ムニューシン財務長官は、TAG に為替条項を入れる意向を示した。遂に来たかという印象だ。日本は、円安誘導を目的とした為替介入はしていない。米国の矛先は、中国を向いていて、日本がターゲットではない。交渉を有利に運ぶための揺さぶりとみて、日本は安易な妥協を行うべきではない。大切なのは、米包囲網を早期につくって、米国に保護主義の不利を強く実感させることである。
遂にやってきた為替条項
10 月13 日に米国のムニューシン財務長官は、日米物品貿易協定(TAG)に関して、「米国の目的は、全ての国との協定に為替問題を入れることだ。日本も除外などしない」と述べた。これまで、韓国との米韓FTA や、メキシコ・カナダとのNAFTA 見直しでも為替条項が入ってきた。日米でのTAG や、米国とEU との交渉でも、例外なく為替条項を議論の中に含めようという構えなのだ。
筆者に遂に来たかという思いが強い。黒田総裁は、この日が来るのを見越してイールドカーブ・コントロールを2018 年4 月・7 月と見直してきた印象がある。従来の量的・質的金融緩和は、暗黙の円安誘導であるという見方をされたくないので、2%の物価が達成されにくくなっても追加緩和に動かなくて済むように、金融緩和の体制をリフォームしたのであろう。日銀は、円安誘導という疑惑に対して、李下に冠を直さずと考えてきたのである。
グレーゾーンをつくりたくない
為替条項の考え方とその運用にはかなり幅がある。額面通りの為替条項は、自国の貿易を有利にする手段として通貨切り下げを行う相手国に対して、報復関税を課するという取り決めである。米国と韓国の間では、為替条項はあるが、その条項に強制力はないとされる。万一、この条項を受け入れたとしても、日本が報復関税を課されることは考えにくい。
そもそも、こうした不当な為替操作はIMF 協定で禁止されている。何よりも日本は、もう7年も為替介入を実施していない。2011 年3 月の為替介入では、震災後にドル円レートが一時1ドル70 円台になったことを受けて協調介入を行った。その後、2011 年8 月・10 月にも単独介入を行っている。これらは、日本が他国に対して確認を取った上で、過度な為替変動を均す目的で行ったものだ。IMF 協定に違反したものではない。
日本からみれば、自分たちは為替条項に抵触する操作とは無縁であり、過度な為替変動に対する平衡操作に限って、各国と諮ってから行っている。その実績から考えて、わざわざ為替条項など持ち出されたくない。不必要なシロモノに思えるから、TAG にも入れてほしくない。だが、この考え方は、トランプ政権には容認されにくい。日本が為替介入を円安誘導に用いる可能性自体を制限したいと考えるからだ。つまり、日本だけでなく、トランプ政権は貿易相手国を信用していないから、為替条項を必要と考えているのだ。
これとは全く対照的に、日本はトランプ政権が何を円安誘導とみなすのかがはっきりと見えない点で、為替条項を入れたくないと考える。そこには、日本側にもまた米国を信用していない姿勢が透けて見える。為替変動に対して為替介入を実施するか否かはどうしてもグレーゾーンを議論することになる。為替誘導か平衡操作がはっきりと峻別できないから、日本としては為替条項がない方がよいと考えているのである。
交渉材料のひとつに過ぎない
トランプ政権が本当に問題視しているのは、人民元の下落である。中国も、人民元レートの下落を歓迎している訳ではない。人民元レートは通貨バスケット方式を採っていて、直接的な誘導はできない仕組みになっている。トランプ政権はこうした事情を知っていても、敢えて貿易交渉で中国に強硬姿勢をとるために、人民元安を問題視しているシグナルを送りたいからだと考えられる。確信犯として、為替条項を他の交渉で有利になるように、強権発動をちらつかせているという訳である。こうしてみると、為替条項には正当性がなく、専ら交渉材料としての存在でしかないことがわかる。
トランプ政権と渡り合うには、何事についても達観して考える習慣を身につけておくことが大切だろう。交渉では、為替条項が実際には使用できないように強制力を奪って、空文化する扱いでもよいだろう。トランプ流のディールは、当初は人々を恐れさせて、次に安心させてから、また脅してくる。自分の利害を守ろうとして、安易な市場開放などの妥協をすべきではない。日本は交渉において、圧力に屈せず、時間をかけてでも上手な落とし所を決めて自国の利害を守るほかはない。
2019 年のTAG 交渉
日米TAG 交渉は、2019 年初から本格化するとみられる、これからも米国は、交渉を有利に進めるために揺さぶりをかけてくるだろう。日米首脳会談で事前に交わされた条件以外に、新しい交渉材料を提示する可能性である。今回の為替条項はその1つである。ほかには、自動車の輸入数量制限を加えてくることも警戒される。
基本的に米国は様々な要求を迫ってくるので、日本は現在の条件を維持することを目指す弱い立場である。ならば、日本だけで交渉するのは不利である。日本が交渉力を強めるためには、米国の圧力に対して被害を受けている国々と連合することが対抗するために必要である。TPP11 と日欧EPA を早期に発効させて、米包囲網をつくる国々が利得を得て、保護貿易が不利なことを米国に身をもって体験させる。現在、RCEP が年内大筋合意を目指して進んでいる。RCEP には、中国も韓国も参加している。RCEP を2019 年の早い時期に発効させることは、米国の揺さぶりに対抗するひとつのカウンターパワーになるだろう。(提供:第一生命経済研究所)
第一生命経済研究所 調査研究本部 経済調査部 首席エコノミスト 熊野 英生