●モディ政権の農業政策に対する批判
上述のとおり、モディ政権は農業部門が抱える構造問題への対応を実施してきたが、反対に農家の不満は高まっていった。これは農家の窮状を踏まえた政府の対策が不十分であったことに起因している。以下では、モディ政権期の農業部門の動向を時系列に沿って概観し、上記の農業政策に対する批判の所在を確認する。
まず2014年の総選挙において、モディ氏は農民に対して生産コストの50%の利益を保証するとし、米や小麦などの作物に支払われる最低支持価格(MSP)を引き上げることを公約した。しかし、実際には食料インフレを抑制するため、2014年6月にMSPの引き上げ幅圧縮を閣議決定、これが物価安定に寄与する一方、補助金削減分は財政再建やインフラ開発の原資に充てられた。
2014-2015年は2年連続の干ばつとなったために農業生産が低迷した(図表19)。生活に苦しむ農民らが借金返済の免除を求めるデモが増えるなか、州議会選挙をきっかけとして農業ローンの返済免除を打ち出す州が増えていった(図表20)。モディ政権は国民の支持離れを警戒して農業・農民を重視する政策に舵を切った。2016年度予算案では農業開発のための課税が盛り込まれ、「2022年までに農家の所得を倍増する」と宣言して農業所得倍増計画を打ち出している。
2016-2017年は比較的順調な雨量が得られたため、農業生産が拡大した(図表21)。しかし、16年11月の高額紙幣の廃止や17年7月のGST導入の混乱の影響で国内需要が鈍化したことから、供給過剰に陥った農産品の取引価格が急減、結果として農業労働者の賃金上昇率は2017年後半から再び鈍化していった。
この頃から国民の支持離れが表面化し始めた。17年12月に行われたモディ首相のお膝元であるグジャラート州議会選挙では、BJPは過半数を確保したものの、議席数を115議席から99議席に減らした(10)。
2018年度予算案では、政府は農業部門への配分を前年度比13%増加させ、カリフ期のMSPの大幅引上げを宣言、2014年の総選挙で掲げた公約どおりに農民に対して生産コストの50%の利益を保証するとした。
2018年以降は穀物価格が上昇、農業労働者の賃金も上向いているが、原油や電力など農業投入財の値上がりが続いたため、生産コストが上昇して農家の利益が目減りする状況が続いている。
以上のとおり、モディ政権期は2年連続の干ばつと政策要因による景気減速があり、農家にとって厳しい環境が続いた。しかし、中央政府は選挙公約の最低支持価格(MSP)の大幅引上げを遅らせるなど、各種補助金や給与・年金などが含まれる経常支出を抑制、また貧困対策の柱であるマハトマ・ガンジー国家農村雇用保証計画(Mahatma Gandhi National Rural Employment Guarantee Scheme: MGNREGS)(11)の予算についても前政権と比べて抑制されてきた(図表22)。さらに借金の帳消しを求める農民のデモが全国各地で相次いだものの、全国規模で農業ローンの返済免除を表明することはなかった。こうして農民の間で「中央政府は農民の困窮を和らげる方策を持ちながらも可能な限りの対応をしなかった」という批判が広がっていった。
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(10)18年5月のカルナタカ州議会選挙ではBJPが最大議席を得たものの、野党連立により政権獲得に失敗した。また18年12月の国内5州(マディヤ・プラデシュ州、ラジャスタン州、チャッティスガル州、テランガナ州、ミゾラム州)の議会選挙ではBJPが全敗した。
(11)MGNREGS(2016年2月開始)は農村の貧困層に対して 年間100 日まで単純労働の雇用を保証するプログラム。農村の道路・公共施設の建設、小規模灌漑の整備などに労働に対して賃金が支給される。農閑期に発生する農村の余剰労働力を吸収する所得がなくなる農業従事者に賃金労働を提供する。
●インドの農業部門と農政を巡る課題(まとめ)
これまで見てきたとおり、インド農業部門は数多くの課題を抱えている。農家の零細・小規模経営や技術導入の遅れが生産性向上を阻害すると共に、サプライチェーンにおける非効率な市場とインフラ整備の遅れが農家の収益性を損なっている。また気候変化や農業金融へのアクセスが難しいことが農業を不安定なものにしているため、農民は貧困状態から抜け出せず、高成長を続ける非農業部門との間で所得格差が広がっている。
こうした課題は長年にわたり政府も取り組んできたが、未だ解決には至っていない。非効率なサプライチェーンの問題は民間企業や農業生産者団体/農業生産者企業の係わり、eNAMの導入などにより進展が見られるものの、総じて成果の出るまでに時間のかかる課題が多く、短期間で貧困に苦しむ農家の負担を和らげることは難しい。その間に天候要因や景気の悪化などで農業部門が弱含んでしまうと、再びMSPの引き上げなど従来型の補助金政策に頼らなければならなくなる。これが財政負担となって農業生産性の向上に向けた施策に充てる財源が制限されてしまっている。インド政府は財政余力がなく、農業・農民に対する保護政策だけでは労働人口の約半数を占める農民の生活を豊かにすることは難しい。
このように農業政策がスムーズに進まない背景には、インドの政治システムの問題もある。例えば、農業政策の権限は州政府にあるため、中央政府の掲げる農業政策が実行段階で州の特殊事情に合わせて中身を変えられてしまうことが挙げられる。また連立政権内の意見対立(12)のために抜本的な対策を実行に移すことが難しいこともあるほか、農業部門に関連のある省庁が少なくとも12以上もあるために政策調整に時間がかかることも関係しているだろう。
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(12)インドでは、全国政党である国民会議派(INC)やインド人民党が中心となって特定の州で政治基盤を持つ地域政党との連立政権が樹立するケースが一般的。
今後の農業政策の展望
今後のインドの農業政策はどのような方向に進むのだろうか。まず農業の収入増に繋がる(1)生産性向上に向けた方策、(2)収益性向上に向けた方策について述べた上で、次に伝統的な農業政策である(3)公的分配システムと(4)農業投入財政策について考えることとする。
(1)生産性向上には、経営規模の拡大と同時に、機械化や生産知識の習得などの技術力向上、農業金融の拡充、畜産(卵、乳製品)や園芸(野菜、果樹、花卉)など生産の多角化、そして種子・肥料や灌漑整備、研究開発といった農業分野への投資拡大が必要である。ただし、経営規模拡大は、農地の売買やリースの活用を促すだけでは不十分であり、非農業部門への雇用をシフトすることが不可欠である。
(2)収益性向上に向けては、今後もeNAMの普及拡大を通じた農産物市場の効率化が期待できるほか、コールドチェーンの整備や食品加工団地の整備によるフードバリューチェーンの構築などに民間部門が呼応することによって農業部門の更なる収益性の向上が期待できる。また農業大国かつ消費大国であるインドは農業の6次産業化(生産・加工・販売を一体化する農業手法)に大きな潜在性がある。農村を基盤とする農業関連産業に弾みがつくと、ボトルネックになっている小規模経営の問題の改善にも繋がる。もっとも民間部門が小規模・零細農家の収益を搾取する結果に陥らないか、政府の監督が求められるだろう。
(3)公的分配システム(PDS)については、今後も維持される可能性が高そうだ。国際食糧政策研究所が公表する2018年の世界飢餓指標(Global Hunger Index)によると、インドは全119カ国中103位をつけており、「深刻な」飢餓状態に位置づけられる。インドはマクロでは経済が成長して食糧自給も達成できているにもかかわらず、社会的な差別で定職につける機会が制約されている者が多く、今後もセーフティーネットとしての食料の配給が必要である。階層格差が格差今後、非農業部門の雇用が増えて中間所得層が厚くなっていく場合、将来的に配給対象の削減や配給価格の値上げといった調整により食糧補助金は削減されていくことになるが、食料安全保障法に法的根拠がある配給制度自体は存続するだろう(13)。
同様の理由から中央政府の穀物の買い上げも継続するが、今後は最低支持価格(MSP)が有する所得保障としての機能は低下していくと予想する。その理由は2019年の総選挙の公約にある。インド人民党(BJP)は小規模・零細農家を対象に現金を支給する首相農民基金(Pradhan Mantri Kisan Samman Nidhi:PM-KISAN)(14)を全ての農家に適用する一方、国民会議派(INC)はBJPに対抗して最貧困層に現金を支給する最低所得保障(Nyuntam Aay Yojana:NYAY)(15)を公約に打ち出した(図表23)。PM-KISANとNYAYはどちらも直接現金給付であり、これが農家の所得保障としての役割を一部担うことになり、財源は各種補助金予算から捻出するものと予想される。
(4)農業投入財政策も抑制されていくと予想する。耕作可能な農地の拡大が見込めないインド農業が単収を拡大させるためには投入財は不可欠であり、制度自体は維持されるだろうが、農薬・肥料、水(灌漑)、電力などの農業投入財を使い過ぎの問題は過剰な財政負担や環境問題への悪影響も指摘されている。直接現金給付策の拡大や土壌健康カード(SHC)に活用で投入財の有効利用が進むなかで、投入財の補助金予算は縮小していくのではないだろうか。
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(13)2013年7月に食料安全保障法(National Food Security Act: NFSA)が成立。同法は貧困層の食料配給を強化することを主な目的としている。
(14)農民クレジットカード(Kisan Credit Card:KCC)計画(1998年8月開始)は、農民の借入先のインフォーマルな財源に対する依存度を削減することを目的とした制度。通常のクレジットカードと同じようにATMやPOS端末で使用でき、生活資金に利用できる短期信用、作物の栽培、備品の購入など農業活動を目的とした中長期の貸付が行われている。
(15)政府は2019年度予算案で現金支給策PM-KISANを実施すると公表。約1億2千万世帯の小規模・零細農家(2ha未満の土地所有者)を対象に年6,000ルピー(約9,600円)を支給するとした。
(16)INCが公約に掲げる最低所得保障(NYAY)は所得下位20%の最貧困層に対して年7万2,000ルピー(約11万6千円)の現金を支給する制度。
おわりに
インドでは電力・通信インフラの整備が進むなか、2016年にはインドの携帯電話会社リライアンス・ジオ・インフォコムが参入して価格競争に拍車がかかり、携帯電話は比較的貧しい人でも所有・利用できるものとなった。現在、携帯電話は単なる通信手段としての機能に止まらず、農業部門に存在する情報格差をなくし、また多様なサービスを受ける手段となっている。
ここ数年で農家がインターネットに繋がり始めたことからアグリテックドメインのITベンチャーが次々に立ち上がっている。アグリテックのサービスは大きく分けて2つある。1つはインターネットを通じて気象や疫病、土壌の監視、また種子や肥料、灌漑管理、栽培、収穫など農作業のアドバイスを行うサービス、もう1つは農家が最終消費者(食品メーカーやレストランなど)に直接販売できるオンラインの農産品マーケットプレイスを提供し、商品の集荷から保管、配送まで手掛けることでサプライチェーンを効率化するサービスである(17)。
農業部門の構造改革には時間が掛かるが、既存のインフラや制度が整っていないインドだからこそIT活用が問題を埋め合わせることも可能であろう。インドはIT人材の宝庫であり、世界的なIT企業が開発拠点を設置するIT先進国にまで成長している。また政府やエンジェル投資家、ベンチャーキャピタルなどの支援があり、スタートアップが挑戦しやすい環境がある。
政権与党であるBJPの総選挙公約には、予測可能な収益性の高い農業の実現に向けてAIや機械学習、ブロックチェーン技術、ビッグデータ解析を利用するといった内容が示されている。今後、政府の農業政策に民間のアグリテックが起爆剤として加わることにより、農民の収入が持続的に向上していくことに期待したい。
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(17)前者の代表的企業としては、プネを拠点とする「AgroStar」や「KisanHub」、ムンバイの「RML AgTech」、バンガロールの「Intello Labs」や「CropIn」、ノイダの「EM3 Agri Services」がある。後者についてはデリー首都圏に拠点を置く「Kisan Network」や「CroFarm」、バンガロールの「NinjaCart」や「Farm Taaza」、ムンバイの「FarmLink」、チェンナイの「Waycool」がある。各社は規模の経済を実現すべく、既にシェア争いが始まっている。
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斉藤誠(さいとう まこと)
ニッセイ基礎研究所 経済研究部 准主任研究員
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