9 月10 日に自民党総裁選が告示された。安倍首相と石破元幹事長が一騎打ちの格好となっている。石破氏は、国民所得を引き上げる必要性を訴える。対する安倍首相は、生涯現役という方針を明らかにして攻める姿勢をみせている。9 月20 日の投票に向けて前向きな政策論争が期待される。

石破氏の攻め方

 自民党総裁選挙が告示されて、安倍首相VS 石破候補の論戦が始まった。9 月10 日の共同記者会見では、2 つの経済政策の違いが改めて示されることとなった。ポストアベノミクスを標榜する石破氏が、どんな対案をぶつけてくるのかに筆者の関心は集中した。

 まず、その点を整理すると、石破氏は国民所得を引き上げる必要性を連呼した。企業収益は過去最高益なのに、国民所得は伸びない。労働分配率は43 年ぶりの低水準であり、給与に収益が回りにくい現状があると指摘する。個人を豊かにする生産性上昇とは、企業収益ではなく、付加価値を上げる働き方改革が求められると強調した。

 こうした見解は、全く正論である。筆者も何も反論するところはない。安倍首相は、新三本の矢でGDP600 兆円を目標に掲げて、実際にプラス60 兆円を就任後に増やしたという実績を紹介している。しかし、安倍首相が様々なところでアベノミクスの実績として、賃上げや所得増をアピールするにもかかわらず、石破氏のように、「もっと国民所得の増加を目指したい」という主張が挙がってくるのは、賃上げの据野が狭く、かつ賃上げのペースが実感を伴うくらいに強くないからであろう。

 一口で表現するならば、アベノミクスに対する恩恵が、実感や手応えといった感覚的なレベルで国民の間に伝わっていないからであろう。石破氏は、そこをアベノミクスの弱点として突いた。地方や中小企業という主体にフォーカスを当てた石破氏は、アベノミクスの恩恵が地方や中小企業に及んでいないことを問題視している。雇用者所得とは言わないで、国民所得という言葉を用いているのは、カテゴリーの中に自営業者や年金生活者、中小企業経営者といった人々を含めて、所得拡大を目指したいと言いたいからだろう。

国民所得の引き上げの理屈

 さて、肝心なことはどうやって国民所得を上げるかである。石破氏に任せれば、安倍首相には十分に実現出来なかった賃上げや幅広い所得増が可能になるというのか。

 石破氏は、「地方、中小企業、農林水産業にはまだ伸び代がある」と話を締め括った。残念ながら、この言葉はレトリックであり、方法論ではない。肝心なところで石破氏は、理から情へと政策論争の焦点をぼやかしてしまっている。地方や中小企業の所得低迷は、必要な政策を安倍政権が怠っているから起こっている訳ではないから、対案として方法論を示さなくては、伸び代を伸ばせるという考え方を信じられない。

 賃上げについても、政府がお願いするのではなく、給料が上がるメカニズムをつくると語っていた。

 具体的にそれが何なのかは、石破氏から語られていない。消費税の増税についても、国民所得が上がれば、増税に耐えられる経済環境ができると言う。こちらも、具体的に国民所得をどうやって引き上げるのかが明言されていない。

 安倍政権下での賃上げ促進は、2014 年度からもう5 回目の春闘を迎えている。1 回ごとの効果は大きくないとしても、じわじわと賃上げペースを高めている。2018 年の賃金上昇も、過去からの累積効果として少しずつプラス幅が拡大している。安倍政権における賃上げ促進は、数々の消えていった政策メニューの中で成功している方である。事前に賃上げを心配していた企業経営者から、5 年連続で賃上げをした結果、国際競争力が落ちたとか、固定費増が収益体質を脆弱にしたという話は聞いたことがない。政治は過度な介入をすべきではないとしても、賃上げに対して、企業経営者の心理に漠然とした不安があり、放っておけば賃上げを最小限に抑えたい心理バイアスが働くことを知っておく必要があろう。この点がまさしくデフレ予想であり、賃金・物価が伸び悩んでいる原因である。

 2017 年10 月の衆議院選挙では、野党からは、「資金を賃上げ・設備投資に回さないのならば内部留保に課税してしまえ」という乱暴な対策が発表された。税制を使って、賃上げを側面支援するアイディアはあってもよいと思うが、懲罰的な税制は企業の自由を歪める点で反対だ。

 企業が根強く抱いているデフレ予想に対しては、企業がお金を使いたくなる投資案件を増やして投資行動を積極化させることが対策となる。東京五輪を機に日本経済がグローバル化するのはひとつの契機であろう。アベノミクスの成長戦略も、企業に投資を増やしたくさせるための政策パッケージであったはずだ。

 ここ数年のアベノミクスは、そうした初心を忘れて、財政資金を様々な人々に給付する社会政策へと軸足を移した。全世代型支援と言っているのは、成長戦略ではなく、社会保障の拡大策だ。多くのビジネスマンや経営者は、安倍首相の心が、2013・2014 年の頃の成長戦略から離れてしまっていることに気付いている。もしかすると、国民所得の上がり方は、安倍首相が初心を貫いていればもっと大きかったかもしれない。

 残念ながら、地方票を集めたいと考えている石破氏は、こうしたニーズに対する受け皿をつくろうとはしなかった。おそらく、アベノミクスから心が離れたビジネスマンのニーズは漂流していることだろう。

攻める安倍首相

 安倍首相は再選後の青写真として、3 年間で「生涯現役」の社会をつくるとした。人生100 年時代を見据えて、2019 年に雇用改革を行い、2020・2021 年に医療・年金のあり方を考えるという。

 政策の中身がやや漠然としている石破氏に対して、安倍首相はより具体的である。首相として攻める姿勢をみせたところは、首相なりの強味に思える。

 少し気掛かりなのは、「約束通りに消費税を引き上げていきたいと思う」という言葉である。ニュアンスは、絶対に私は消費税を上げるというのと違っている。私は上げたいと思うが、先行きは何が起きるかわからないので、上げられる経済環境かどうかを様子見して決めるということを暗に言っているのだろう。「と思う」という言葉にはリスクヘッジをしている意味合いが込められている。

 2017 年10 月の衆院選と今回の総裁選で、2019 年10 月の消費税増税の予定を一応は公約にしている。だから、メインシナリオは増税である。しかし、災害の相次ぐ7~9 月の成長率が、プラスを維持できるかも注目される(11 月14 日発表)。米中貿易戦争も、7 月以降の貿易取引に悪影響を及ぼしそうだ。タイミングとして年内は、安倍首相の翻意があるかもしれないと注意すべきだろう。

 今回の総裁選は、アベノミクスの信任投票の色彩が濃い。争点は、国民所得の上がり方が不十分と思う批判がどのくらい求心力を集めるかである。そして、石破氏が安倍首相の「生涯現役」の方針にどのくらい切り込めるかにあるだろう。長期政権が続くことは、それに対抗する政治家を弱くする面がある。現政権の政策への対案を対抗馬が構想するのが難しくなるからだ。石破氏に求められている政策への説明責任は、そうした意味で非常に重いと言える。(提供:第一生命経済研究所

第一生命経済研究所 調査研究本部 経済調査部
首席エコノミスト 熊野 英生