経済財政白書は、人材育成について分析した部分が興味深い。人材投資に割いている時間(機会費用)が、日本では少なく、それが主要国との生産性格差になっている。また、OJT が中心の人材投資には、年長者に手薄になっていくとの弱点もある。リカレント教育の意義はそこにある。
働き方と生産性
そしてSociety5.0 をテーマに取り上げている。その内容には極めて示唆に富むものもあるので、筆者なりに興味が持てるところを紹介してみたい。
近年の経済財政白書は、アベノミクスの宣伝が目に付き、分析の斬新さが失われたといわれて久しい。確かにその通りだと思うが、単なる政治的スローガンだったものを定量化して分析・理解しようとしている点は重要な役割とみることはできる。特に、働き方改革の中身は、これまで筆者が疑問視するものが多かった。働き方改革と生産性の関係があいまいなところは、ずっと喉に刺さった魚の骨のようであった。白書は、それに答えようとするものである。
分析で日本の生産性の低さについて注目しているのは、定型業務の多さである。労働者が行っている定型業務の集約度は、OECD26 か国で比較すると、日本が8番目と多い。日本の労働者は、非定型業務にあまり集中して仕事をしていないという結果だ。
白書は、国際比較をした結果、仕事でIT を使う頻度が少ないほど、定型業務が多くなる傾向を発見している。そして、日本はIT 化して定型業務を少なくするプロセスが進んでいないとする。事務補助員などを中心に定型業務が残っていることが生産性の低さにつながっている。今後、IT 活用の延長線上でAI 技術を通じて定型業務が自動化されることが、生産性上昇に向けて期待される。
白書では、日本で定型業務のAI 技術による代替が進むと、定型業務の多い女性が影響を受けるとする。国際比較では、日本は男性よりも女性に定型業務が多くなっているからだ。そのときは、女性の能力開発が課題になると言っている。その場合には、現状、非正規を中心に定型業務に就いている割合の多い女性を非定型業務にシフトさせることになる。
白書の理解は、なぜ、日本の定型業務が各国に比べてIT 活用が進んでいないのかという理由にはほとんど踏み込んでいない。そこでAI を利用すると生産性が上がるとは単純に議論を進められないはずだ。
筆者の推察では、パート等の人件費が安く、IT 化のコストが高くつくからIT 活用が進まないという仮説を立てる。その場合、AI 技術のコストが大きく低下しなければ将来も定型業務は残ってしまう。また、白書の議論は、AI の進歩によって定型業務の従事者が仕事を奪われるという議論とは180 度反対である。そうした意味で女性が仕事を奪われないように、AI 普及に対してAI ができない仕事にシフトさせていかなくてはいけないという意味もあるだろう。
人的資本投資
人材に投資すると生産性が上がるというのは、わかりやすいロジックである。しかし、それがどのくらいの数量で表現できるかは難しい。白書はその点を定量化している点で興味深い。
人材投資・教育投資は、経済学用語で人的資本への投資とされる。白書では、この投資を労働者がOJT やOFF-JT を費やした時間の機会費用としている。企業が労働者に対して教育投資をしている時間は生産活動に従事できないので、そのコストが投資額となる。1人当たりの人的資本投資額は、2016年度で約28 万円。総労働時間の12%がOJT・OFF-JT に割かれている。この28 万円の中には、外部機関に支払う訓練費用も含まれる。しかし、そうした直接費用を支払う投資は、全体の3%と非常に少ない。むしろ、OJT の機会費用が64%と多い。日本の人的資本投資は、OJT の割合が他国よりも大きい。
白書では、企業の人的資本投資が粗付加価値に占める割合を国際比較している。OECD 諸国では、日本は19 番目と低い。日本は、製造業4%程度、非製造業3%程度である(図表1)。
では、人的資本投資を増やすと、生産性はどのくらい高まるのか。白書は、平均的に1人当たり人的資本投資を1%ほど増加させると、0.622%の労働生産性上昇が得られると試算している。この弾性値は一般の読者には少し理解しにくいだろう。そこで、少し変形して説明してみたい。まず企業は総労働時間の12%をOJT やOFF-JT に使っている。これは1人当たり人件費を100 として、12 が人的資本投資に使われていることになる。この12 の人的資本投資が10%ほど増えると、その増分は1.2 となる。生産性は、1人当たり人件費÷労働分配率※=100÷0.541=184.6 となる。これが6.22%(=10×0.622)ほど増えると、11.5(=184.6×6.22%)である。1.2 の人的資本投資の増加によって生産物が11.5 も増えることはかなり大きな増加だと理解できる。
※財務省「法人企業統計季報」では2017 年度の全産業の労働分配率は54.1%である。
さらに、日本が米国並みに人的資本投資を増やすとどうなりそうかを試算してみた。日本の粗付加価値に占める人的資本投資は、製造・非製造を加重平均して3.2%となる。米国の加重平均値は5.8%である。今、日本が5.8%へと人的資本投資を増やすと、実額は1.80 倍にもなる。人的資本投資1%に対して、生産性は0.622%の上昇となるから、人的資本投資を1.80 倍にすると、生産性は50%も上昇する計算だ。
実際、2016 年のOECD データでは、米国の1時間当たりの生産性は日本の1.51 倍もある。つまり、日本の人的資本投資が少ない点が、米国との生産性格差のほぼすべてを説明してしまう。
なお、人的資本投資の弾性値0.622 は、全体平均である。白書の推計では、上位から下位まで十分位ごとの弾性値を計算している(図表2)。その結果は、すでに生産性の高い上位10%の企業は、人的資本投資の弾性値が0.459 と低いが、下位10%の企業は弾性値が0.741 と高い。サービス産業では生産性が低いことが知られている。雇用形態も非正規のウエイトが高く、人的資本投資が少ない。そうした分野で、スキルを習得して高付加価値化することは、生産性上昇に役立つ。
なぜ、リカレント教育なのか
わが国における人材投資の弱点はどこにあるのだろうか。ひとつは時間・金額が少ないという点だ。2016 年の一般労働者の月間労働時間から割り出すと、1人平均1.0 時間/日をOJT など訓練・教育に当てている。この時間をもっと長くした方がよいという指摘だ。確かに、1990 年代に比べて、企業内のゆとりは失われて、年長者が若手を指導する機会は格段に減った。若手を指導する役割を持たない年長者も多くなった。ゆとりのなさが、人材投資を手薄にした面はある。
もうひとつ、日本の人的資本投資はOJT の割合が高いことによる偏りもある。OJT は、年長者よりも若い人に集中する。裏返して言えば、年長者は投資を受けにくくなり、生産性が高まりにくい。仮に、社内の技術・知識が陳腐化すると、OJT では十分なスキルが得られにくいという弱点もあろう。
こうした状況を変化させるには、外部教育機関による専門教育を年長者が受けることが対案である。白書によると、日本は90 年代以降、外部の直接投資額は減少傾向に向かい、各国比較でも低水準になったとする。
リカレント教育は、年長者が手薄になった人材投資を補うものとして注目される。日本はG7 諸国の中で健康寿命が最も長いのに、年長になると条件の良い就業機会も減り、働くことで活躍する場が乏しい。日本は、人生100 年時代を標榜し、年長者や高齢者の労働参加を呼びかけているのだから、高齢期においても学び直しによって、働く機会を得ようという備えがもっと支持されてしかるべきだ。
白書が面白いのは、単にリカレント教育を叫ぶのではなく、具体的な内容をどうにか調べようと努力している点だ。まず、自己啓発として行われているものをリストアップする(図表3)。
自己啓発には様々な内容があるが、実践している人の割合が少ない通学(大学・大学院、専門学校・職業訓練学校)の効果が大きい。通学は、就業者の場合、月47.8 時間の時間を使い、月5.8 万円の負担を負うことになる。その代わりに、2年後の年収は29.4 万円も増える。通学は他の自己啓発よりも、投資額が大きく、その見返りも大きい。通信講座は、時間的・金額的負担は通学の約半分だが、年収押し上げの効果も約半分になる。
実は、企業の方でも労働者の自己啓発を歓迎している。白書では独自調査で、自己啓発を実施した労働者の処遇に自己啓発が反映するのかを尋ねたところ、52.6%が「ある程度反映する」と回答している。「あまり反映されない」は24.9%、「ほとんど反映されない」は16.8%である。また、自己啓発を支援する制度は、53.6%の企業であるという。残りの企業でも制度がないが、検討中は18.1%となっている。この結果は、リカレント教育に企業は割と好意的なのに、労働者の側に制約があることを伝えている。
学び直しを行ったことのない社会人に対して実施された文部科学省のアンケート調査では、①費用が高すぎるが37.7%、②勤務時間が長くて十分な時間がないが22.5%、③関心がない、必要を感じないが22.2%となっている。費用の制約を除くと、時間的制約がリカレント教育の普及を妨げている。労働時間が1%減少したときの生活時間に対する効果を調べた分析では、「買い物時間」が増えるが 首位だったが、次いで多いのは「自己啓発時間」だった。働き方を直し、生活時間を変えると、リカレント教育が増えていくだろうと考えられる。
ただし、残された問題として、年長者がリカレント教育にうまくアクセスすることができるかということがある。年長者に対してOJT の機会は少なくなる。20・30 歳代は多くても40・50 歳代では減っていく。中高年者の時間的余裕はできても、仕事に向けてもう一段スキルアップをしようというモチベーションは高まりにくい。これは、年功制の欠点とも言える。日本的雇用では、生産力に対して年長になると割高の賃金が支払われるので、能力を高めて賃金を増やそうとする取り組みに熱心でなくなるという見方もある。人的資本投資の対価が、年長になって後払いされるという理解である。だからこそ、定年延長で賃金が急に下がると、さらにモチベーションが下がる。
最近は、50 歳代のシニア・サラリーマンが再就職を見据えて、語学や経営知識を修得する動きが始まっていると聞くが、まだマイナーな事例であろう。今後、そうしたニーズを開拓して、教育機関とうまく連携してリカレント教育の受け皿を整備することが重要になる。
最後に、リカレント教育の受け入れ側である大学の問題もある。大学が魅力的な教育サービスを提供できているかという課題である。大学の質の充実は必要だし、企業のニーズと相当にかけ離れていると思う。優秀な人材は米国へと流れていく。日本の大学は、米国と競争しているという意識を持ち、頑張らなくてはいけない。(提供:第一生命経済研究所)
第一生命経済研究所 調査研究本部 経済調査部 首席エコノミスト 熊野 英生