ヤシマ工業株式会社

創業は江戸時代後期の文化元(1804)年。時代の流れと共に柿渋、塗料、そしてコンクリートと扱う“モノ”を変えながらも、創業当時から大切にしてきた「建物を長持ちさせる」という“コト”を一貫して追求してきたヤシマ工業。

昨年は創業220年を期に、新たに『建物に、健康寿命を。』というパーパスを掲げ、次の時代へと歩みを進めている。

祖父が五代目、父が六代目の社長を務めた家に生まれながら、新卒では入社せず、建材メーカーや広告代理店を経た後に入社。10年近い葛藤の末に、2022年に7代目として代表取締役社長に就任した西松みずき社長に、220年の歴史を持つ企業の事業承継の舞台裏、独自の強み、そして未来への展望を聞いた。

西松 みずき(にしまつ みずき)──代表取締役社長
1979年、東京都出まれ。2000年、短大卒業後、建材メーカーに新卒入社。2004年から広告代理店での営業職勤務を経て、2008年ヤシマ工業に入社。2010年、取締役部長、2014年、常務取締役を経て、創業220年の歴史を持つ同社の7代目として、2022年、代表取締役社長に就任。
ヤシマ工業株式会社
創業は江戸時代後期の文化元(1804)年。時代の流れと共に柿渋→塗料→コンクリートと扱う“モノ”こそ変わったが、創業当時から大切にしてきた「建物を長持ちさせる」という“コト”においては何も変わっていない。マンションやビルの大規模修繕、建物診断、耐震補強、建物再生リノベーションといった事業を展開する総合改修工事会社として、創業以来、建物を長く大切に使う「壊さないことへの挑戦」を続けており、創業220年を期に『建物に、健康寿命を。』というパーパスを掲げた。
企業サイト:https://www.yashima-re.co.jp/

目次

  1. 創業220年。柿渋問屋から「総合改修工事会社」への変遷
  2. ヤシマ工業の真価。「建設サービス業」としての独自戦略
  3. 転機は出産。入社後は跡を継ぐという発想はなく……
  4. 日々ぶつかる「言語化」の壁。多様な現場をまとめる苦悩
  5. 「建物に、健康寿命を。」パーパス実現に向けた未来
  6. 古い建物にこそ価値を。建設業の魅力を次世代へ

創業220年。柿渋問屋から「総合改修工事会社」への変遷

── 創業220年とのことですが、これまでの事業の変遷と、独自の強みについて詳しく教えてください。

西松 創業は1804年、文化元年になります。私が七代目です。江戸時代は、現在のヤシマ工業という会社の業態ではなく、江戸の町にある商店でした。何を商っていたかと言いますと、「柿渋」(かきしぶ)という、当時はさまざまなものに塗られていた塗料の問屋として創業いたしました。

柿渋は、天然の柿を熟成させて絞った汁を発酵させたものです。これを木材や布などに塗り、強度を高めたり腐食を防いだりする塗料として使われていました。

江戸時代から明治時代頃まではその柿渋問屋として商いを続けていたのですが、明治に入り、海外からペンキと呼ばれる化学性の塗料が輸入されるようになり、私たちもペンキの扱いを始めました。

戦前までは商店としてさまざまな商品を取り扱っていましたが、第二次世界大戦中、当時お店があった業平橋(現在のスカイツリーのたもと)が、1945年の東京大空襲で被害を受けました。関東大震災も経験していますが、この空襲で店舗、自宅すべてを焼失してしまいました。

これをきっかけに、都内を転々と疎開しながら営業再開の機会を探り、ようやく営業再開ができたのが昭和24(1949)年です。先代は戦後の混乱期にたいへん苦労したと聞いています。

営業を再開した当時は、物資の不足や急激なハイパーインフレが起こっていて、ものを仕入れて売るという従来の商売がなかなか難しくなりました。そこで、戦後復興の工事などに少しずつ乗り出していったのです。

現在のヤシマ工業の形に一番近づいたのは、昭和40年代、高度経済成長期です。住宅不足が盛んに言われる中、国策として郊外に団地が次々と建てられました。その際、マンション(当時は団地)の塗装、そして防水などをやる工事業としてスタートしたのが、現在のヤシマ工業としての始まりです。

当時は新築団地の塗装などを手がけていましたが、今から48年程前に大きな転機が訪れます。当時、建設業と言えば新築が当たり前の時代でしたが、「今後、建てられた建物は間違いなくメンテナンスや維持修繕が必要になる」という先見のもと、建物の「改修工事」を専門にやる会社に舵を切ろうと決断しました。

そこから、まず「何が原因でこの劣化が発生するのか」という発生のメカニズムを考える「調査診断」のシステムを構築し、どういう風に改修すれば10年後、20年後に劣化がどう進むのかを予測するような技術開発を重ねました。

1970年代の経済成長を背景に、第二次・第三次マンションブームが到来し、民間分譲マンションの供給戸数が増加しました。そのような時代の流れを受けて、当社はマンションの維持管理やメンテナンスをお手伝いしながら、大規模修繕工事を中心とする事業を展開してきました。こうして培ってきた経験と技術を活かし、現在もマンションの大規模修繕工事が当社の主力事業となっています。ただ、現在はマンションの大規模修繕工事という分野に留まらず、古い建物を壊さずに新築同様の機能と資産価値を付加する「総合改修工事」まで手がけています。修繕だけではなく、古い建物の価値を再生させるというところにまで、事業の幅を広げている会社です。

ヤシマ工業の真価。「建設サービス業」としての独自戦略

── 事業の変遷がよく分かりました。その中で培われた、技術的な強みについてはいかがですか?

西松 一番の強みは、マンションの黎明期から、コンクリート(RC)の建物を新築時からずっと経過を見続けてきていることです。そのため、劣化のメカニズムや補修方法に関する“経験値”は、ヤシマ工業の非常に大きな強みです。

ただ正直に申し上げますが、この改修工事の中で、「この会社でしかやれない技術」というのは、なかなかないのも実情ではあります。うちでやれる技術は、他の会社でもできる、というのが現実です。

ただもう一つ、間違いなく強みであると断言できる部分があります。

この改修工事というものは、人がお住まいになりながら、またビルであれば運営しながら、飲食店なども営業しながら進めていくのがすべての基本になる、という点です。率直に申し上げますと、その対応には相当な手間がかかります。

お客様にとって、工事というのは非常にストレスがかかるものです。そのストレスを、私たちがいかに軽減できるような配慮やサービスを提供できるか。身だしなみや言葉遣いも含めて、ここを徹底してできるかどうかが、私たちの強みです。

その点、私たちは常日頃から、自分たちは建設業といえども「建設サービス業」であると考えています。お客様対応が6割、技術が4割、と言っても過言ではない。

たとえば、100世帯のファミリーマンションであれば、私たちにとっては400人のお施主様がいらっしゃると考えて配慮しなければなりません。そこには小さなお子様からご高齢の方まで、本当に幅広い方がお住まいです。

その中で、どういった配慮をし、どういった目線を持って工事を進めていくべきか。ここに関する技術開発も常に行なっているというところが、私たちの強みです。

転機は出産。入社後は跡を継ぐという発想はなく……

── 七代目とのことですが、それだけ伝統のある会社を引き継ぐ際には、たいへんなプレッシャーがあったのではないでしょうか?

西松 私が七代目、父が六代目、そして祖父が五代目という環境下で生まれ育ちました。ただ、おこがましくも帝王学のように、子供の時から「この会社を継ぐんだ」というような育てられ方をしたわけでは決してありません。

祖父からも父からも、「まずは自分に何ができるか、何がしたいかというところを、結構自由に考えてやってみたらどうだ」というようなアドバイスをもらっていました。実際に、短大を卒業して30歳近くまで外で働いていました。私の大きな転換期は出産です。今から18年前になりますが、当時は少しずつ「働きながら育児」という言葉が出始め、保育園の制度なども整い始めた時期ではありましたが、まだ状況は結構厳しかったのです。

子供を朝7時ぐらいに保育園に預けて、夜の7時、8時に迎えに行く、というような状況で働いてはいたのですが、それで私自身が体を壊したり、ちょっとこう、いっぱいになったりしてしまった時期がありました。

そのとき、当時社長であった父から、「どうせそんなに必死になって働くのであれば、家業のためにその力を尽くさないか」というような声がけをいただいて、今のヤシマ工業に転職という形で入社しました。

── 入社当初から、跡を継ぐと考えていたのですか?

西松 いえ、すぐに私がこの跡を継ぐのだというような発想には至ってなかったです。

ただ、ヤシマ工業に入ってみると、もちろん革新的な取り組みや会社の強い理念があることは分かっていましたが、一度まったく違う異業種から入りますと、私の目から見るとすごく異様なというか、「自分たちの常識が、世間の非常識ではないか」と感じる部分や、「もっとこうやったらお客様に伝わりやすいだろうな」「もっとこんな工夫ができるだろうな」と感じる部分が、実際に入社して感じるものとしてありました。

私はずっと営業職をやってきましたので、その営業的な観点で、お客様により伝わりやすい提案の仕方や説明資料、営業の組み立て方といったところは、自分で実績を出しつつ、いろいろとトライアンドエラーを繰り返しながら、社内改革を進めていきました。

そうするうちに、近くでやはり父の働く姿を見るようになりました。父は団塊世代でしたので、私が子供の時は寝た後に帰ってきて、起きる前には会社に行くような生活で、仕事の話はあまりしていませんでした。

しかし、30歳を過ぎて改めて父の姿を目の当たりにすると、やはり社員を、会社を、またその先にいる家族の幸せをと考えている姿がありました。振り返ってみれば、子供の時から父はそうだったなと。だからこそ、それに守られて、自分の自由な発想を伸ばして「好きなことをやってごらん」と言ってもらえていたのだということを、ヤシマ工業に入ってより感じるようになりました。

ただ、父も高齢になり、会社や社員たちを守りぬく立場に、ずっとはいられない。私もこの家業に生まれた者として、社員を、会社を、そしてビジネスパートナーと呼ばれる協力会社の方々の今と将来を守っていきたい、という思いが芽生え、ふくらみ、今に至ったわけです。

日々ぶつかる「言語化」の壁。多様な現場をまとめる苦悩

── これまでで最も大きな「壁」は何でしたか。また、それをどう乗り越えたのでしょうか。

西松  壁というか、「できないこと」は、本当に毎日のように感じています。20代の頃も毎日壁に当たっているような気はしていましたが、今40代後半になって感じると、それは結構、経験と年齢が解決するような壁であったなと。

ヤシマ工業に転職してから感じたのは、第一の壁として、営業の難しさでした。前職で売っていたものは、ブランドも含めてある程度メジャーなものでしたので、話をすると「あぁ、あれね」という形で理解してもらえました。

しかし、ヤシマ工業はまだブランドを確立できていませんし、しかも“形のない”商品を、お客様に何千万、何億というお金を出していただかなければいけない。

さらに、一人のオーナーが決めるのではなく、複数人の決済権者(マンションの理事会など)がいた上での、そこの調整やバランスをとりながら進める営業は、非常に難しいと感じました。

その次に感じた壁は、役職が上がっていくたびに、自分だけで解決できることが非常に少なくなることです。

また、これは一般的な参考にはならないと思いますが、私にとって一番の壁は、父が上司だったことです。甘えたことを言えば、「血がつながっているのに、こんなに伝わらないものか」というような苦しみ、悲しみ、どう言えば分かってもらえるのだろうか、というところもありました。

逆に、私もその血のつながりに甘えて、父の本当の想いというところを深く知ろうとしてなかったという反省が、今になってありますね。

そして今、社長になり、本当に毎日のように壁にぶつかっています。先ほど申したとおり、お客様のお宅やマンションの中で工事をしていますので、昨日も夜9時、10時になって「実はこんなことが、あんなことが」というようなトラブルの連絡が立て続けに入ってくることもあります。

すべて完璧を目指せればパーフェクトですが、やはり日々、ちょっとしたお客様とのご注意やトラブルがあるのも実情です。それを実際にお客様の最前線で対応しているのは、当社の現場代理人であり、そのもとで働いて下さる何十人ものビジネスパートナーさんたちです。

彼らが日々実現してくれているのですが、やはりそれを私たちがどういう表現をすれば、どういう言語化に持っていけば、どの層の人たち、またどの年齢の人たちにもわかるのだろうか、ということに悩んでいます。日々、「あ、これも伝わらなかったか」という形で、自分の言語力の少なさに反省しているところではあります。

── 現場の多様性も、その難しさに関係しているのでしょうか。

西松 そうですね。特に最近は、現場も「多様性」と言えば言葉はきれいですが、本当に、若い10代の人から、70代近くの方までいらっしゃいます。そして国籍も、やはり今は人材不足から日本人だけに頼っていられません。

そうすると、物事のとらえ方が、生まれ育ちも含めて全然違ったりするわけです。そこに対して、共通的に分かるような指導とか教育というのはどうすべきか。これはもう、なかなかすぐに解決できない悩みだと思います。

「建物に、健康寿命を。」パーパス実現に向けた未来

── そうした日々の課題に向き合われる中で、今後の事業展開についてはどのように考えていますか?

西松 昨年(2024年)が創業220年でしたが、それを迎えるにあたり、今まで掲げていた「壊さないことへの挑戦」というビジョンを続けた先に、自分たちがどうありたいかということを考え、『建物に、健康寿命を。』というパーパスを新たに立てました。

今、このパーパスのもとで私たちが何をできるか、何を考えなければならないかという形で進めていますが、現在ヤシマ工業が主でやっているこの「工事」という一つのファクターだけでは、『建物に、健康寿命を。』というパーパスのごく一部しか叶えられないと強く思っています。

このパーパス実現に向けて私たちがやれること、やらなければならないことは、「工事の技術力」というところを一番の強みにしながら、建物の将来を一緒に設計していけるような、コミュニティ形成やファイナンス、管理、そしてその管理に伴う法律、そういったものを含めてライフサイクルサポートを提供することではないかと考えています。

マンションという居住空間には、本当にさまざまな年齢、さまざまな国籍、さまざまな立場の方が住んでいらっしゃいます。昔は、「コミュニティが面倒くさいからマンションに住む」とも言われましたが、今になって、この「コミュニティがない」ことで、逆に荒廃につながることもあります。

ですので、私たちは、コミュニティ形成は、建物を守る上でも非常に重要だと考えています。コミュニティを形成していくために何をしていくか。世代交代を図っていくためにどういったコミュニティ形成をしていくべきか──。

そういったことまで含めて、関われるような会社になるために、今後の事業展開を考えています。

古い建物にこそ価値を。建設業の魅力を次世代へ

── 新たな事業を考えながら、どんな会社になっていきたいか、長期の展望についても教えてください。

西松 「古い建物こそ価値がある」と、私たちは考えています。

以前と比べて“新築信仰”が薄れてきた今の日本の社会であっても、まだ、ものの選び方として「新しければいいだろう」「新築のほうが安心だろう」という考えは根強くあります。

賃貸マンション、またマンション購入の際、ビルを見る際でも、やはり新築のほうが安全性が高いと考えて選択される方が多いように思います。

しかし、これから人口も減り、今後の社会情勢を考えていく中で、この古い建物にどうやって価値をまた与えていくかということが、非常に重要な仕事になります。皆さんの価値観も変えていただく必要があります。

日本のこの社会、またこのマンションやビルが活性化していくような、その一助となりたい、その力になりたい、というふうに考えている会社がヤシマ工業であります。

私個人としては、この建設業、非常に人手不足等々も言われている中で、今の若い方々が、この仕事にまた魅力を再発見していただいて、「この仕事かっこいいから就きたいな」と思ってもらえるような、そういう業界にしていかなければならないとも思っています。

私ができることは本当に小さいですが、その力となるような働きかけをできるように、これからもやっていきたいと考えています。

氏名
西松 みずき(にしまつ みずき)
社名
ヤシマ工業株式会社
役職
代表取締役社長

関連記事