日本人のマスク姿のはじまり

大規模感染症対策
(画像=PIXTA)

冬になって日本人がマスクをする姿は、海外の人々の眼には異様に映るらしく、インターネット上では、日本は大気汚染がそんなにひどいのかといった誤解に基づくコメントを良く見かける。最近は国民病とまで言われる花粉症対策としてマスクをする人も多いが、インフルエンザや風邪対策でマスクをする人が多いのではないだろうか。筆者の家族も、毎冬インフルエンザが流行し始めたと聞くと、あわててマスクをして電車に乗るようになる口である。

1918年~20年にかけて世界中で流行したスペイン風邪を題材とした本である”Pale Rider”(注1)に最初に出てくる写真には「大流行の際に予防のためにマスクをつけた日本の女子学生1920年」という説明が付いている。日本で人々が外出するときにマスクをするようになったのは、スペイン風邪が流行した際に予防策として政府が推奨したためだというのは、感染症対策の専門家の間では常識のようだ。

さて、スペイン風邪は普通のカゼではなく、A型インフルエンザH1N1亜型だったということが分かっている。当時は1876年にコッホが炭疽菌の純粋培養に成功して感染症が病原性細菌によって起きることが証明されてまだそれほど年月も経っておらず、インフルエンザがウイルスによって引き起こされるということは知られていなかった。細菌よりはるかに小さいウイルスの姿が電子顕微鏡で確認されるのは、スペイン風邪の大流行が去ってからしばらくたった1935年のことだ。上で紹介した本によれば、爆発的な感染の拡大を防止するために大規模な集会を抑制するといった対策には激しい抵抗があり、正体不明の病気の拡大がおさまることを祈る集まりが逆にインフルエンザの感染拡大に繋がってしまったという。

歴史を形作ってきた感染症

第一次大戦後のパリ講和会議でドイツに過大な賠償金が課されたのは、これに批判的だったウイルソン大統領がスペイン風邪に感染して体調を崩していたことも影響しており、スペイン風邪は第二次世界大戦の遠因とも言える(注1)。また、ジャレド・ダイアモンドは、フェルナンド・コルテスがアステカ帝国を、フランシスコ・ピサロがインカ帝国を滅ぼしたことには、天然痘が欧州から1520年頃に新大陸に持ち込まれて全く免疫のなかったアメリカ大陸の人々が感染し多くの死者を出したことが寄与しているとしている(注2)。欧州諸国がアフリカやアメリカ、オーストラリア大陸を支配するようになる過程で、欧州から持ち込まれた病原菌が大きな影響を与えたということだ。歴史に名が残る人物たちが動かしてきたと思われている世界の歴史は、実は病原菌によって動かされていたというのは驚きだ。

かつてはスペイン風邪による死者は世界で2000万人程度とされていたが、より新しい推計では、死者は5000万人~1億人とされ、第一次世界大戦の死者1700万人を上回り、第二次世界大戦の死者6000万人や両大戦の死者の合計をも超えていた可能性がある。日本の死者も、従来は38万人程度とされてきたが実際にはもっと多く、少なくとも45万人程度と見られている(注3)。20世紀最大の惨事といえば、多くの人が第二次世界大戦をあげるだろうが、死者数でいえばスペイン風邪だったという可能性が高い(注1)。

危機管理は大丈夫か?

グローバル化によって人の往来が活発になった現在では、水際で感染者の入国を食い止めるのは難しい。飛行機で移動する場合には、海外で感染しても入国時には発症していないことも多く、その場合には発見するのはほとんど不可能だ。WHOから、日本では「はしか(麻疹)」は排除状態にあると認定されていたのだが、2018年に入ってからも、はしかに感染していた海外からの旅行者が、日本国内で立ち寄った商業施設や飲食店などの従業員や利用客に感染を広げるという事例があった。

2005年に東南アジアで猛威を振るった高病原性鳥インフルエンザH5N1亜型や、2012年に初めて患者が見つかったMERS(中東呼吸器症候群)では、幸運なことに日本国内で感染者が出ることは無かった。しかし、2002年冬から2003年夏にかけて中国南部を中心に感染が広まったSARS(重症急性呼吸器症候群)では、日本国内では感染者は出なかったものの経済に影響を与え、回復が続いていた景気は一時停滞に陥った。大規模な感染が広がれば多くの人命が失われることになる恐れが大きいだけではなく、経済的に大きな混乱が起こることも避けられない。

果たして、スペイン風邪と同じ程度の、国民の四分の一が感染し、2%が死亡するというような事態に日本は対応できるだろうか?大流行対策は「医療ではなく、国家危機管理の問題」とも言われる(注3)が、法律や制度、組織体制は十分なのか?1998年に伝染病予防法等を統合する形で感染症予防法が制定されたが、2009年に新型インフルエンザが世界的に流行した際に十分な対応ができなかったことから、2012年には「新型インフルエンザ等対策特別措置法」が制定されている。

喉元過ぎれば熱さを忘れるということわざがあるが、自然災害や事故などでも我々は問題を忘れやすく、必ずやってくる次の災難への備えを怠り勝ちである。それぞれの家庭でも、地震や風水害への備えにもなることでもあり、まずは非常用の水や食料、医薬品などのチェックから手を付けてみてはどうだろう。少し慎重過ぎるくらいの対応を行う方が正しいということになるだろう。

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注1:Spinney, Laura, ”Pale Rider; The Spanish Flue of 1918 and How It Changed The World”, Hachette Book Group (2018)
Pale Riderは、蒼ざめた馬に乗った騎士のこと。ヨハネの黙示録に出てくる四人の騎士の一人で、死神であるとされる。
注2: Diamond, Jared, “Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human Societies”, Norton(1997)、 (邦訳「銃・病原菌・鉄」草思社文庫2012年)
注3:「強毒性新型インフルエンザの脅威」岡田晴恵編(藤原書店2006年)

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櫨浩一(はじ こういち)
ニッセイ基礎研究所 経済研究部 専務理事 エグゼクティブ・フェロー

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