要旨
- コロナショック以降の日本経済は、中産階級の貧困化とインフレが重なった「スクリューフレーション」が深刻化している。世界経済の一体化とグローバル化、技術革新、臨時雇用の普及という三つの大きなトレンドがスクリューフレーションの原因とされており、失われた 20 年を経て中間層の貧困化した日本でも、スクリューフレーションが深刻化している可能性が高い。
- 日本の消費者物価は、贅沢品の価格が横ばいで推移する一方、生活必需品の価格は上昇基調にある。生活必需品は低所得であるほど消費支出に占める比重が高く、高所得であるほど比重が低くなる。このため、生活必需品の価格が上昇すると、低所得層を中心に購入価格上昇を通じて負担が高まることで実質購買力が低下し、富裕層との実質所得格差は一段と拡大する。事実、年収階層上位 20%世帯のCPIと年収階層下位 20%世帯のCPIを比較すると、低所得者層のCPIは明確な上昇基調にあり、我が国でもスクリューフレーションが生じてきたことを示している。
- スクリューフレーションは地域格差も広げる。地方では自動車で移動することが多く、家計に占めるガソリン代の比率も都市部に比べて高い。また、冬場の気温が低い地域では、暖房のために多くの燃料を使う必要があり、電力料金やガス料金も燃料市況に連動するため、原油やガスが上がれば光熱費も増える。電気は生活必需品であることから、低所得層のほうが高所得層に比べて消費性向が高い。このため、相対的に低所得者層に対する負担が高まるという問題がある。
- コロナショックによる世界経済の低迷が危惧される状況下、欧米諸国では財政・金融政策が緩和傾向にある一方、物流のボトルネックなどから今後も輸入品のインフレ圧力が続くと見込まれる。更に、世界の食料・エネルギー需給は、中長期的にも人口増加や所得水準の向上等に伴う新興国・途上国を中心とした需要の拡大に加え、これら諸国の都市化による農地減少も要因となり、今後とも需要が供給を上回る状態が継続する可能性が高い。つまり、食料・エネルギー価格は持続的に上昇基調を辿ると見ておいたほうがいい。
- 日銀は中長期的な物価安定について「消費者物価が安定して前年より+2%程度プラスになる」と定義している。しかし2008年にあったように、輸入物価の上昇により消費者物価の前年比が一時的に+2%に到達しても、それは安定した上昇とは言えず『良い物価上昇』の好循環は描けない。本当の意味でのデフレ脱却には、消費者物価の上昇だけでなく、名目成長率>実質成長率(すなわちGDPデフレーターの上昇)や国内需要不足の解消が必要となる。そのためには、賃金の上昇により国内需要が強まる『良い物価上昇』がもたらされることが不可欠である。
実感なき低インフレ
近年の日本経済は、中産階級の貧困化(Screwing)とインフレが重なったスクリューフレーション(Screwflation)の脅威に晒されている。実質GDPによれば、日本経済の規模は過去27年間で90兆円程度拡大しており、企業収益も最高益を記録している。しかし一方で、実質雇用者報酬の水準を見ると45兆円程度しか増加しておらず、食品・エネルギー価格の高騰が中間層の所得を蝕んでいる。
世界経済の一体化とグローバル化、技術革新、非正規雇用の普及という三つの大きなトレンドがスクリューフレーションの原因とされており、失われた20年を経て中間層が貧困化した日本でも、特にコロナショック以降にスクリューフレーションが深刻化しつつあると考えられる。
そこで本稿では、所得階層別の消費者物価(Consumer Price Index、以下CPI)や費目別CPIの動向、所得階層別の消費構造から日本のスクリューフレーションの状況について分析してみたい。
原因は消費の4割以上を占める生活必需品の価格上昇
まず、日本の物価動向を見てみよう。前年比+0.20%となった2021年6月のCPIを10 大費目別に寄与度分解すると、押し下げ要因となっているのは、携帯電話料金と薬価引き下げが影響した「通信」と「保健医療」の2項目となっている。
一方、火災・地震保険料の値上げ等により「住居」の価格が大きく上昇し、CPI全体の押し上げ要因となっているのが特徴である。しかし、灯油などの「光熱・水道」、ガソリンなどの「交通」といった生活必需品の価格上昇は、消費者物価全体の低迷の中に埋没しがちであるが、日銀「生活意識に対するアンケート調査」では、現在の物価に対する実感が大幅に上方シフトすることに結びついていることがわかる。
そこで、CPIを生活必需品(食料、持家の帰属家賃を除く家賃、光熱水道、被服履物、交通、保健医療)と贅沢品(生活必需品以外)に分類し、その動向を比較してみると、2014年度以降、贅沢品の価格が横ばいで推移する一方で、生活必需品の価格は明らかに上昇基調にあることがわかる。
このように、日本でも生活必需品の価格が上昇してきた背景としては、①新興国での人口増加や所得水準の向上などに伴う需要増加等により輸入品の価格が上昇、②先進国の量的緩和や新興国の外貨準備を起点とした投機マネーが商品市場等に流入、③異常気象や新興国の都市化による農地減少などにより農作物の収穫量が減少-してきたこと等がある。
ここで重要なのは、生活必需品と贅沢品での物価の二極化が、生活格差の拡大をもたらすことである。生活必需品といえば、低所得であるほど消費支出に占める比重が高く、高所得であるほど比重が低くなる傾向があるためだ。事実、総務省「家計調査」によれば、消費支出に占める生活必需品の割合は、年収 1500万円以上の世帯が 46%程度なのに対して、年収 200万円未満の世帯では 58%程度である。従って、全体の物価が下がる中で生活必需品の価格が上昇すると、特に低所得者層を中心に購入価格上昇を通じて負担感が高まり、購買力を抑えることになる。そして、低所得者層の実質購買力が一段と低下し、富裕層との間の実質所得格差は一段と拡大する。
より実感に近いのは年収階層別の消費者物価
以上より、消費者物価の実感は、消費全体で測る場合と、所得階層別の消費行動で分けて測る場合で結果も変わってくる可能性が高い。
総務省で作成している消費者物価指数は、消費者全体の消費構造に着目し、品目毎の価格動向を統合することによって計測される。つまり、家計調査によって得られた基準年における月平均の世帯当たり品目別消費支出金額のウェイトを用いて作成することによって、一国全体の物価動向を判断している。
しかし、実際に消費者が実感する物価は、消費者それぞれが購入する財やサービスの構成比によって異なる。従って、少なくとも所得階層別における消費の構成比の違いに着目し、それぞれの消費者物価を見れば、より人々の実感に近い消費者物価指数になる。特に、同じ所得階層の中での消費構造に大差が無いと仮定すれば、所得階層別の消費者物価は、所得階層別の消費構造から計測されるウェイトに依存する。つまり、価格が上昇している財やサービスを多く購入している階層の消費者であれば、全体の消費者物価が下落していてもその人にとっての消費者物価は上昇しているかもしれない。
このように、消費構造の違いをもとに所得階層別の消費者物価を見ることは意味があるといえる。 そこで、実際に所得階層別の消費構造に着目したCPIを確認してみた。下のグラフは、高所得者層の消費者物価として年収階層上位 20%世帯のCPIと、低所得者層の消費者物価として年収階層下位 20%世帯のCPIを時系列で比較したものである。現局面のCPIを両極端な二つの階層で比較すると、低所得者層のCPIは2000年代後半以降高所得者CPIより高水準にあり、特に贅沢品の値段が下がった2010年代前半に乖離が最も拡大していることが分かる。
以上より、生活必需品の価格が相対的に上昇局面にある場合は、消費者全体のCPIの動きのみで物価を判断すると、低所得者層の消費者が感じるインフレ率を過小評価してしまうことになるといえよう。この結果は、コロナショック以降の我が国でもスクリューフレーションが深刻化しつつあることを示している。
更に深刻なのは、我が国の低所得層が拡大傾向を示していることがある。事実、総務省「家計調査年報」で年収階層別の世帯構成比を見ると、年収が最も低い 200 万円未満に属する世帯の割合は2017年以降3%を超えており、2000年代で最高水準となっている。一方で、1500万円以上世帯の割合が2000年代前半から大きく低下していることは、日本国民の購買力が損なわれていることを表しているといえよう。
こうしたスクリューフレーションの深刻化は、コロナショックによるワクチン接種率や医療提供体制の格差等を背景に、国間のみならず、企業規模や業種間の格差が拡大していることも背景の一つにあるといえよう。そして、我が国経済は海外経済の回復等に伴う輸出入物価の上昇と、ワクチン接種の遅れや脆弱な医療提供体制に伴う行動抑制に伴う内需の低迷を生み出し、結果としてスクリューフレーションが深刻化しているといえる。
地域格差ももたらす物価の二極化
実質的な所得格差には、名目所得の格差に加え、物価変動の格差も反映される。こうした物価変動も、家計の実質期待所得の増減を通じて個人消費にも影響を及ぼす。このため、所得階層間による物価変動の格差は先行きの所得格差を見通す上でも非常に重要になってこよう。そして、高所得者層と低所得者層の生活格差が拡大する我が国のスクリューフレーションの背景には、所得階層の違いによって購入価格の変化が異なることも影響しているといえる。特に、所得の伸びが低い低所得者層では、一方で購入する財やサービスの価格が上がりやすいことに伴い購買力が損なわれている。
また、物価の二極化は、地域格差も広げる可能性がある。公共交通網の目が粗い地方では自動車で移動することが多く、家計に占めるガソリン代の比率も都市部に比べて高い。また、冬場の気温が低い地域では、暖房のために多くの燃料を使う必要があり、こうした地域にとって灯油代の高騰は大打撃だ。電力料金やガス料金も燃料市況に連動するため、原油やガスが上がれば光熱費も増える。
一方、我が国経済はカーボンニュートラルに向けて、再生可能エネルギーの拡充を図ることにより将来的に電気料金の値上げは不可避と言われている。しかし、電気は生活必需品である一方で、一般的に低所得者層のほうが高所得者層に比べて消費性向(所得に占める支出の割合)が高い。このため、相対的に低所得者層に対する負担が高まるという問題がある。
従って、我が国のスクリューフレーションの深刻化は実質所得の格差を更に拡大させる可能性を示唆しており、今後も生活必需品価格の上昇や電気料金値上げを通して格差拡大が生じる危険性も考えられよう。
デフレの克服には「良い物価上昇」が必要
そもそも、我が国において食料やエネルギーの価格が大きく変動しているのに対し、それ以外の物価は落ち着いてきたことの一因に新興国の台頭がある。新興国の需要急増による石油や農産物等の資源高が食料品やエネルギーの価格を押し上げる一方で、新興国企業の市場参入による競争激化が食料・エネルギー以外の価格を押し下げてきたためである。また、サービス価格の低迷も、新興国の労働力との競争を通じた国内の賃金伸び悩みが影響している。そして、こうした原油や穀物といった国内で十分供給できない輸入品の価格上昇で説明できる物価上昇は「悪い物価上昇」といえる。
物価上昇には「良い物価上昇」と「悪い物価上昇」がある。「良い物価上昇」とは、国内需要の拡大によって物価が上昇し、これが企業収益の増加を通じて賃金の上昇をもたらし、更に国内需要が拡大するという好循環を生み出す。しかし、特にコロナショック以降の物価上昇は輸出入物価の高騰を原因とした値上げによりもたらされている。そして、国内需要の拡大を伴わない物価上昇により、家計は節約を通じて国内需要を一段と委縮させている。その結果、企業の売り上げが減少して景気を悪化させていることからすれば、「悪い物価上昇」以外の何物でもない。
特に、コロナショックにより世界経済の低迷が危惧される状況下、欧米諸国では財政・金融政策が緩和傾向で推移することもあり、海外では今後もインフレ圧力が続くと見込まれる。更に、世界の食料・エネルギー需給は、中長期的には人口の増加や所得水準の向上等に伴うアジアなど新興国・途上国を中心とした需要の拡大に加え、これら諸国の都市化による農地減少も要因となり、今後とも需要が供給を上回る状態が継続する可能性が高い。つまり、食料・エネルギー価格は今後も持続的に上昇基調を辿ると見ておいたほうがいい。
これに対し、日銀は中長期的な物価安定について「消費者物価が安定して前年より+2%程度プラスになる」と定義している。しかし2008年にあったように、資源価格の上昇により消費者物価の前年比が一時的に+2%に到達しても、それは安定した上昇とは言えず、『良い物価上昇』の好循環は描けない。
従って、本当の意味でのデフレ脱却には、消費物価の上昇だけでなく、名目成長率>実質成長率(すなわちGDPデフレーターの上昇)や国内需要不足の解消が必要となる。そしてそうなるには、賃金の上昇により国内需要が強まる『良い物価上昇』がもたらされることが不可欠といえよう。(提供:第一生命経済研究所)
第一生命経済研究所 経済調査部 首席エコノミスト 永濱 利廣