2024年に新1万円札の顔となる渋沢栄一。日本の資本主義の父と呼ばれた彼が欧州から紳士の象徴として取り入れたのが帽子です。渋沢が紳士の文明開化として広めた帽子文化と現在のトーキョーハットを紹介します。

紳士の文明開化は帽子から

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(画像=Botond Horvath / Shutterstock.com)

明治維新以降、近代化に大きく舵を切った日本は、先進国に追いつけ追い越せとばかりにあらゆる面で西洋文化を取り入れようとしていました。文明開化の風潮が急速に広がり、欧化政策が進む中、散髪脱刀令が布告され、散切り頭の男たちが増え始め、洋装化が進んでいきました。

そのような時代に、欧米での紳士のシンボルとしての帽子の価値を知り、いち早く日本に帽子の文化を取り入れたのが「日本の資本主義の父」とされる渋沢栄一です。

渋沢は幕末から昭和初期にかけて、幕臣、官僚、実業家として活躍し、日本の近代経済社会の基礎を築く上で大きな功績を残した人物として知られています。明治維新後、大蔵省で新貨条例や国立銀行条例の制定に尽力したほか、実業家として、第一国立銀行や東京株式取引所、理化学研究所をはじめとする多種多様な企業の設立、経営に関わりました。

幕臣としてパリ万博や欧州を視察し、先進諸国の社会制度や文化を学んだ渋沢は、1889年に日本初の製帽工場となる「日本製帽会社」を誕生させます。当時、帽子は英国やフランスから輸入された高価な舶来品が主流だったことから、国内で製造して過度な輸入を抑え、日本の工業化と経済的自立を促そうと考えたのです。日本製帽会社は業績不振で解散しますが、1892年には新たに「東京帽子株式会社」を立ち上げました。

帽子文化の発展の要

東京帽子は、日本人技師を何度も欧米に派遣して技術を高め、外国製品と同等、またはそれ以上の製品を作り出すようになります。日本初の帽子ブランド「TOKIO HAT」(トーキョーハット)として販売を始め、日本の帽子文化の礎、発展の要となりました。

戦後は1960年のローマ、1964年の東京の大会で、日本選手の公式ユニフォームの帽子を手がけた歴史もあります。

その後、東京帽子は帽子製造の技術を応用し、ペン先から医療機器、コスメ用品を展開する企業へと進化を遂げました。帽子事業は2007年にオーロラ株式会社へと譲渡されましたが、創業から120年以上を経た現在でも、トーキョーハットのブランド、東京帽子の文化と伝統は継承され、熟練した職人の手で日本人に合う帽子が作り続けられています。

トーキョーハットの現在

トーキョーハットを手がけるオーロラは、「日本の帽子の歴史はTOKIO HATから始まった」として、ブランドのコンセプトについて、「永続的なブランドの発展と商品に対する信頼性のあくなき追求」「時代性を付与したデザインポリシー」と説明しています。

特に、「HI-QUALITY:素材、仕様すべてにおいて高品質な物づくり」「BASIC:コンサバティブをベースに時代感覚を捕らえたデザインポリシー」「DESIGN:SIMPLE&CHICを基調に、洗練された男のこだわり」「VALUE:高品質・高付加価値商品による高級ゾーンの展開」を柱に掲げています。

製品には昭和初期からの鳳凰マークのエンブレムが現在も使われています。中国の古典「荘子」秋水篇の「非ざれば食わず、醴泉(甘い味のする泉の水)に非ざれば飲まず」との記述をモチーフにしたものです。

オーロラが2019年秋にスタートさせる新ライン「プレミアムライン」のコンセプトは、「型」と「形」で、現代の日本人に合う「型(フォルム)」と多様化したファッションに合う「形(スタイル)」を提案するとしています。従来、日本人の頭の形は円に近い丸型とされ、帽子もその形に合わせていましたが、食生活や生活環境の変化によって、体型とともに頭の形も徐々に欧米化が進んできたことから、カスタムオーダーシステムを採用し、それぞれの人に合った心地の良い帽子を愉しめるようにするとのことです。(提供:JPRIME


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