42歳で文系初の事業部長に

「14人抜き」と言われる抜擢人事でソニーの社長に就任し、以降、約10年間にわたって経営トップを務めた出井伸之氏は現在も様々なグローバル企業の社外役員を務めると同時に、数多くのベンチャーのアドバイザーも務め、ビジネスの最前線で活躍を続けている。そのキャリアを踏まえて、ビジネスパーソンには、「3~4年に1度、仕事を変える」ことを勧めている。

場所,出井伸之
(画像=THE21オンライン)

私は文系出身で、ソニーに入社してからはヨーロッパで事業の立ち上げを行ない、ソニーフランスを設立して、海外事業の発展に携わりました。しかし、42歳のとき、自ら手を挙げてオーディオ事業部長になりました。事業部長は技術がわかる理系が務めるポジションで、文系の事業部長は私が初めてでした。

私が手を挙げたのは、文系と理系の架け橋の役割ができたら面白いと思ったからです。オーディオも大好きでした。しかも、当時、オーディオ事業部は非常に苦しい状況にありましたから、それまで身につけてきた経営のスキルで、事業再生をしたいと思ったのです。

そこでしたことの一つが、ミネベアと一緒にシンガポールに建設する予定だった工場の計画の撤回です。一人でミネベアの社長に会いに行き、お願いすると、「一人で来るとは気に入った」と、撤回に応じてくれました。

さらに、他の工場も利益が出ている事業部に譲り渡すことで、コストを下げ、再生の目処を立てることができました。理系の部下たちとは発想が違い、絶えず衝突していましたが、文系社員のスキルがきちんと活きたわけです。

ちょうどそのタイミングでCDの波がやってきました。従来のアナログの技術とまったく違うので、理系の部下たちも文系の私と同じ、まったくの素人になり、一緒になってデジタルの技術を勉強しました。

すると、当時社長だった盛田昭夫さんに「デジタルは誰にとっても新しい技術なのだから」と言われて、コンピュータ事業部長に任命されました。今度は新規事業です。

その次に担当したレーザーディスク事業は、ソニーとしては新規事業でしたが、コンピュータ事業と違い、既にパイオニアという先行者がいて、それを追いかける事業でした。その後、VHSとフォーマット競争をしたベータマックスを担当しました。

このように、タイプの違う様々な事業を経験できたおかげで、ずいぶん鍛えられました。しかも、コンピュータ事業では若きビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズと仕事をする機会に恵まれましたし、レーザーディスクではハリウッドに、ベータマックスからVHSに変更するにあたってソニーの担当として動くことになると電機業界に人脈が広がって、面白く仕事をすることができました。

30代後半になってくると、「このままでいいんだろうか」と思うようになるビジネスパーソンが多いでしょう。そんなときは、転職という道もありますが、同じ会社の中で別の仕事をするのもいい。自分がいる会社にはどんな仕事をしている人がいるのかを改めて見直して、自分がしてきたことと照らし合わせると、これから何をすれば面白いのかが見えてきます。

ずっと同じ部署にいると居心地が良くなってきますが、そこで身につけたスキルは、別の部署に移ってこそ、より輝きます。

出井伸之(いでい・のぶゆき)
クオンタムリープ〔株〕代表取締役ファウンダー&CEO
1937年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、60年にソニー〔株〕入社。オーディオ事業部長、コンピュータ事業部長、ホームビデオ事業本部長などを歴任後、89年に取締役就任。95年から2000年まで社長、00年から05年まで会長兼グループCEOとして、ソニー経営のトップを担う。退任後、クオンタムリープ〔株〕を設立し、現在に至る。(『THE21オンライン』2019年4月号より)

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