リーマンが破綻して10 年。この間の変化を象徴するのは、①不確実性、②ポピュリズム、③正常化遠く、の3つだろう。トランプ大統領の就任は、リーマン後の批判を利用して選挙で勝利したことによる。その波紋はまだ続いており、今後の大統領に就任する人もポピュリズムを引きずるだろう。最後に、次のリスクは何かを考えてみた。

トラウマは残っている

 2008 年9月15 日にリーマンブラザーズが破綻して、丁度10 年が経過した。改めて、時代の一里塚としてリーマン破綻が何を変えてしまったのかを整理して、10 年が経過した現在はどの位置にいるのかを確認してみたい。    キーワードの筆頭は、不確実性である。リーマンショック直後の日本経済では、「全治3年」と言われた。「ハチが刺した程度」という言葉もあった。

 実際、リーマン破綻から3年後の2011 年9月は、その3月に発生した東日本大震災のダメージが加わっていたので時期尚早だとしても、安倍首相が選挙で勝利する2012 年12 月には景気が循環的に上向きを取り戻していた。全治ではないが、退院まで4年を要した格好である。

 しかし、景気サイクルは戻っても、心理的なトラウマは現在に至るまで残っている。それは、見えなかった危機が突然表面化すると、経済の様相が一変してしまうことへの恐怖感が根強く残ってしまうことである。こうした心理は、経済活動でも悪影響を及ぼす。経済用語を使うと、リスク・プレミアムである。5%の資産収益率が見込める投資案件があったとしても、3%のリスク・プレミアムがあると、期待収益率は2%に低下する。こうした原理が、企業等の投資抑制を生み出して、各国の成長スピードを鈍化させる。借入れを増やさず、金あまりが生じた。投資・貯蓄バランスは、企業が貯蓄超過になって、政府が投資超過(赤字拡大)を続けざるを得なくなる。

 巷間、安全志向が強まったとされるが、これはリスク・プレミアムが根強く存在して、リスク志向が弱まったのと同じことである。各国の長期金利はリーマン後は低水準を抜け出せない。米長期金利は、リーマン前に4~6%で推移していたのが、最近は3%を超えることも難しくなっている。これは、債券市場に資金が集まり過ぎていることの背景でもある。

 経済の様相が一変してしまうリスクを意識させることは、思い切った行動を思い止まらせる「決め台詞」のようにもなっている。2016 年5月の伊勢志摩サミットのときに安倍首相は、「リーマンショック前に似ている」と各国首相の前で説明した。当時、「そうした状況ではない」(英キャメロン首相)という評価が一般的であったが、安倍首相が不確実性を訴えたことを反駁するまでには至らなかった。安倍首相は2016 年6月初に消費税増税を延期することを決める。今、考えると、2016 年4~6月は景気が最加速していて、危機とは正反対の状況であった。予定通りに2017 年4月に増税しても問題はなかったと思える。このように、不確実性を口にする人に対して、皆が不確実性への恐怖感を断ち切れずに居るから、思い切った行動が採りにくくなっている。

 リーマンショックは、人々をリスク回避志向に傾かせて、その残像は今も投資行動を縛っていると考えられる。

ポピュリズムの台頭

 トランプ大統領の勝利が、リーマンショックの後遺症を受けていることは、多くの説明を要しないと思う。2016年の選挙でヒラリー・クリントン候補に対する批判は物凄かった。リーマンショックを引き起こした既得権者たちの代弁者であり、彼女が大統領になると、米国は再生しないとレッテルを張られた。

 こうした反動現象は、米国だけではなく、先進国に共通する。移民排斥や極右政党の躍進は、国民の感情に怨念があるからだ。英国のEU離脱も、リーマンの後遺症と言える。政策的な対案があって、それに人々は賛成するのではなく扇動者のイメージにのって賛成しているのだろう。

 日本も、その例外ではなかったように思える。リーマンショックの直後は麻生政権であった。そこから、当時の民主党への政権交代が起こる。これは、リーマン後の不安や怒りが、民主党への過大な期待を生んだことにある。その後、期待した人々は、今まで以上に大きく失望して、安倍政権に期待を変えた。

 安倍政権は、海外のポピュリズム政権とは違っているが、世論の中にあるポピュリズムを上手に利用していることは間違いない。2018年初からの安倍政権が、完全に求心力を失わずに来られたのは、トランプ大統領との外交が成功したからだ。別の政治家ではできなかったくらいにソフトランディングしたと国民はみている。大衆人気ばかりをあてにしても、政治は脆くなるだけだ。

 リーマン10年の教訓として、政治サイクルを考えることはできる。米国を例にとると、不況の怨念を利用して、トランプ大統領は米国民を期待させた。その反動は、将来きっと表れるだろう。次の大統領は、完全にポピュリズムと距離を置いた政策は採れないだろう。もしかすると、トランプ大統領よりはましだと思い続けて、好ましくない政策を見過ごすのだろうか。政治サイクルを考えると、リーマンショックの後遺症はポピュリズムをもうしばらく引きずって、理想的リーダーシップを期待できないことではないか。

経済の正常化を忘れてしまう

 リーマンショックから10年が経過しても、日銀は巨大緩和を止められない。短期金利を1%以上に引き上げて、金利が正常化するのは、もう10年、いや永遠に不可能かもしれない。

 背景には、経済成長の巡航速度が低下したことがある。FRBが2019年中に一旦利上げを停止して、3%を超える政策金利を目指すのはいつになるだろうか。米長期金利が2%台後半だということは、米国も10年近くは政策金利を大幅には引き上げられないのだろう。

 日銀の場合は、財政再建とセットで考える制約もある。2025年度に基礎的財政収支が黒字化できたとしても、短期金利を段階的に1%に近づけていくのは、さらに数年後であろう。

 日本経済の地力は、人口減少・高齢化によって低下するだろう。生産性上昇によって賃金上昇・物価上昇ができた場合でも、地方や産業によっては構造的衰退を免れられないこともある。経済の弱いところばかりに焦点を当てる政治家がリーダーになると、日本は永久低金利国になる。高齢者が円資産から安全にインカムゲインを得られない社会が続く。

 より恐ろしいのは、経済成長や賃金上昇がないことが当たり前と思う世代が増えることだ。現在、30歳の人はリーマンショックの当時は学生だった人が多い。彼らは3~4%の賃金上昇を望むだろうか。いや、賃金上昇が0~1%で十分と思えるだろう。これは想像ではなく、バブルを知っている世代と知らない世代の間ですでに起きてしまった変化である。さらに成長スピードが落ちても当たり前と思ってしまう可能性は高い。

次の危機はあるか

 不気味な予言をすると、世界的な経済ショックは約10年ごとに繰り返されている。90年代バブル崩壊、90年代末の金融危機、リーマンショックという大波である。ブラックマンデー、アジア通貨危機、リーマンショックと表現を替えて考えることもできる。

 現在も、次に起こる経済危機の予兆は足元で存在しているはずである。次の危機を予言することは難しいが、蓋然性から判断すると、中国の危機は2020年以降に表面化することがリスクとして考えられる。この問題も多くを語る必要はあるまい。

 少しだけ言うと、トランプ大統領の対中貿易制裁は、中国経済に不必要なストレスを加えている。最近は、「中国製造2025」を狙い撃ちにして、ハイテク分野での中国の台頭を阻止しようとしている。この影響は、中国政府が補助金等の支援で規模拡大を遂げようとする中国企業の活動を阻害する。その帰結は、ハイテク分野での不良債権、過剰生産能力の急増である。この変化は、中国の鉄鋼の生産過剰を思い出せば、同じことが起こりそうだとわかるだろう。トランプ大統領が仕掛ける貿易戦争は、平地に乱を起こす暴挙だが、その行動は10年サイクルで起きている波乱の経験則に沿って動かされているのではあるまいか。

 法則性を考えると、危機→反省→忘れる→繰り返す、という人間の理性の限界が起こす罠という見方もできる。リーマン10年で、危機の反省をすることは重要だ。それは、人間は次にまた同じ危機を繰り返すという失敗をしやすいからだ。リーマンショックは、つらかった過去を感傷的に回顧するものではなく、近づいてくる次なる危機に備えるために記憶をたどらなくてはいけないものだ。(提供:第一生命経済研究所

第一生命経済研究所 調査研究本部 経済調査部
首席エコノミスト 熊野 英生