意識高い系,ビジネスマナー
(写真=PIXTA)

「意識高い系」という言葉はもともと、学生主体の就活イベントなどで「意識の高い学生たちが集まるイベントです」といったキャッチコピーが使われていたことから、それを揶揄する形で使われ始めたもの。『「意識高い系」という病』(ベスト新書)という著書を持つ人材コンサルタントの常見陽平氏は、「意識高い系」の特徴として次の7点を挙げている。

「やたらと学生団体を立ち上げようとする」「やたらとプロフィールを『盛る』」「全ては自己アピール、質問が長い」「ソーシャルメディアで意識の高い発言を連発」「人脈をやたらと自慢、そして利用する」「やたらと前のめりの学生生活を送る」「人を見下す」

しかし、こうした存在は何も最近生まれたものではない。たとえば一昔前のバブル時代にもいた。当時の彼・彼女らの関心はマスコミ“ギョーカイ”へ向いていた。現代は関心がIT業界へ向いているほか、ソーシャルメディアという承認欲求を満たせる場所が顕在化しているという違いはあるものの、昔からこの手の若者はいたものだ。バブル時代は企業側にも、こういう若者を"遊ばせながら"育てる余裕があったが、今は違うということだろう。SNSで可視化され、目立つようようになったことも大きいだろうが、社会や企業がこうした存在に寛容ではいられなくなったということもあるのかもしれない。

「意識が高いこと」自体が問題なのではない

最近は「意識高い系」という言葉は、学生だけでなく自己啓発に関心の強い若手ビジネスパーソンに対しても使われる。何の実績も挙げていない者が企業経営者の立場でモノを語ってしまうという行為が痛々しいということだ。

ただ「意識が高いこと」それ自体が悪いわけではないはずだ。新入社員が経営者の視点を知った上で、自分が組織の中でどう機能すべきか考えるのであれば、意識を高めるための自己啓発にいそしむことは益になることはあれ、害になることはない。先の常見氏も「意識が高い」こと自体は推奨している。

要は「意識が高い」ことが問題ではない。「自分が人からどう見られているか」という社会性の基本のところが欠如していること、意識“だけ”高いことこそが問題なのだ。

まず「こう見られている」と自覚せよ

どれほどビジネス書などを読んでも、「自分が人からどう見られているか」というところの自覚がなければダメだ。「意識だけ高い」ようでは、キャリア形成がうまく行くはずがない。

意識だけでなく能力を高める方法は別稿にゆずるとして、まずは「もしかしたら自分は意識高い系だったかも……」という人に向けて、「周囲からこう見られている」という具体的な3点を指摘しよう。

自分を賢く見せようとしている「道化に見える」

SNSでの書き込みや会話を通じて周囲へ自分の「意識の高さ」をアピールしすぎていないだろうか。そうすると、どうしても“うっとうしい存在”となる。体験から出た言葉ならともかく、本やネットで得た知識の喧伝は何も生まない。

社会人には「時に道化を演じて周囲を楽しませるスキル」が求められることもある。「意識高い系」は自分を賢く見せようとして、そのまま道化となっている。まずはそのことを自覚することだ。

自分を大きく見せようとしてかえって「小さく見えている」

自分を大きく見せようとして、SNSのプロフィール欄に正体不明の役職や資格を並び立てていないだろうか。フリーランスなら名刺の肩書きがそうなっているかもしれない。

しかし、肩書きが増えれば増えるほど訳の分からぬ人として見られ、自己を誇張したいだけの小人物と評価されてしまう。肩書きで自分を語るのではなく、名前だけで思い出してもらう存在にならないとビジネスの世界では意味がない。

失敗を認めないから「成長しそうにない」

「意識高い系」の人は、おうおうにして失敗や自分の能力の低さを認めない。それを認めたら、「できる人間」を演出してきたことのすべてが水泡に帰してしまうからだ。

しかし、自分の失敗や能力の低さを認められない人間が「成長しそう」などと思われるはずがない。イメージだけでなく、実際にも「仕事のできない人間」のままで年をとっていく。これでは、キャリア形成など無理な話だ。
心当たりがあるなら、まず「こう見られているかもしれない」という点を意識して、自分の行動を省みることから始めてはどうだろうか。(ZUU online 編集部)