最低賃金を引き上げると必ず中小企業などの収益にはマイナスが生じる。サービス業種の中では、生産性を上げられそうにないため、追加的な賃上げに対応できない企業もある。それでも最低賃金を引き上げることのメリットは何だろうか。ひとつの理由は外国人労働力が流入すると、定型労働の非正規への賃下げ圧力も働く。政府にはそうした問題への目配りもある。

給料
(画像=PIXTA)

予定調和はない

6月20 日に「最低賃金引き上げの限界」というレポートを発表したところ、思わぬ反響があった。その中で感じたのは、最低賃金の引き上げが政治的に主導されているため、その必要性がほとんど語られず、反対論の方も痛みが大きい点だけを強調している印象が強い。要するに、政策論として専門家が十分に吟味していない問題だと思った。本稿は、共有されていない論点を整理することを目的にしている。

まず、共通認識として知ってほしいのは、最低賃金を上げれば必ず痛みが生じることである。人件費増加による収益圧迫である。人件費分を販売価格にうまく転嫁できない中小企業のイメージである。だから、彼らからの反発は必至である。「最低賃金を上げることで、日本の生産性は上がり、万事うまく行くだろう」という予定調和の世界には絶対にならない。だから、政策論として論じるときには必ずメリットとデメリットの双方を比べる必要がある。片方だけの主張をぶつけ合う議論は不毛に思える。

低生産性の問題

最低賃金水準を毎年3%ずつ引き上げると困るという主張は、サービス業または地方経済から強く発せられている。サービス業の労働生産性は、以前から低いと言われていて、特にいくつかの業種は人件費も同様に低くなっている。総務省・経済産業省「経済センサス」(2012 年)では、飲食店の平均年収は108 万円(月平均9万円)と極端に低い。飲食店の労働生産性(名目)もまた年間162 万円(月平均13.5 万円)と低く、労働分配率は66.7%である。最近は、飲食店の時給が上がり、食材価格はもっと勢いよく上がっている。さらに、最低賃金を上げたときに、飲食店はコストアップを販売価格に転嫁して生き残れなくなる事例は増えるだろう。

ほかにもクリーニング店(洗濯・理容・美容・浴場業)の生産性は188 万円、年収125 万円、持ち帰り・配達飲食サービス業は生産性189 万円、年収148 万円と他のサービス業よりも低さが目立つ。

こうした低生産性の原因は、消費者が低価格を望み、事業者は価格を上げると顧客を競争相手に奪われると考えることにある。筆者は、その背景を地方の高齢化と人口減少にも求める。消費者の数が減少して、さらにその中の年金生活者が増えていく中では、全体として飲食店の高品質・高付加価値化は成り立たないだろう。地方で飲食店が淘汰されると、ますます地域の購買力が低下して、値上げする方針とは逆の効果が起こる。

最低賃金引き上げのメリット

賃上げを推進する積極派は、人件費上昇が企業収益を圧迫するとしても、それが経営に対する致命的打撃ではないと考えている。全体観として企業はカネ余りであり、賃上げの余力はあると考えているのだ。収益圧迫が深刻だという声は、局所的だとみている。

これだけ人手不足が言われているのに企業の賃上げペースが1990 年代以前に戻らないのは、収益の制約よりも、先行きの不確実性に対する経営者の恐れが強い。学者はこれを賃金の粘着性と呼ぶ。需給変化が賃金を動かさないのは、もともと賃金に粘着的な性格があるからだ。その場合、政府は自分たちの動かせるツールとして最低賃金制度を用いる。仮に最低賃金を上げれば、企業は時給1,000~1,300 円のエリアではもっと時給を引き上げなくてはより質の高い労働力を確保できないと考え始める。これは、最低賃金よりも上にある階層で賃上げの連鎖が起こるという現象だ。この連鎖が大きいほど、需給拡大も期待できる。

最低賃金引き上げのメリットは、需要拡大の呼び水効果にある。もしも、政府が旗を振らないと、時給1,000~1,300 円の階層では賃上げが起こらずに、いつまでも労働者は低賃金で苦しむ。筆者は、最低賃金はゆっくりと上げることで摩擦を少なくし、正規労働者については労働組合の賃上げがもっと積極的であってよいと考える。筆者は最低賃金の引き上げには必ずしもNOではなく、中小企業の声にも耳を傾けて漸進的に行うべきだという立場である。そして、企業経営者の不確実性に対する恐れは過剰なほど強いという点にも同意する考え方である。

政府にとっての利害

実は、政府の立場は、もっと違った利害に動かされていると思える。それは、マクロ経済よりも社会政策としての理由だと感じられる。

まず、正規の賃金は官民一体の賃上げ促進の方針に基づく。そこに、同一労働同一賃金を併せて、非正規賃金にも賃金上昇圧力を働かせる。ところが、正規と非正規が同一労働をしている分野以外もある。職場の大半が非正規労働で占められている分野である。言い換えると、定型労働に近い職場である。

完全な定型労働の定義に当てはまる職場などは存在しないが、例えばマニュアルによって入職者が短時間で仕事をこなせる職場は、定型労働に近い。コンビニエンスストアは、イメージしやすい例である。こうした分野は、外国人労働者が活発に流入している。政府の方針では、今後、外国人労働者にも日本人並みの賃金水準を保証し、より活用の間口を広げていくことになっている。最低賃金水準を上げることは、外国人労働力の活用が極端に低賃金で行われることへの批判を回避したいという意図もあるだろう。また、日本人の非正規賃金にも、外国人労働力の流入によって下落圧力がかかる。特に、定型労働に従事する日本人の時給は、外国人労働力との競合によって低下しやすい。そのときの日本人たちの痛みを相対的に小さくするのが、最低賃金引き上げの狙いだろう。

もちろん、政府はできる限り、正規・非正規の賃金水準を引き上げたいと思っている。しかし、もう一方で労働力不足を乗り切るという要請から外国人労働力の解禁へと軸足を動かした、こちらの副作用対策が最低賃金引き上げなのだ。これは筆者独自の見立てであるが、間違っていないと思っている。

本質論は生産性上昇だ

政府は、究極的には最低賃金の引き上げが中小企業などの収益圧迫になるという批判に対して我慢を求めるつもりだろう。筆者は、6月20 日の拙稿にも示したが、130 万円の壁を大胆に引き上げ、地方経済で人口減少に対応した振興策を同時並行で行うことが本質論だとみている。それらの対策は、生産性上昇を促すための諸施策だとまとめられる。冒頭の飲食店の生産性の年間162 万円の例については、政府が彼らの生産性を年平均3%以上に上げるための技術・ノウハウの紹介・普及をもっと積極的にやってもよい。筆者が反対するのは、最低賃金さえハイペースで上げれば、それがマクロの生産性を上げるという単純すぎる処方箋に対してである。つまり、低生産性の分野が日本経済から淘汰されれば、結果的にマクロの生産性が上がるというラディカルなイメージを疑っている。

需要サイドに目を転じると、地方経済の弱さは年金水準の低さに関係している。国民年金などの水準をマクロ経済スライドで、2004 年比で実質2割カットする措置も懐疑的にみている。今後、最低賃金を巡って様々な議論をすることが有用だ。(提供:第一生命経済研究所

第一生命経済研究所 調査研究本部 経済調査部
首席エコノミスト 熊野 英生