熟練技の宅配クリーニング~無料「おせっかい」サービス
夫婦二人で暮らす名古屋の小野さんのお宅に大きな荷物が届いた。出てきたのは一つ一つビニールのかかった衣類。今、利用客が増加している宅配クリーニングのサービスだ。小野さんは去年からこの宅配クリーニングを利用。すっかり気に入り、リピーターになってしまった。
その理由は、他のクリーニングサービスと全く違うからだという。出す前には小さなカレーのシミがこびりついていたご主人のワイシャツは、頼んでもいないのに真っさらに。有名ブランドのダウンコートは、元気のなかったファーがフワフワになって返ってきた。驚いたのがマフラー。クリーニングに出す前はタグの片方が外れていたのだが、これも特に頼んでもいないのに直っていた。極めつけは段ボールの片隅に。スーツのポケットに入れっぱなしだったハンカチが新品のようにきれいになっていた。
こんな細やかな気配りで、人気急上昇中の宅配クリーニング「リナビス」。取次店はなく、ネットだけのサービスだ。
そのサイトを覗いてみると、真っ先に現れるのが「おせっかい」という文字。タグ付けやハンカチの洗濯がその「おせっかい」にあたる。
さらに人気の秘密がリーズナブルな値段。小野さんが使ったのは10点で1万800円のコース。「普通のクリーニング屋だと1着ずつ値段が違うのですが、お得だと思います」と言う。ちなみにある大手クリーニング店に出すと、トレンチコート約3800円、ブランド物ダウン約8000円。今回出した10点なら合計で3万円かかる。
「リナビス」はおせっかいとお値打ち価格の2本柱でファンを獲得。スタートから4年で会員は5万人に迫る。
のどかな風景が広がる兵庫県西脇市。ここに「リナビス」を運営する東田ドライがある。地域の住民が相手の昔ながらのクリーニング屋さんだ。今も地元客の信頼は厚いが、売り上げは宅配クリーニングが8割を占めるようになった。
店舗からすぐの倉庫には全国から毎日、3000着もの衣類が届く。人気ブランド、「モンクレール」のダウンをはじめ、有名ブランドの高価な服がどんどん送られてくる。
倉庫で真っ先に行われるのはデータ入力。膨大な量のクリーニング商品の情報をこれで管理している。続いて20人のスタッフで検品作業。ここからが無料の「おせっかい」サービスだ。ニットの検品では毛玉をチェックし、機械で取る。ボタンの付け直しも始まった。穴が空いたニットをはじめ、この場で直しきれない物は、カードに状況を書き込み、別に待機している修繕チームに送る。
東田ドライは修繕のためだけに3人の縫製職人を置いている。修繕チームはどんな服にも対応できるように、400種類の糸と1000種類のボタンを揃えている。
女性社員たちが「見たら放っておけない集団なので」と笑う。「おせっかい」は、おせっかいなおばちゃんたちが始めたサービスだった。
昔気質の父親とネット世代の息子~古くて新しいビジネス
深夜2時、クリーニング工場の片隅で一人作業に当たる男がいた。やっていたのはシミ抜き。東田ドライ社長・東田勇一(58)だ。洗濯機を回すのは朝から。その前に、一人で毎日300着ものシミを抜く。
シミ抜きに使う溶剤は約10種類。シミの種類や生地に応じて使い分けている。あとは蒸気を吹き付けて落とす。圧力の調整はペダルで行う。東田はこの道37年。この技術では右に出る者がなく、全部一人でやっているのだ。
「高価な物もあれば普通の低価格の品物もありますが、同じ気持ちで扱うのが一番。愛着のある服をクリーニングに出しているのですから」(勇一)
朝8時、様々な工程を経てようやく洗濯が始まる。ここで行われているのはドライクリーニング。水で洗うのではなく石油系の溶剤で洗うやり方だ。水に比べて衣類の繊維への負担が少なく型崩れしにくいメリットがある。デリケートな衣類もドライなら洗えるのだ。
さらに洗い終わった衣類の乾燥にもこだわる。一般的にクリーニング店ではドラム回転式の乾燥機を使っているが、東田ドライが使うのは服を傷めない、衣類を回転させずに温風で乾燥させる静止乾燥機。上のフロアでは田舎ならではの広いスペースを活かし、24時間がかりの自然乾燥も行っている。
仕上げはアイロン。5人の女性達が作業に当たっている。中心はキャリア40年以上といういずれ劣らぬ大ベテランたち。最古参は勤続48年の藤原。その仕事ぶりは誰にもまねできないという。
「手もアイロンの一部なんです。アイロンだけに頼るのではなく、手で伸ばすのもひとつの方法だから」(藤原)
東田ドライの品質は、こうした多くの職人達の熟練技によって支えられているのだ。
一方、宅配サービス「リナビス」の生みの親は、勇一の長男、専務の東田伸哉(28)。5年前から経営は伸哉が担当。現在、東田ドライは7つの店舗を展開するチェーン店だが、「従来の店舗型のクリーニング屋はどこも売り上げが下がっている状況です」(伸哉)と言う。そんな中で伸哉は、「おせっかい」を売りにした宅配クリーニングのサービスを立ち上げたのだ。
「おせっかい」の中には「無料6ヶ月保管」というサービスもある。広いスペースで最長半年、無料で保管してくれ、客から大好評。利用者にしてみれば次に使う季節まで預かってもらえ、しまう手間も省ける。ちょうど必要な頃に送ってもらえるので、まさに願ったりかなったり。
店舗型クリーニング店への不満は数多い。「衣類によって断られる」「店員が少なく並ぶ」「安いというわりに『シミ抜き』などがついて高くなる」「重くて持っていくのが大変」「シミや汚れが取れていない」……。そんな不満を、東田ドライはおせっかいな宅配サービスで解消した。
その結果、注文は増えて従業員は3倍に。じり貧だった売り上げも、宅配が軌道に乗ったこの3年で一気に伸びた。
隆盛を極めたクリーニング~利用者減でお家騒動?
東田の自宅は工場の隣の一軒家。夜中の12時過ぎに起きる社長の勇一が仕事を終え、上がってくるのは午後2時頃。早い夕食ではワインを1本。これが楽しみだと言う。
伸哉の家族も一緒に住んでいて4世代が同居している。孫を抱くのは勇一の母親、はつみさん(84)。彼女も70歳ぐらいまで東田ドライで仕事をしていたという。今は和やかな一家だが、ここに至るまでには嵐の時もあった。
創業は1963年。勇一の父、東田勇が夫婦で始めた小さなクリーニング店だった。時代は高度経済成長の真っ只中。ファッションも花盛りでいろいろなブームが起こり、全国にクリーニング店が急増。東田ドライもその波に乗り従業員を増やし、業績を伸ばした。
現社長の勇一は後継ぎ息子として育てられ、1980年、21歳で入社。クリーニング人生を突き進む。父親が病に伏せたこともあり、20代後半には経営を任されるように。しかし職人気質の勇一は現場にこだわり続け、経営よりもシミ抜きなどの、技術磨きに没頭した。
「もちろん経営も大切ですが、『あそこに出せばきれいになる』というイメージがない限り、お客さんはついてこない。『こんなのだったらもういい』となったらアウトだから」(勇一)
東田ドライは丁寧な仕事と細やかなサービスで客をつかみ、店舗も兵庫県内に12店を構えるまでになった。
しかしそんな人気店に12年ほど前から暗い影が差し始める。原因の一つがファストファッションの台頭。2000円、3000円の服をクリーニング店に出そうとは思わない。
さらに家庭用洗濯機が進化し、なんでも家で洗えるようになっていく。これがクリーニング店離れに拍車をかける。結果、全国のクリーニング店が次々と店を閉める事態に陥った。そんなクリーニング業界冬の時代に入社してきたのが勇一の息子、伸哉だった。
伸哉は、入社から1年間はあらゆる業務をこなし、仕事を覚えた。私生活ではこの時期に結婚。そして新婚旅行で行った南の島が転機となる。
「またこんな旅行がしたいけど、来れるんだろうか?」と、初めて会社の経営状態が気になった伸哉は帰国後、ある物を確かめた。東田ドライの決算報告書だ。年間の売り上げが1億5200万円。当時は10店舗を展開。もっと売り上げがあるものと思い込んでいた。
「僕のイメージではその5倍ぐらいあると思っていた。もっと驚いたのは、利益が出ておらず赤字だったということですね」(伸哉)
なんと800万円を超える大赤字。経営は危機的状況と言えた。
「何か変なことにお金を使って利益が出てないのではなく、真っ当に作業を一生懸命やっていて利益が出ていない。これは本当にまずいと思いました」(伸哉)
伸哉は父親に噛み付き、そして大きな決断をする。入社2年目にして、ある日の朝礼で従業員に「今日から僕が父に代わって経営をする」と宣言したのだ。
「若者ならではの根拠のない自信はありました。実力はなかったです」(伸哉)
800万円の大赤字から、「おせっかい」でV字回復
とにかく今までやっていなかったことを始めよう。伸哉が目をつけたのが、当時、出始めていた宅配クリーニングだった。ネットにはすでに様々な売り文句が飛び交っており、早速ホームページを立ち上げたが、何の特徴も打ち出せず、注文はさっぱりだった。
「何がいいかがお客さんに伝わらないことが問題なので、社内を見るようにしました。お客さんは何を望んでいるのかな、と」(伸哉)
あらためて自分の働く会社を見つめ直し、アピールポイントを探した。そんなある日、見かけたのが、「せっかくきれいになっても、ボタンがなかったら困るでしょう」と、無料でボタン付けをしている女性社員の姿だった。
東田ドライの最大の売り。それが、「頼まれなくても、お客のためにできることはする」という“おせっかい”だったのだ。伸哉はすぐにホームページを作り直す。職人の優れた技術やおばちゃんたちのきめ細かいおせっかいサービスを前面にアピールすると、月ごとに4倍、5倍と、注文が爆発的に増えた。
最初は喜んでいたが、そのうち、にっちもさっちも行かなくなる。大量受注に対応しきれなくなったのだ。
ある朝、倉庫に行くと中に入りきらない洗濯物があふれていた。途方にくれる伸哉に「任せなさい。20年前はこのくらい普通にやっていたわ」と言ったのは、40年以上いるおばちゃんたちだった。最古参の藤原も、当時、伸哉を励ました一人。
「それはもう(伸哉は)我が子のようなものだから、あんたがそこまでするのだったら、できるだけ頑張らせてもらう、と」(藤原)
おばちゃんたちは自ら残業を買って出て、大量の洗濯物を次々に洗い上げていった。伸哉もすぐに動き、新たに従業員10人を採用。こうして危機を乗り切った。
クリーニング業界を活性化~常識破りの新たな一手
衣替えの時期になると発生するのが、注文が増えすぎて対応を待ってもらわざるを得なくなる事態だ。そこで東田ドライが打った新たな手が、他のクリーニング工場との提携だった。
「1ヵ所で毎日2700着を処理していて結構な規模になるのですが、これ以上やるには何社かの工場で分散するほうが、拡大のスピードも速い」(伸哉)
話を進めている相手の一つが「神戸ランドリー」だ。西脇市を始め、兵庫県内に8店舗を展開する東田ドライの昔からの、いわば商売敵。東田ドライと同じ同族経営で、現在の田中文三社長は3代目だ。
工場には10人の従業員が働いている。そのスタイルは東田ドライとよく似た職人の丁寧な手仕事が中心。この技術力が最大の魅力だ。
「設備も弊社と近いシステムを導入されていますし、高級な洋服を扱っても問題が出ない機能が揃っていますので」(伸哉)
ただし、提携するとなれば東田ドライの実践する「おせっかい」なサービスもやってもらわなければならない。
伸哉はそこも交渉済みだった。普段、有料でやっているボタン付けは無料にしてもらい。シミ抜きも無料に。東田ドライと同じく社長がシミ抜きの名人で技術的な心配もない。 「『おせっかい』という意味では、しっかりやっていかないといけないと思っています」(田中社長)
こうしてこの6月から洗濯物の一部が「神戸ランドリー」に回ることとなった。
「神戸ランドリー」とっても、閑散期にも商品が入ってくるのは大きなメリットとなる。目指すはウィンウィンの業務提携。先の見えないクリーニング・ビジネスで、伸哉は新たな活路を開くことができるだろうか。
~村上龍の編集後記~
収録後、幸せな気持ちになった「クリーニング屋さんはいい人が多いですよ」。伸哉氏の言葉だ。「預かり物は、自分のものやと思ったらええんです」。勇一氏。
「東田ドライ」はインターネットとクリーニングをほぼ理想に近い形で結びつけた。
だが、自らの強みに気づくのは簡単ではない。ふと思いつくようなものではない。
ずっと続けられてきた暖かなサービスと培われた高い技術は、親子に深く刻まれていて、それが危機を救った。
クリーニングされた衣服を着るとき、いい気分になる。収録後の幸福感は、その気分と同じだった。
<出演者略歴>
東田勇一(とうだ・ゆういち)1980年、21歳で東田ドライ入社。2013年、社長就任。
東田伸哉(とうだ・しんや)2012年、中京大学卒業後、東田ドライ入社。2014年、「リナビス」開始。
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