人間社会では、大昔から、様々な情報の伝達が行われてきた。情報をそのままの形で示しても、断片的なものとなり、人々の頭にはなかなか残らない。そこで、ある工夫をすると、人々が受け入れやすく記憶に残るようになる。「ストーリー化」するのである。
イギリスのE. M. フォースターという小説家は、どういう文が人々に受け入れられやすいかという実験をした。その中で、人々につぎの2つの文を見せて、どちらの方が理解しやすいかを尋ねた。
(a) 国王が逝去し、そして、王妃が逝去した。
(b) 国王が逝去し、そして悲嘆のため、王妃が逝去した。
多くの人が、(b)の方が受け入れやすいと答えた。(a)の文は、2人の死を列挙したに過ぎない。一方、(b)の文は、2人の死の間に「悲嘆のため」という因果関係をつけて、2人の死をつなげている。つまり、ストーリー化している。
実は、コンピューターなどで扱う情報理論としては、(a)の方が(b)よりシンプルで好ましいとされるようだ。(b)に出てくる「悲嘆のため」という部分は、何か証拠が示されない限り、単なる書き手の推測に過ぎず、事実かどうかが判断できないためだ。しかし、人間の脳は、そのようにはできていない。脳は、事実の羅列ではなく、ストーリーを求めるのだ。
事実だけを淡々と列挙した情報というのは、味気ない。なかなか頭に入ってこない上に、記憶に残ることも少ない。人々の記憶に残るためには、ストーリー化が必要となる。企業が発する様々な広告はもちろん、メディアが出すニュースも、多くはストーリー化されたものとみるべきだろう。事実の列挙とストーリー化された宣伝文句では、読み手への訴求力が大きく異なると考えられるからだ。
つぎの例は、筆者が作った健康食品の架空の宣伝文句だ。
(事実の列挙)
Aは、B株式会社がつくった健康食品です。有機農法により、ニンニクエキスを抽出しました。同社は、ショウガやシジミエキスなどの食品を販売してきました。「Aを飲んだら体調がよくなった」と、話題になっています。Aは、これまでに100万セット販売されており、同社の食品の中でも売上トップ3に入っています。
(ストーリー化された宣伝文句) [下線部分を追加]
Aは、B株式会社がつくった、とびきり元気な健康食品です。B社が契約した専用農場で、土や水にこだわる丹精こめた有機農法により、大地のパワーがギュッと凝縮されたニンニクを育てて、そこからスタミナ満点のニンニクエキスを抽出しました。同社は、健康食品のパイオニアとして、ショウガやシジミエキスなど、これまでに数多くの健康食品を販売してきました。同社が手がけてきた食品の中でも、特にAは大好評で、「Aを飲んだら体調がよくなった」と、多くの利用者の間で、大変な話題になっています。Aは、これまでに100万セット以上もの販売が記録され、工場では緊急追加増産となっており、同社のこれまでの数々の食品の中でも常に売上トップ3に入る大ヒット商品となっています。
上記の2つの紹介文を見比べてみると、事実の列挙と、ストーリー化された宣伝文句では、だいぶ印象が違うのではないだろうか。
ただし、ストーリー化には、注意すべき点がある。人は、一貫した論理的な話を聞くと、それをきちんと検証せずに、鵜呑みにしてしまう傾向がある。これは、「ストーリーバイアス」と呼ばれている。このストーリーバイアスにより、事実と異なることが人々にすり込まれ、誤解を生みだされる可能性がある。それでは、ストーリーバイアスがどのように作られるのか、少しみてみよう。
先ほどの、国王と王妃の逝去の例に戻ってみる。「悲嘆のため」の一節を追加するのは、1つの方法だ。悲嘆が王妃の逝去の原因かどうかはわからないが、読み手はそのように理解してしまうだろう。
他にも、情報の一部分を敢えて削除する方法がある。
(事実) 国王が逝去し、そして、その19年後に、元王妃が逝去した。
(発信) 国王が逝去し、そして、王妃が逝去した。
2人の死の時間間隔を敢えて隠したり、「元王妃」を「王妃」とすることで、2人の死の関係性を高めている。これは、一節を追加する方法よりも、情報発信者にとって罪悪感が少ないかもしれない。「発信できる文字数に制限があるため、やむを得ず削除した」などと、言い訳ができるためだ。
また、事実とは順番を変えてしまう方法もある。
(事実) 王妃が逝去し、そして、国王が逝去した。
(発信) 国王が逝去し、そして、王妃が逝去した。
実際には、王妃の死を悲嘆したために国王が逝去したのかもしれない。しかし、順番を変えてしまうことで原因と結果が入れ替わってしまう。こうなると、もはや発信された内容から事実をうかがい知ることはできない。ストーリー化の域を超えて、事実を捻じ曲げていると言わざるを得ないだろう。
そもそも、人は、なぜ、ストーリー化を求めるのか。この問いに対して、心理学や行動経済学で、様々な研究・議論がなされている。これは筆者の私見だが、物語にすることで安心できるからなのではないだろうか。人は、日常とは異なる状況や事態を目にしたときに、それをそのまま受け入れることは難しい。心の中で、何らかの決着をつける必要がある。そこで、ストーリー化という、加工処理を求めるのではないかと考えられる。
情報の受け手として、何かの情報に接したときには、どこまでが事実で、どこから先が作られたストーリーなのか、よく吟味する必要があるだろう。一方、情報を発信する側にまわったときには、どこまでストーリー化をすべきか、よく考えなくてはならない。ストーリー化をし過ぎて、読み手に誤解を与えると、後で真相が明らかになったときに、自分の信用を大きく損ないかねないからだ。
ストーリーバイアスに注意して、ストーリー化はほどほどにすべきと思われるが、いかがだろうか。
篠原拓也(しのはら たくや)
ニッセイ基礎研究所 保険研究部 主任研究員・年金総合リサーチセンター兼任
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