業内容はすばらしいのに、会社名を聞いたことがなかった」というアンケート結果を7割、8割の方からいただくのです。これは非常にもどかしいことでした。
そこで、社長就任というタイミングを逃す手はないと、これまで手薄だった広報・PR活動に本格的に着手しました。昨年、ようやく広報チームが発足し、社長交代を機にメディア向けの事業説明会を初めて開催するなど、積極的に情報発信を行っています。
単に社名を売るための広告ではなく、「どのような事業で、どう社会に貢献しているのか」を正しく理解していただいたうえで、当社の価値を知っていただきたい。時間はかかるかもしれませんが、事業の中身に根ざした認知度向上を目指していきたいと考えています。
多角的な事業展開が強み。未来を拓く4つのセグメント
── 事業内容について具体的に教えてください。特に大学向けパッケージ「GAKUEN」は、業界トップシェアを誇るそうですね。
平林 当社には現在、4つの事業セグメントがあります。まず、創業以来の中核事業であり、売上の約6割を占めるのが「DX&SI事業」です。お客様の要望に応じてオーダーメードでシステムを開発する事業で、特定の業種に特化せず、金融、流通、製造、教育、医療など、幅広い分野で実績を積んできました。この多角的な事業展開が、景気の変動に対するリスクヘッジとなり、当社の安定経営を支えています。
次に、このSI事業で培った知見を結集して生まれたのが「パッケージ事業」です。主力製品である戦略的大学経営システム「GAKUEN」は、入試から教務、就職まで、大学運営のあらゆる業務を網羅しており、現在では累計450校近くの導入実績を誇り、業界トップシェアを獲得しています。近年では、東北大学様にも、ほぼカスタマイズなしで導入いただくなど、製品力の高さが評価され、引き合いがますます増えています。
3つ目は「医療ビッグデータ事業」です。これは診療報酬明細書(レセプト)の点検を自動化するシステムから始まりました。この過程で蓄積された膨大なデータを活用し、現在では製薬会社の新薬開発支援や、健康保険組合向けの健康増進サービスなど、データ利活用事業へと進化しています。医療費の適正化という社会課題の解決に貢献する、非常に成長性の高い事業です。
そして4つ目が「グローバル事業」です。これら4つの柱が相互に連携しながら、当社の成長を牽引しています。特に、SI事業という安定した基盤を持ちながら、「GAKUEN」や医療ビッグデータといった独自の自社ブランド製品を持っていることが、同業他社にはない、我々の最大の強みだと自負しています。
「不易流行」の精神で、100年へ向けて
── 100年企業を目指すリーダーとして、社長ご自身が守り抜きたいこと、挑戦していきたいことを、聞かせてください。
平林 当社には「不易流行」という言葉を大切にする文化があります。時代が変わっても変えてはいけない本質的なものと、変化に対応して積極的に新しいものを取り入れていく、その両方が必要だという考え方です。
当社が守り抜くべき「不易」、それは社員一人ひとりの人間力を育んできた経営理念にほかなりません。これは私が社長になっても変えるつもりはありませんし、変える必要がないものだと確信しています。
一方で、これから挑戦していく「流行」の部分は、変化を恐れない勇気を持つことです。AIをはじめとする新しい技術の活用や、M&Aなども含めた事業拡大など、これからの成長には挑戦が不可欠です。先日発表した長期ビジョン「JAST VISION 2035」では、「誰もが知る課題解決企業」になることを目標に掲げました。現在の事業の延長線上だけではなく、新しい事業を自ら作り上げていく気概で、経営そのものを変えていきたいと考えています。
IT業界というと華やかなイメージを持たれがちですが、私たちは日本企業ならではの辛抱強さや、お客様に寄り添うひたむきさを大切にする、ある意味で古風な会社です。そうした古き良き心を胸に、これからも社会とお客様の課題解決に真摯に取り組みたいと思います。
- 氏名
- 平林 卓(ひらばやし たく)
- 社名
- 日本システム技術株式会社(JAST)
- 役職
- 代表取締役社長

