世の中にはびこる「ニセモノ」を作り出しているのは、実はあなた自身です。人は、自分に都合のいい情報だけをピックアップし、不都合な情報は排除してしまう傾向があります。あなた自身を守るために、正しく取捨選択を行えるようにしましょう。

(本記事は、加谷珪一氏の著書『ホンモノを見分けられる人に、お金は転がり込んでくる!』ぱる出版(2017年7月8日)の中から一部を抜粋・編集しています)

マスコミはウソばかり報道している?

ホンモノとニセモノを区別できない人の多くは、両者を区別するテクニック以前に、世の中の仕組みについて誤解しています。マスコミ報道は、多くの人にとって最大の情報源となっていますが、報道に対する認識はその典型といってよいでしょう。近年、マスコミはウソばかり報道するという話をよく耳にします。

確かにマスコミ報道の中には、意図的かそうでないかは別にして、事実と異なるものが存在しています。しかし、マスコミが国民を騙すという明確な意図を持って、常にウソの情報ばかり流しているというのは、逆にマスコミの力を過大視しています。現実のマスコミにそのようなパワーはありません。マスコミがウソ、あるいは真実とかけ離れた報道を行う原因のほとんどは、読者が持っている潜在的な「願望」です。

筆者はジャーナリスト出身ですから、マスコミの実態はよく理解しています。確かにマスコミは報道という大きな責任を負ってはいますが、所詮は営利企業に過ぎません。お金儲けのために記事を書いているのであって、崇高な理想を追求するために仕事しているわけではないのです。良い悪いはともかくとして、まずはこの事実をしっかり頭に入れておく必要があります。

マスコミの記者や編集者は、紙媒体であれば何部売れるのか、Web媒体であれば、PV(閲覧数)がいくらになるのか、そればかり考えているのが現実です。

例えば、クルマの営業マンは、毎日、クルマが何台売れるのかばかり考えて生活していますが、基本的にそれと変わりません。彼等は、毎日たくさんの記事を書いたり、編集したりしていますから、どのテーマをどのようなストーリーで報道すれば、どれだけ数字が取れるのか熟知しています。

読者の中には無意識的に、このように報道して欲しいというストーリーがあり、読者はそれに合致する報道を無意識的に取捨選択しています。そしてマスコミ側もその傾向に沿った報道を増やしていきます。ここで大事なことは、すべてが無意識的に行われているという点です。本来でしたら数字など考えず、良心にのみ従って客観的な記事を書くのが使命なのかもしれません。しかし、先ほども触れたように、マスコミはただの営利企業ですから、どうしても数字が取れる記事に傾いてしまいます。

日本の技術や経済動向などに関する報道にはこうした傾向が特に顕著です。現在、東芝は米国の原子力事業の失敗や不正会計によって、倒産の危機に瀕しています。東芝の原子力事業がかなり良くない状況にあることは、以前からよく知られていました。またプロジェクト失敗の元凶となった米ウェスチングハウス社についても、東芝が買収した価格が高すぎることや、事業計画に問題があることは、当時から指摘されていたのです。

実際、筆者も今回の問題が発覚する以前に、東芝について何度かコラムを書いているのですが、ネガティブな内容のものは、正直なところあまり読まれませんでした。大問題に発展した今でこそ、東芝批判の記事はかなりのPVを稼ぎますが、以前はまったく逆だったのです。しかも、記事に対するコメント欄を見ると、「知識のないバカが書くとこうなる」「小学校からやり直せ」「よくここまでウソが書けるものだ」など罵詈雑言のオンパレードでした。

ちなみに筆者の肩書きは経済評論家ですが、大学の専攻は原子力工学でしたので、原子力問題については専門知識を持った人間の一人です。おそらく、罵詈雑言を浴びせている読者は、筆者の経歴などにはまったく目を通していないでしょうし、下手をすると記事すらほとんど読んでいない可能性があります。

つまり東芝という一流企業を批判している図式そのものが感情的に気に入らないわけです。こうした状況は理解しているつもりでも、ここまで批判されるとさすがに書く方も辟易してきます。しかも、その記事は数字があまり取れないのです。

幸い、筆者は投資やビジネスで成功しており、それなりの額の資産を保有していますから、数字の取れる記事を書かなければ生活ができないわけではありません。しかし、この業界にいる人が皆、筆者のような環境で仕事をしているわけではないはずです。

こうした環境下では記事の客観性よりも、まずはPVが取れることを最優先するジャーナリストが増えてきても不思議ではないのです。

学歴ロンダリングの裏に潜むもの

世の中には学歴ロンダリングという言葉があります。いわゆるスラングですので、明確な定義があるわけではないのですが、一般的に、学部で卒業した大学よりも偏差値の高い大学院に入り、自身の学歴をよく見せること、とされています。

抜群の成績を出している人よりも、新人で、学歴が高い人の方が将来のリーダーにふさわしいと見なされる傾向が顕著です。それだけならまだマシなのですが、日本の場合、まだ先があります。

高学歴の人は将来があるので、キャリアを傷つけないよう、成功が約束されている部署にしか配属しない会社さえあります。学歴が本当に潜在力を担保するものであれば、多少、厳しい部署に配属しても乗り切れるはずですが、そうではなく、高学歴者は優秀だという「仮説」が守られるよう、皆でお膳立てをしているわけです。

ここまでくると、かなり非科学的で宗教じみた領域に入っていると言っても過言ではありません。このような社会においては、高度な専門知識を大人になってから身に付けたかどうかよりも、若い時の単純な受験勉強でどれだけの成果を上げたのかが、より強く問われることになります。

いわゆる学歴ロンダリングの人は、本当は高い能力がないのではないか? そんな疑問があるからこそ、日本社会では否定的に捉えられることになります。しかし、冷静に考えてみると、この考え方はかなり異様です。出ていないのに、あたかも偏差値が高い大学を出た人のように「見せかけている」と周囲が批判しているわけです。

私たちは、普段、あまり深く考えずに「学歴」という言葉を使っていますが、そもそも学歴とは何を意味しているのでしょうか。

学歴の持つ意味については二通りの解釈があるといわれています。ひとつはこれまでに身に付けたスキルの証明という意味。もうひとつは、将来のポテンシャルを証明するという意味です。

諸外国では、学歴は身に付けたスキルを証明するものと見なされているケースがほとんどです。もし日本もそのような認識なら学歴ロンダリングという言葉はおそらく普及しなかったでしょう。

学歴がスキルの証明であるならば、大学や大学院を卒業し就職するにあたって、今、何ができるかが問われることになり、学歴は、今、何ができるのかを証明する手段でしかありません。しがって、学部と大学院の偏差値の違いなどほとんど意味がなくなってしまいます。しかし日本ではこうした認識はほとんどありません。

日本では学歴はスキルの証明ではなく、将来、高い能力を発揮することの保証としての役割を果たしています。多くの会社がそうだと思いますが、学歴はないものの、今、想像してみてください。若い時に受験勉強で高い点数を取ることができた人が、将来、高い能力を発揮すると見なされているということは、言い換えれば、将来を予見できると考えていることと同じになります。

未来のことなど、本当に予見できるのでしょうか? 予言者でもない限り、そんなことは不可能でしょう。「あなたは未来を予言できますか?」と質問すると、ほとんどの人が「とんでもない」という顔つきで否定するはずです。場合によっては質問した人に「少し頭がおかしいのでは?」といった印象を持つかもしれません。しかし現実の社会で多くの日本人がそれに近いことをやっているのです。

加谷珪一
経済評論家。東北大学工学部原子核工学科卒業後、日経BP社に記者として入社。野村證券グループの投資ファンド運用会社に転じ、企業評価や投資業務を担当。独立後は、中央省庁や政府系金融機関など対するコンサルティング業務に従事。現在は、経済、金融、ビジネス、ITなど多方面の分野で執筆活動を行っており、ニューズウィーク日本版(電子)、現代ビジネスなど多くの媒体で連載を持つ。億単位の資産を運用する個人投資家でもある