歴史に残っている貴重な品々はその後、どこに行ったのだろう。秀吉死後の莫大な軍資金の行方、消えた国宝級の仏像がクリスティーズのオークションにかかった背景、新幣「明治通宝」がたった9年で消えた理由など、日本史の「お金・財産」に関する謎を見てみよう。
(本記事は、雑学総研の著書『誰も書かなかった 日本史「その後」の謎大全』=KADOKAWA、2018年2月1日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
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興福寺から消えた国宝級の仏像がなぜアメリカの美術オークションに?
2014年、アメリカ・ニューヨークで開かれた世界的なオークション会社「クリスティーズ」の美術オークションに、前代未聞の一体の仏像が出品された。
その仏像は、「乾漆十大弟子立像」という。
そもそもは奈良県の興福寺に所蔵されていたものだ。
「十大弟子」という名のとおり、もともとは10体の釈迦の高弟を表現した仏像で、現在では国宝に指定されている。ところが、興福寺に所蔵されているのは10体のうち6体のみで、ほかの四体は歴史の流れの中で外部へ流出したとされている。
その四体のうちの一体が突如、150年のときを経てこの世に現れたというのだから仏教関係者の度肝を抜いたのであった。
なぜ、このようなあり得ないことが起こるのだろうか。
この仏像の場合がどうだったのか、その詳細は定かではないのだが、明治維新期に日本の仏教界を襲った「廃仏毀釈」による影響と考えることはできるだろう。廃仏毀釈とは、江戸末期から明治初期にかけての仏教排斥運動で、明治時代がはじまるとともに神道を国教と考えた新政府によって、寺院が破壊されたり、僧侶が無理やり還俗(再び俗人に戻ること)させられたりした。そのような時代の中で、二束三文で売り払われた仏像や廃された寺から流出した仏像が少なくなかった。
その中には、極秘裡に海を渡った仏像もあったことだろう。現代のオークションに出品された仏像の中には、盗まれて以来ずっと行方知れずのものも少なくなかったはずだ。
今回の乾漆十大弟子立像の出現により、明治初期に失われたその他の仏像も、どこかで息を潜めて日の目を見ることを待っている可能性が高まった。
しかし、ここで押さえておかなければならないのは、オークションに出品されたということは、落札した人が外国人ならば日本へ戻ってくる可能性は少なくなるということである。
事実、乾漆十大弟子立像も、匿名の外国人によって落札されてしまったため、日本へ帰還することはなかった。落札価格は約6700万円であった。
なお、現在でも、日本の寺からは本尊などの仏像が流出する事件が相次いでいる。それは、韓国人の盗品グループによる犯行の場合 もあるというが、実は檀家の中の誰かが盗み、転売しているケースもあるとか。
そのような日本製の仏像は、中国人の美術コレクターの手に渡り、鑑賞されていることも少なくないという。
二十一世紀の仏像をめぐっては、深い闇に覆われているといえよう。
シーボルトが国外へ持ち出した品々はその後どこへ行ったのか?
1828(文政11)年、ドイツ人医師・シーボルトが地図などの禁制品を国外へ持ち出そうとしたことが発覚し、関係者が処罰されるという事件が起こる。いわゆる「シーボルト事件」である。
シーボルト事件はこれまで、嵐によってオランダ船が座礁した際、その積荷から偶然地図が見つかり、事件の発覚に至ったとされてきたが、近年の研究によってそうではなかったことが明らかとなっている。
シーボルト事件の発覚は、彼自身が間宮林蔵に出した手紙にあったとするのがその説だ。
オランダからの命によって六年ものあいだ日本に滞在し、滞在中に女の子をもうけていたシーボルトは、当時鎖国体制を敷いていた日本を世界に広く紹介したいと考えていた。
そこで、蝦夷地の情報を手に入れようと、探検家・間宮林蔵に「蝦夷地で採集した押し花を送ってくれれば、私が帰国した際には西洋の地図をお送りします」との手紙を送る。
この内容により、シーボルトと幕府天文方・高橋景保との関係が幕府の知るところとなり、のちに高橋がシーボルトに日本地図を渡していたことが明らかとなったのだった。なお、シーボルトから手紙を受け取った林蔵は、封を切らず、そのまま幕府へ差し出している。それほど、当時は許可なしに外国人と接することは禁じられていたのだ。
シーボルトが愛妻・タキと娘・イネを残し、後ろ髪を引かれる思いで日本を離れたのは1829(文政12)年12月のことであった。
さて、シーボルトが国外へ持ち出そうとした品々だが、その後どうなったのだろうか。日本地図に関しては、当時の情勢から厳しく管理したが、実はそれ以外の品々に関してはオランダへ持ち帰ることを許していたのだ。
とくに多かったのは植物の標本だったようで、彼の帰国後、それらはオランダ政府によってすべて買い上げられた。ただし、標本は整理しなければ意味がないため、それらはそのままシーボルトの自宅に置かれ、彼が整理に当たったという。
1839年、ライデン市に博物館が設立されると、標本をはじめとする品々はそこへ収められ、のちに国立植物学博物館ライデン大学分館に収められていたが、2000(平成12)年、日蘭修好四百年を記念し、同博物館より東京大学総合研究博物館に50点余の植物標本が寄贈されている。
日本とオランダの良好な関係は、シーボルト事件によっても崩れることはなかったようだ。
豊臣秀吉が息子・秀頼のために遺した莫大な軍資金のその後
死期が迫ってきた太閤・豊臣秀吉は、1598(慶長3)年8月、五大老宛に遺言を残し、息子・秀頼の将来を託す。天下を統一した秀吉の、この世の最後の願いであった。
五大老とは、徳川家康、前田利家(利家死後は利長)、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元の五人をさす。この五人が秀頼を支え、豊臣政権を存続させていく方針であったが、1599(慶長4)年閏3月に前田利家が病没したことで五人のあいだのパワーバランスが崩れ、やがて家康の独裁的な体制となっていく。
関ヶ原の戦いから大坂夏の陣まで続く家康の権力増長は、利家の死が契機となって一気に進んでいったといえよう。
秀吉は五大老への遺言とともに、大坂城内に莫大な軍資金をも遺していたといわれる。通称「太閤遺金」といわれるものがそれだ。
その軍資金の総額がどれほどであったのかは定かでないが、秀吉が関白になる前の1585(天正13)年4月の時点で、大坂城内には7000枚(7万両)もの金子(金貨)が保管されていたといわれる。
さらに、4年後の1589(天正17)年5月に聚楽第にて行なわれた、いわゆる「太かねくば閤の金賦り」では、6000枚(6万両)の金子と2万5000枚(25万両)の銀子が大名や一族に分配されたと伝わる。
そのほかにも秀吉は一族の要職就任に際して莫大な金子を与えていたことから考えると、その総額は莫大なものとしかいいようがない。
では、秀吉の死後、それらの軍資金はいったいどこへ行ったのだろうか。
軍資金の大部分は、豊臣家の財産を目減りさせることを望む家康の思惑によって、85件にもおよぶ寺社の造営・修理に使われたとされる。家康は政治力を発揮し、秀頼と淀殿にそれらの負担を強いたのである。
ただ、これらによっても豊臣家の軍資金は減らなかったようで、駿府隠居中の家康の政治情勢を記した日記である『駿府記』によると、大坂城の落城金子と2万4000枚(24万両)の銀子が発見されたという。軍資金はまだまだ隠されていたのだ。
結局、この軍資金の残りは徳川家によって没収された。名実ともに、豊臣家はお取り潰しになったのだった。
新幣「明治通宝」はなぜたった9年で消えたのか?
黒船来航(1853年7月)から廃藩置県(1871年7月)に至る、一連の激動の時代を総称して「明治維新」という。この頃の日本人は明治維新のことを「政治の一新」という意味合いから、「御一新」と呼んでいた(「維新」とは中国の古語に由来)。
明治維新のあいだ、先の二つの大きな出来事のほか、日米和親条約の締結、日米修好通商条約の調印、桜田門外の変、薩英戦争、大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争、版籍奉還と、まさに日本の行く末を左右する重大事が相次いだわけだが、新政府が成立しても混乱が収まることがなかったのが通貨制度に関してである。
御一新がなっても、明治政府は通貨制度を整備する余裕がまるでなかった。
そのため、幕藩時代の金銀通貨や藩札(各藩が発行し、その領内だけで通用させた紙幣)をそのまま流通させ、さらに通貨の不足を補うために太政官札や民部省札などを発行させた。
だが、これによって、各通貨間の交換比率は非常に複雑になり、偽造された金貨や紙幣が横行することにもなった。明治初期の通貨制度は、政治同様、混乱の極みにあったのである。
そこで、政府は1871(明治4)年に新貨条例を制定し、単位を「両」から「円」に改めた。
また、翌年になると、政府は流通している紙幣を統一するため、旧紙幣を回収し、「明治通宝」という新紙幣を発行する。日本ではじめて西洋の印刷技術を取り入れてつくられたのが明治通宝であった。
明治通宝は、ドイツの印刷業者に原版の製造を依頼したため、「ゲルマン紙幣」とも呼ばれていた。
ところが、鳴り物入りで制作された明治通宝は1881(明治14)年に回収され、姿を消してしまう。
なぜ、明治通宝はたった九年で、デザインを一新した改造紙幣に取って代わられてしまったのだろうか。
おもな理由は、「偽造しやすかったから」である。
明治通宝に用いられた洋紙は湿気による変色を受けやすく、破れやすくもあった。さらに、100円と500円、100円と5円、1円と2円がそれぞれ同じ大きさだったため、高額紙幣への偽造がしやすかったのだ。
このことにより、政府は現在見られるような歴史人物の肖像画入りの紙幣を発行するようになる。
日本初の紙幣は神功皇后が描かれた「1円」札で、図柄のデザインと原版彫刻は西郷隆盛の肖像画で知られるエドアルド・キヨソネの手によるものである。キヨソネはイタリア人であることから、神功皇后の風貌は外国人風にアレンジされている。
なお、現在、明治通宝の100円札と500円札は希少価値がとても高く、100円札においては数千万円以上の価値があるというのだ。
雑学総研
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