要旨
日本の成長率には、ワクチン接種の遅れの悪影響が表れ始めた。今後、ワクチン接種が進んでも新規感染者数が減らず、消費が低迷する可能性もある。2021年下期の景気見通しは下方修正しそうだ。現状を打開するために、ワクチン接種率を集団免疫のレベルまで引き上げる方法を考えなくてはいけない。
緊急事態宣言延長の不安
2021年4~6月期の実質GDPは、年率1.3%の増加率になった。この数字は、同じ期間の欧米の成長率に比べて大きく見劣りする(図表1)。米国の成長率は、同期間6.5%だった。欧州は8.3%の伸びだった。この差は、ワクチン接種の進捗が日本では遅れていて、欧米では進んでいることの反映である。欧米では、ワクチン接種が進むことを前提にして、社会活動の正常化に踏み切った。特に、英国などは新規感染者数は増加していても、重症化が防がれているので、そちらを重視して社会活動の正常化を決めている。
それに対して、日本は緊急事態宣言が8月31日から9月12日に再々延長(当初7月12日~8月22日、そこから31日に延長)されて、7~9月の成長率も低調になる可能性がある。
日本では、ワクチン接種を進めてもなかなか社会不安が鎮静化しない。日本でも65歳以上の高齢者に対しては、ワクチン接種率は8月17日時点で、84.3%まで2回目の接種は進んでいる(全国民の2回目接種率は37.6%)。しかし、新規感染者数が増加傾向を続けているから、社会的な感染リスクに対する警戒感は和らいでいない。筆者は、ワクチン効果による社会的ムードの変化を望むが、新規感染者数の増加によって、それに冷や水が浴びせられている。
景気改善シナリオの下方修正
日本経済研究センターのESPフォーキャスト調査(2021年8月)では、7~9月の成長率が2.55%、10~12月の成長率が5.68%と高まっていく見通しである(図表2)。この見通しは、今後のワクチン効果が10~12月にかけて経済改善を促すという見方に支えられている。しかし、どうもこのシナリオは、雲行きが怪しくなっている。緊急事態宣言の効果がほとんど表れず、コロナの新規感染者数の増加が予想外の数字で推移しているからだ。政府が緊急事態宣言を9月12日まで延長する影響は、この見通しには織り込まれていない。2021年下期の景気シナリオが、先のESPフォーキャスト調査よりも、今は少し厳しくみた方がよい。
ワクチン効果の誤算
景気の下ぶれリスクの背景にあるのは、ワクチン効果によって一気に経済正常化が導かれなかったことがある。そうした見通しが狂った理由を自分なりによく考えてみた。
大きな理由は、ワクチン接種が新規感染者を減らす作用が予想外に小さかったことである。ワクチン接種によって、発症・重症化が9割以上も抑制されることは知られていた。厚生労働省は、ワクチン接種が感染自体には限定的な効果しか得られないとしてきたが、筆者はそれでもワクチン接種さえすれば、かなり感染リスクも低下すると期待していた。国立感染症研究所の5月1日の発表では、接種した人については、ワクチン接種後2週間以上では感染率が60%以上抑制されるとされた。
誤算の背景は、ワクチン接種を済ませていない人の母数が大きかったことがある。急増してきた新規感染者の内訳をみると、やはり未接種の人が大多数を占めている。すでにワクチンを接種した人は少数である。データの理解の仕方としては、まだワクチン接種を済ませていない人の間で、新規感染が広がったと理解することが妥当だろう。
ワクチン接種が先行する英国やイスラエルでも、接種率が7割に近づくと頭打ちになっている。ここには「7割の壁」ができているように見える。
すでに、海外ではワクチン接種を義務化しようという動きが散発的に起こっている。ニューヨーク州やカリフォルニア州では、職員を対象に義務化を決定する動きがある。ニューヨーク市では、レストランやジム、劇場など屋内施設を利用するときは、ワクチン・パスポートの提示を義務づけることを決めた。ほかにも、接種者に賞金を付与したり、未接種者がワクチン・パスポートなしに利用したときに罰金を課そうという活動もある。同じことを日本で行おうとすると、摩擦が大きかったり、実効性を高められなかったりする問題が生じるだろう。フランスやイタリアでは、こうした政府の動きに対するデモが起こっている。日本でも、早晩、「7割の壁」に対処しようという議論が始まり、ワクチン接種義務化に警戒する意見も起こってくるだろう。
新規感染者数を減らすには
今後、新規感染者数を極力少なくして、感染リスクそのものを封じ込めたいのならば、ワクチン接種率を可能な限り高める必要がある。これは、「7割の壁」を突き破るための追加的工夫がいるということだ。
「7割の壁」の背後には、「ワクチン接種は任意だ」という隠れた壁がある。筆者は、事情があってワクチン接種ができない人は打たなくてもよいと考えるが、そうした事情がない人は他人にうつさないためにも、極力打った方がよいと考える。その人達を説得して、接種率を高めることを明示的な目標にした方がよい。
疫学的な考え方には、ワクチン接種が進んだ後、集団免疫の獲得によって感染終息に至るという見方がある。集団免疫の状態では、新規感染者数は増えなくなる。おそらく、そこが接種率の目標値(ゴール)になるだろう。現在、デルタ株のような感染力の強いウイルスが広がっていることを考えると、集団免疫の獲得に必要なワクチン接種率は以前よりも高くなっていると推察される。
政府は、そうした高い接種率を目標に設定した上で、ワクチン接種を「任意」にしていることの限界について、もっと議論した方がよい。筆者は、実際、完全な義務化を決めることはなかなか難しいだろうと思っている。その代わりに、啓蒙活動などによって接種率を高める努力はできる限りしていかなくてはいけないと考えている。
社会正常化のための前提条件
任意と義務化の選択以外の論点には、感染拡大を割り切って考える考え方もあるだろう。英国などは、感染リスクよりも重症化のリスクを低下させることを念頭に置き、ワクチン接種がかなり進んだ段階で、社会活動の正常化に踏み切った。これは、社会的に割り切って考えることを決断したのだろう。
しかし、日本の場合、「重症化さえしなければよい」と割り切ることが可能なのだろうか。高齢者の中にはすでにワクチン接種を終えていても、テレビのニュースをみて新規感染者数が増えると、それを警戒する人が少なくない。ほかにも、新規感染者数が増えることで、感染を心配して消費を減らす人も多くいるだろう。経済再開によるネガティブ・フィードバックの作用である。それを考えると、新規感染者数だけを重視し過ぎるのも問題だが、逆に無視することも弊害が大きいと考えられる。このように考えると、論点はやはり接種率を上げて、新規感染者数を極力減らすしかないという考え方に戻っていく。
この問題は、集団免疫の獲得ができない中では、経済再開を継続的に達成し得ないということにも通じる。それは、未接種の人が多い状況では、経済を再開すると、新規感染者数が増えてしまうという、先のネガティブ・フィードバックの作用と同じ問題である。
また、海外からの訪日外国人の受け入れも集団免疫が獲得されないうちは不可能だろう。東京五輪のときの論調もそうだが、海外から選手や観戦者を国内に入れると危ないという国民の声は根強い。この見解にも隠れた前提があって、国内に未接種者が多くいるから、海外からの訪日外国人によって新規感染者数が増えてしまうという事情である。
行動経済学の知見はどこまで有効か?
ワクチン接種を「任意」としたまま、どこまで接種率を上げられるかは、政策的なチャレンジである。若い世代の経済学者たちに流行した行動経済学では、そうした政策誘導を「ナッジ」と呼んで、その手法について様々な議論している。その中には、ワクチン接種とよく似た議論があった。例えば、インフルエンザのワクチン接種率を引き上げるために、どんな手法が有効であるかという実験である。「ナッジ」とは、肘で突っつくという意味で、政府がそっと政策誘導をすることを指す。無論、義務化をしないで、任意という前提である。インフルエンザの予防接種では、あらかじめ接種日をカレンダーに入れた案内状を送ると、そこでキャンセルする人が少なく、接種率を上げられる。ほかにも、コロナワクチンの接種について、案内文を工夫すると接種が促されるという研究もある。
いずれにしても、行動経済学者たちがもっと情報発信して、彼らの知見が積極的に採用されるようになると、任意の前提であってもワクチン接種率の上昇は見込めるのではないかと筆者は感じている。
ワクチン・パスポートのアイデア
最後にワクチン・パスポートの効果についても触れておきたい。筆者は、これまでのレポートでワクチン・パスポートの有効性を主張してきた。このワクチン・パスポートは、義務化を厳守させるツールとして考えるものではない。それとは別に、接種は義務化しないという前提を守った上で、ワクチン接種率を高めるのに貢献する利用を考える。ワクチン・パスポートがあれば特典・恩恵が得られて、ワクチン接種が促される。詳細は過去のレポートを参照してほしいが、政府がワクチン・パスポートを発行して、それを見せれば、消費者は店舗利用で優遇を受けられる。飲食店では、ゾーニングを行って、ワクチン接種済みの人は席を別にして、飲食ができるようにする。半面、事情があって、ワクチン接種ができない人には十分に配慮する。ワクチンが打てない人には、打てないことを証明する別のパスポートを発行して、すでにワクチン接種を済ませた人と同じゾーンを利用できるようにする。そうすれば、ワクチン接種ができない人も安全になる。また、ワクチン接種をしていなくても、PCR検査などをしていれば、接種者と同じ条件で優遇される道も開いておく。ワクチン・パスポートのアイデアは、社会的に事務的な手数を増やすことにはなるが、「ワクチン接種を受けるかどうかは任意である」という前提を崩さないで、接種率を上げるためにはひとつの有効策になると考える(図表3)。(提供:第一生命経済研究所)
第一生命経済研究所 調査研究本部 経済調査部 首席エコノミスト 熊野 英生