コロナショックにより「ハイパーインフレによる円の暴落は不可避」と説く経済評論家の藤巻健史氏。自分の資産を守るためにドルへの避難などを呼び掛けているが、もう一つ、大事なことがあるという。「アフターコロナ」時代には、働き方自体も大きく変わり、それに対応できない人は生きていけないということだ。近著『コロナショック&Xデーを生き抜くお金の守り方』において、お金だけでなく「仕事の守り方」についても説く藤巻氏に詳しくうかがった。

*本稿は、『コロナショック&Xデーを生き抜くお金の守り方』(PHPビジネス新書)の内容を抜粋・編集したものです(写真撮影:まるやゆういち)。

最強のインフレ対策は、「世界中でメシを食える人」になること

藤巻健史
(画像=THE21オンライン)

巨額な財政赤字を抱えたまま、コロナショックへの対応のため助成金などの大盤振る舞いを続けている日本。このままでは日本経済の破綻とハイパーインフレは不可避だというのが、私の見解です。

来たるハイパーインフレに備え、資産を「守る」ことが何よりも重要ですが、それと同時にぜひ、やっておいてもらいたいことがあります。それは、自分の市場価値を高めること。言い換えれば「世界中でメシが食える人になっておく」ことです。

野球の大谷翔平選手やバスケットボールの八村塁選手は、日本がどんなにインフレになっても、まったくダメージを受けないでしょう。また、高度な医療やAIの知識を持った人材なら、世界中から引く手あまたです。

こうした人たちはつまり、いつでもドルを稼ぐことができるわけです。いつでもドルが手に入るなら、ドルを買う必要もありません。これこそまさに「最強のハイパーインフレ対策」です。

「そんなことが可能なのは、一部の特殊な人に過ぎない」と考える人もいるかもしれませんが、果たしてそうでしょうか。すでに世界は高度にグローバル化しています。どんな職業であろうと、世界を無視して存在することは不可能です。

その典型が「インバウンド」でしょう。国内観光業界は十数年前まで、ほぼドメスティックな業界でした。しかし、インバウンドにより様相は一変。私は国内外問わず旅行が好きであちこちに行っていますが、ここ数年は国内のどこに行っても、日本人観光客より外国人観光客が目立っていました。

そしてこのコロナ禍によって、インバウンドは激減し、国内観光業界は一気に危機に陥ることになりました。もはや外国人なしで、日本の観光業は成り立たなくなっているのです。

また、ハイパーインフレが起こるということは、超がつくほどの「円安」になるということ。つまり外国人にとって、日本製品が超お買い得になるということですから、海外との取引はいやおうなしに増えるでしょう。現在は下火になっているインバウンド需要も回復し、これまで以上に外国人観光客が大挙して日本を訪れるはずです。

さらに言えば、日本企業そのものも「超お買い得」になるということです。優れた技術やノウハウを持つ企業は、外資によって次々に買収されることでしょう。ある日突然、外国人が上司としてやってくる、というケースも増加するはずです。

つまり、「日本国内に閉じこもって安穏と過ごす」ことは、もはや誰にとっても不可能な時代になってしまうのです。

内向的であることと、世界で働けるかはまったく別問題

では、そんな世界で生き残るためにはどうしたらいいのでしょうか。

まず、若い人に対しては、「とにかく海外に飛び出してみろ」というアドバイスを送りたいと思います。現在はコロナ禍で海外に行きにくい状況になってしまっていますが、本来ならば円がまだ高いうちに、海外を見ておくべきだと思います。

「最近の若者は内向きで海外に行きたがらない」とよく言われます。その真偽はさておき、もし自分が内向的だと感じていたとしても、心配する必要はありません。どんな人間でも一度海外に出てみたら、あるいは外国人と一緒に仕事をしてみれば、確実に変わることができます。超がつくほどに内向的、かつドメスティックな人間だった私が言うのですから、間違いありません。

私は東京生まれの東京育ちで、初めて海外に行ったのも、初めて飛行機に乗ったのも大学の卒業旅行の際でした。単身で2週間のヨーロッパ旅行をしたのですが、よほど緊張していたのか、ドイツで激しい胃痛に襲われ寝込んでしまいました。

「もう二度と海外なんかに行くもんか!」そんな決意をしたほどです。

そんな私がなぜか、28歳で社内の留学制度を使い、アメリカに留学することになりました。1978年から2年間、アメリカのノースウエスタン大学大学院ケロッグスクール(注:当時はまだケロッグスクールという名称は使われていませんでした)で学びました。

ただ、実はこれも「海外に出ていきたい」という積極的な理由ではなく、「自分の性格に合わない仕事から一刻も早く逃げ出したかった」からです。

当時、私は銀行の千葉支店にいて、財務相談員という仕事をしていました。いわゆる「営業」です。人見知りの私にはこの仕事がとにかくきつく、毎日泣きながら仕事をしているような状況でした。成績こそトップクラスではあったのですが、「このままでは苦手な営業の仕事を一生続けなければならない」と思い、海外留学に活路を求めたのです。