株式会社オキサイドは2000年に設立した山梨県に本社を置く光学材料メーカー。光の時代に不可欠な単結晶・光部品・レーザ光源・光計測装置などの光学関連製品を開発 ・製造・販売している。
当社代表取締役社長の古川保典氏は、大手メーカーや国の研究所での経験を経て、研究成果を世に出すためのビジョンを抱く。シリコンバレーの風を感じた古川氏に、ベンチャーとしての挑戦を日本で始める中での試練や困難を語っていただく。 (執筆・構成=川村 真史)
1983年、筑波大学大学院理工学研究科前期課程を修了後、日立金属株式会社へ入社。米国留学制度を利用し 1992年、スタンフォード大学応用物理研究所に客員研究員として1年間の留学を経験。1996年、独立行政法人物質・材料研究機構(現 国立研究開発法人物質・材料研究機構)へ入社。在籍中の2000年10月、国家公務員兼業制度を利用して当社を設立、代表取締役社長就任。
神奈川県出身。一橋大学経済学部卒業。大学在学中にIT分野で起業。2006年 野村證券株式会社に入社。国内外の上場企業オーナーや上場予備軍から中小企業オーナーとともに、上場後のエクイティストーリー戦略から上場準備・事業承継案件を多数手掛ける。2013年4月 株式会社ZUUを設立、代表取締役に就任。複数のテクノロジー企業アワードにおいて上位入賞を果たし、会社設立から5年後の2018年6月に東京証券取引所マザーズへ上場。現在は、プレファイナンスの相談や、上場経営者のエクイティストーリーの構築、個人・法人のファイナンス戦略の助言も多数行う。
起業と事業の変遷について
冨田:冨田始めに2000年の設立から2021年の上場まで、事業の変遷や組織の変化についてお話しいただけますか? ビジネスモデルが大きく変化したのか、拡大したのか縮小したのか、そのような流れについて教えていただけますか?
古川:まず、私が起業を決意した出来事からお話させてください。
私は、大学卒業後、13年間会社員として大手メーカーや国の研究所で研究を進めてまいりました。国の研究所の研究員だった時に、非常に面白い研究結果が出て、大手企業複数社に技術を移管し、ライセンスを提供しました。
当時注目されていた通信分野で必要となる材料の製造技術でしたので、1年後には量産化されると信じていましたが、いくら待っても製品化される気配はありませんでした。
ライセンスした大手企業は、リスクを冒さないように様々な理由を付けて製品化を見送っていたのです。
「自分でやるしかない。」そう思い、自分で事業を始めることにしました。その時点で上場などは全く意識しておらず、ただ研究成果を世の中に出したいという気持ちだけでした。
私は、大手メーカーに勤めていた時に、1年間スタンフォード大学に留学したことがあります。当時のシリコンバレーでは、多くのベンチャーが起業していました。
同じ研究室の仲間の中にも、会社を立ち上げた人が何人もいます。私は、彼らが自分たちの研究成果を社会に還元する姿勢に強く影響を受けました。
しかし、帰国後の日本では、そのような意識はほとんど見られませんでした。逆に、当時の日本では、研究者がベンチャー企業を始めることに否定的な意見がありました。
そのような中でも私は、スタンフォード大学でお世話になった教授の「人生で最大のリスクは何もリスクを冒さないことだ」という言葉を胸に、起業を決意しました。
こうして、2000年に、国家公務員兼業制度の国内第1号としてオキサイドを立ち上げました。
冨田:なるほど、そのような経緯で事業を始められたのですね。
シリコンバレーの風を日本へ―古川さんの起業までの道のり
冨田:当時はベンチャーキャピタルも存在せず、企業を始める時のノウハウも分からない状況だったとのことですが、それでも資本金5000万を集めて会社を立ち上げたということでした。その資本金は装置購入に必要だったということでしょうか?
古川:はい。結晶を製造する装置を1台購入すると5000万円かかります。起業するときに集めた資金は、装置購入や開発費で消えていきました。当時はブルーレイディスクが注目され始めていました。ご存じのとおり、ブルーレイディスクには青色のレーザを使います。この青色の光は、結晶を通して赤外光を変換して作り出します。当時、大企業がブルーレイを作りたいと考えており、青色レーザを作る結晶を必要としていました。そこで私たちは、その結晶を製品化するためのプロジェクトを立ち上げたのです。
冨田:なるほど、結晶を製品化するプロジェクトだったのですね。しかし、実際にやってみるとなかなかうまくできなかったということですか?
古川:そうですね。順風ではなかったですね。半年かけてやっとほんの少し製品として出荷できる結晶ができるくらいでした。資金繰りに追われる中、自らが開発に時間を割くことができなくなり、他の人に任せるようにしたんです。製造経験がある創業メンバーによって、歩留まりが急激に良くなり、製品化が加速しました。その結果、売上が急上昇しました。
冨田:それは驚きですね。しかし、その後、ノーベル賞を取った青色レーザが出てきて、他社もその方向に乗り換えたということですか?
古川:そうなんです。やっと売上が上がったと思ったら、わずか半年で競合に負けてしまいました。
冨田:それは大変でしたね。材料の取り扱いは難しいと感じましたか?
古川:材料は難しいと感じましたね。当時は、筑波の国研発ベンチャーとして、今で言うところのインキュベーションセンター(創業初期段階の事業拡大や成功を支援する目的で、通常より安価な賃料で事務所スペースを提供する場所)で事業を行っていました。大学や研究所といった場所には立派な施設がありますが、私たちの研究所にはそのような施設はありませんでした。そんな時、知り合いから山梨で事業を始めないかと誘われたのです。
冨田:山梨での事業開始はどのような状況だったのでしょうか?
古川:工事現場にあるようなプレハブの小屋を借り、月の家賃5000円。そこを本社として始めました。3人でのスタートでした。ベンチャーというと名前は格好良さそうですが、当時はそのような感じでした。
冨田:それは相当な困難を経験したのではないですか?
古川:そうですね、研究所が離れていたこともあり、人材の確保も困難でした。無名のオキサイドには応募してくる人材はほとんどいませんでした。東京で面接をして採用しても、山梨の本社に来てもらうと、そのプレハブを見て驚き、入社してくれないこともありました。当時は、優秀な人材を採用することにかなり苦労しました。
冨田:それは大変だったのでしょう。その後の事業展開はどうでしたか?
古川:気がついたら借金が数億円になっていました。オキサイドを創業してから3年が経過し、国家公務員兼業制度の期限を迎えようとしていました。その頃、すでに数人の従業員を抱えており、彼らに「あとはお任せします。」とはとても言えませんでした。結局、国立研究開発法人物資・材料研究機構(NIMS)を正式に辞め、事業に専念することになったのです。
冨田:そうなんですね。資金繰りなどが厳しくなってしまい、会社の持ち株比率も下がってしまったともお聞きしました。
古川:そうです。社長が全株式の50%以上のシェアを持っていればよかったのですが、私が資本政策をよく理解していなかったために、私は10%しか持っておらず、親会社がほとんど持っていました。その親会社が資金繰りに困った際に、持っていた私たちの会社の株を全部売ったのです。その結果、資本関係がなくなったということで、プレハブから立ち退かざるを得なくなってしまいました。
冨田:それは大変でしたね。その後、5年経って何も残らなかったと。
古川:その後、山梨県北杜市武川町、その当時は北巨摩郡武川村という人口数千人ほどの村でしたが、そこに空き家になっている工場があり移転しました。それが今の本社となりました。
冨田:空き家だった工場を使えるようにするためには大変だったのではないでしょうか?
古川:空き家といっても、すぐに会社として使える状態ではなかったので、私たちは自分たちで補修を行いました。今の本社の天井は、自分たちでペンキ塗りをしましたので、当時のまま、まだら模様になっています。
「起死回生の経営 - 古川氏の挑戦」
冨田:会社を移転された時の状況を教えていただけますか?
古川:当時は経済的に困難な状況ではありました。本社の売上は、1億円には及ばない程度でした。しかし、NTTグループ(以下NTT)からアメリカのIBM株式会社で開発された結晶の製造を依頼され、委託研究費が支給されるという話が持ち込まれました。
冨田:どのような経緯で、そのような話が持ち込まれたのですか?
古川:市場がなくても技術はある、そういうことを知っている会社から開発の委託が来るんです。当時、その結晶の製造は、他のNTTの部門や他社ではなかなかうまくいかなかったのですが、私たちは必死に取り組んだ結果、何とか製造に成功しました。その結晶の製造地が山梨のオキサイドであると知ったNTTは大いに驚きました。
冨田:なぜNTTが驚いたのですか?
古川:NTTが大規模なプロジェクトで多額の資金を投じているのに、結果を出したのは私たちのような小規模企業だったからです。その後、NTTは他の大手企業にも製造を依頼しましたが、大手も結晶の製造に苦労し、結局は断念しました。
冨田:そうだったのですね。その後、どのようになったのですか?
古川:NTTはオキサイドを取り込もうとして、株主になるという提案をしてくれました。それにより、NTTアドバンステクノロジ株式会社やNTTファイナンス株式会社も株主となり、現在では約10%の株を保有しています。
NTTが株主になったことで、他社からも注目されるようになりました。その時点で、我々の社員数は20人程度で、当時NTTの社員数である約20万人と比べると1万分の1という大きな規模の差がありました。それでも、他社ではできないことをやれば何とかなるということを強く感じました。
冨田:なるほど、その次にまた同様の出来事があったということですね。
古川:はい、その通りです。大阪大学で研究された紫外線の結晶になります。その結晶は非常に優れたものでした。しかし、大手の企業が開発を進めていたにも関わらず、突如として開発を放棄しました。そのため、装置メーカーが困ってしまい、結晶がないと困ると私たちに開発を依頼に来たのです。
冨田:そうなんですね。それで、その結晶の開発を引き継いだということですか?
古川:そうです。私たちが懸命に取り組んだ結果、結晶の開発に成功しました。装置メーカーが結晶を必要としていたため、私たちが継続して生産ができるように、ニコンやレーザーテック、そしてアメリカのKLAという大会社が新たに株主になったのです。
冨田:なるほど、それで会社の形が整ってきたというわけですね。大手ができないようなことにチャレンジし、自分たちだけができることをやるという戦略をとったのですね。
古川:実際にその戦略は先ほどの2つの出来事を通じて形成されました。私たちは大きなものを狙うよりも、生き残ることを重視しました。
ベンチャー企業の成功への道のり
冨田:事業が成功した要因は何だと思いますか?
古川:筑波の研究所から生まれたベンチャーという背景が大きいと思います。私たちの先輩方の努力による技術基盤があったからこそ、今日の私たちが存在しているのです。そして逆境でも諦めなかったことがあると思います。
冨田:なるほど。結晶事業の後は、どのようなことを行ってきたのでしょうか?
古川:当社は長らく結晶の事業を行ってきましたが、ある時、ソニー株式会社の子会社(以下ソニー)がレーザの事業をやめました。私はそれをチャンスと捉え、ソニーのレーザ装置の事業を買収しました。それがきっかけでレーザ事業に参入しました。
冨田:レーザの事業に参入したということは、利益が大きくなったということですか?
古川:その通りです。結晶の価格は1個あたり約10万円から20万円ですが、レーザは1台 2000万から4000万円となります。そのため、自社で商品につけられる価値が大きくなりました。
冨田:今まで続けてきた結晶事業からの転換は、社員の皆さんから受け入れられたのでしょうか?
古川:当初、社員全員が反対でした。結晶しか分からないのに装置を作れるわけがない、という意見が大半でした。ソニーが利益を上げられずにやめた事業に手を出すなんて、という意見もありました。
冨田:それにもかかわらず、なぜレーザの事業に参入する決断をしたのですか?
古川:レーザを作り出す元となるのは結晶であり、その鍵を握っていれば何とかなると考えました。ソニーを退職した技術者3人が当社に入社し、共に事業を進めていくうちに、少しずつ販路を拡大し、出荷台数を増やしていきました。他にも、優秀な技術者が集まることによって、事業規模を拡大していくことができました。
古川社長に聞く、経営の強みと成功の秘訣
冨田:オキサイドの自社事業の強み、経営判断する上で重視されている要素、そして経営者としての原点など、過去から積み上げてきたご自身の強みについて教えていただけますか?
古川:最初に挙げられるのは、人材を集めることですね。特に技術者集団の結成は大きな強みとなっています。
また、ベンチャー企業に対するM&A、具体的にはA&D(買収と開発)も積極的に行ってきました。技術開発では、一般的にまずR&D(研究と開発)が行われますが、研究やリサーチに時間がかかるため、A&Dという手法を取り入れました。他社が手放した技術を買収し、我々が開発する。これが我々の成功の秘訣です。
冨田:さきほどは自社事業の強みについてお話いただきましたが、古川社長の経営者としてのルーツや経営判断の観点など、ご自身の強みは何だと思いますか?
古川:私の強みという観点から見れば、最も重視するのは経営判断です。私の経営判断は「企業価値をあげるか、あげないか」が軸になっています。
私の経営者としてのルーツは技術者から始まりました。その経験から、「人生で最大のリスクは何もリスクを冒さないことだ」という恩師の言葉は真実だと学びました。
そのため、例えば過去8年間で売上が20億円であったにも関わらず、買収金額が14億円という大きなリスクを冒してM&Aを進めたこともありました。しかし、それらの投資は企業価値を上げるための重要な判断だったと考えています。
そして、自分自身の能力の程度を把握していますから、自分の得意でない分野、自分より優秀な人材を常に採用し続けてきたことだと思います。経営の素人ですから色々な本を読んだのですが、会社の規模は社長の器で決まるということをきいたときはショックでした。
冨田:なるほど、企業価値を上げるという観点からすれば、無駄なことはしないということですね。それでは、古川社長自身の価値観について教えていただけますか?
古川:私の価値観は、企業の価値観と一致しています。特に、株価にしっかりとした価値がついているかどうかを重視しています。その観点から、常に長期的な視野で会社の成長を考えています。今年もイスラエルの会社を買収しました。これからもこの戦略で進んでいくつもりです。
未来の光技術とベンチャー経営への支援 - 古川氏に聞く
冨田:これまでに様々な過去の話を伺いましたが、これから未来に向けて、どのようなテーマに関連していくのでしょうか?また、未来に向けてどのような構想をお持ちですか?
古川:そうですね、これからは光の時代が到来します。20世紀はエレクトロニクスの時代でしたが、これからは光の技術がどんどん発展していくでしょう。私たちは、結晶とレーザの技術で、社会に貢献していきたいと考えています。日本は素材技術が強いですが、ベンチャー企業があまり育っていないので、そういったところもサポートしていきたいと思っています。
冨田:技術力がある会社に投資をするという戦略は、非常に興味深いですね。
古川:そうですね、私たちは技術力があるベンチャー企業に積極的に投資をしています。例えば、パワー半導体や量子暗号通信、紫外線レーザなど、注目されている分野のベンチャー企業に出資をしています。
冨田:技術力がある会社に次々と出資しているということは、これからのマーケットの伸びに対する期待が大きいのでしょうか?
古川:そうですね、技術力を武器にした会社は、事業の幅がどんどん広がっていくでしょう。しかし、ベンチャー企業には経営のノウハウが欠けていることが多いです。ソフトウェアやバイオのベンチャーとは異なり、ハードテックや素材のベンチャーは経営の手法が違います。そこで、私たちはそのような企業に対する経営のサポートも行っています。
技術力がある企業の経営を支え、その技術を社会に広めることで、新たな価値を生み出すことが我々の役割だと考えています。社会にはまだ見ぬ可能性を秘めた技術がたくさんあります。そのような技術を開花させ、成長させていくことが重要だと考えています。
読者へのメッセージ
冨田:最後になりますが、投資家の方々に向けて一言、何かメッセージをいただけますか?
古川:これからも「結晶と光」は非常に重要で、それを通じて世の中を幸せにする事業展開を続けていきます。光学分野におけるグローバルリーディングカンパニーを目指していきたいと思っています。皆様のご支援をいただけますと、とてもありがたいです。
冨田:素晴らしいですね。初期の非常に大変な話から、今の強みが生まれていると感じます。古川さんの会社は、逆境に強いイメージがあります。上場してからも、常に追い風が吹き続けるわけではありません。しかし、御社であれば様々な逆境があったとしても、それを乗り越えて、不死鳥のように何度も再生していく大きな会社になると思います。グローバル企業でも、そういう会社は数社しかありません。今日のお話を聞いて、その強さを強く感じました。ありがとうございました。
- 氏名
- 古川 保典 (ふるかわ・やすのり)
- 会社名
- 株式会社オキサイド
- 役職
- 代表取締役社長