自由競争のイメージがある欧米でさえも、日本と同様、未だ「学歴社会」が根深いが、「高校中退」にもかかわらず、結果を残し名声を手にした人たちがいる。今回は高校を中退した人に絞り、挫折から成功をつかんだ世界的著名人4人を紹介する。

デビット・H・マードック(実業家)
失読症の「パイナップル王」

1923年4月11日、米ミズーリ州で生まれたデビット・H・マードック。失読症の「パイナップル王」と呼ばれたマードックは、15歳の時にガソリンスタンドで働く為に高校を中退し、1943年に陸軍に入隊した。その後アリゾナで不動産開発に乗り出し、「Dole(ドール)」を所有していた倒産寸前の米キャッスル&クックを1985年に買収。

キャッスル&クックは不動産投資部門として分社され、現在もハワイのラナイ島などを所有している。マードックが高校の卒業資格を取得した2009年に上場企業になったDoleは、今や世界最大の果物・野菜生産企業に成長を遂げた。

クエンティン・タランティーノ(映画監督)
学校嫌いだった『キル・ビル』監督

1963年、米テネシー州に生まれたクエンティン・タランティーノ。学校よりも映画が好きという子供時代を過ごした。タランティーノは学校を嫌がり、勉強をする代わりに映画を観たり漫画を読んで時間を過ごした。

学校中退後、成人映画館「アッシャー」で働きながら演劇クラスに通った後、20代前半でカリフォルニア州マンハッタン・ビーチの「ビデオ・アーカイブ」で職を得た。その当時『トゥルー・ロマンス』と『ナチュラル・ボーン・キラーズ』の脚本を執筆。

1992年に『レザボア・ドッグス』で監督デビューするが、1994年に制作した『パルプ・フィクション』はインディペンデント・フィルム最高額の興行収入(1億 800万ドル/約129億 1464万円)を弾き出し、多くの批判と賞賛を浴びることになった。

2003年と2004年に『キル・ビル』シリーズをリリース。この作品で主演のユマ・サーマンはゴールデン・グローブ賞を受賞。タランティーノは2009年に制作した『イングロリアス・バスターズ』でアカデミー賞2つ(監督賞、脚本賞)にノミネートされた。

ジョージ・フォアマン(オリンピックメダリスト)
45歳でヘビー級王者に返り咲いた、元チンピラのゴールドメダリスト

1949 年1月10日、米テキサス州マーシャルで生まれたジョージ・フォアマン。治安の悪いヒューストンのフィフス・ワード地区で育つ。自称「チンピラ」だったフォアマンは15歳で高校中退し、米労働省が若者向けに運営している職業訓練プログラム「ジョブ・クロップス」に参加する1965年まで、街のギャングとつるんでいた。

ファイティング・スキルをリングで活かすように励ましてくれたボクシング・トレーナーのドク・ブローダスには、ジョブ・クロップスを通して出会った。フォアマンは瞬く間にスキルを磨き、1968年のメキシコシティ・オリンピックにボクシング・チームの一員として参加する事が決定。

1968年にオリンピック金メダルを獲得。1973年には統一世界ヘビー級チャンピオンの座に輝いたが、モハメド・アリには敗退。10年間の空白を経て45歳で見事2度目のヘビー級チャンピオンに返り咲き、二度目の引退後はピッチマン兼実業家として活躍している。

リチャード・ブランソン(実業家)
文字が読めず苦しんだ少年時代

1950年7月18日、英国サリー州で生まれたリチャード・ブランソン。失読症が原因で学校で苦しんだリチャードは、当時通っていたスカイトクリフ校から脱落しそうになるが、13歳の時に英バッキンガムシャー州のストウにある全寮制男子校ストウ校に転校した。

しかしその後も成績が奮わない状態が続き、若者向けのカルチャー雑誌『スチューデント』を立ち上げる為に、16歳で学校を中退した。後に彼をヴァージン・レコード設立に導く決断だった。ブランソンのベンチャー・プロジェクトは音楽業界から始まって多様分野に拡大され、1984年にはヴァージン・アトランティック航空を設立し、巨額の富をリチャードにもたらした。

ヴァージン・グループは最近設立させた宇宙旅行会社「ヴァージン・ギャラクティック」を含め、200社以上の子会社を所有している。太平洋を熱気球で横断するなど、リチャードは冒険精神とスポーツ精神に富んでいる事でも有名だ。(ZUU online 編集部)