戦国武将の明智光秀が愛用した刀が見つかりました。専門家によれば、織田信長を暗殺した光秀の刀を持つことはタブー視されていたため、非常に珍しいといいます。その信長ですが、実は遺体が発見されておらず、信長は「本能寺の変」では死ななかったのではとの説もあるのだとか。

織田信長 尾張から天下を目指す

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(画像=Pumidol/Shutterstock.com)

織田信長は1534年、尾張(現在の愛知県西部)で織田信秀の子として生まれました。父親の死後、家督を継ぐと、信長は1560年、桶狭間の戦いで駿河の戦国大名、今川義元を破り頭角を現します。1567年に稲葉山城の戦いで斉藤氏に勝利し美濃を勢力下におきますが、稲葉山城の戦いは木下藤吉郎(豊臣秀吉)が戦功をあげた戦いとしても知られています。

1573年、は足利義昭を京都から追放し、これによって約240年続いた室町幕府は滅亡しました。1580年に石山本願寺との戦いに決着をつけ、1582年に武田勝頼を破って武田氏を滅亡させるなど、勢力をさらに拡大。四国や中国地方の攻略も視野にいれますが、1582年に明智光秀の謀反にあい京の本能寺で自害しました。

明智光秀 金ヶ崎の戦いで武功、軍法の制定も

一方の明智光秀もまた、戦国時代に活躍した武将の一人であり、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公としても注目を集めています。光秀の生年についてははっきりとはわかっていません。美濃国(岐阜県南部)あたりで生まれたとされ、青年期には一時期、美濃で勢力を誇った斉藤道三に仕えたとみられています。光秀はその後、信長と義昭の家臣となり、1568年に義昭とともに京都に上ります。

光秀が功績をあげた戦いの一つに1570年の「金ヶ崎の戦い」があります。信長は越前の大名だった朝倉義景の討伐をもくろみます。朝倉方の金ヶ崎城を落とすなど、当初は優勢に戦を進める信長ですが、朝倉軍の本拠地へ向かうなかで、義弟で北近江を拠点とする浅井長政が裏切ったとの情報が飛び込んできます。越前と北近江から挟撃を受ける可能性がある危機的状況に陥り、信長は撤退を決断。信長軍が京都へ撤退するなか、後衛を任されたのが光秀と木下藤吉郎、池田勝正の3人でした。

光秀は1580年に丹波国を拝領し、城下町の整備や領国経営に乗り出します。1581年、織田家にはなかったという軍法を定めました。18条からなる軍法は軍の秩序や規律、他の武将へのあいさつの仕方などが記されています。

本能寺の変と三日天下

そして、1582年6月、京都の本能寺に滞在していた信長を光秀が襲撃します。寝込みを襲われた信長は逃げ切れないとわかると、寺に火を放って自害したとされます。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが記した「日本史」によれば、本能寺の変によって、信長は髪の毛1本残すことなく灰になったといいます。

光秀は、信長の首級をあげることがでれば信長が確実に死亡したことを周知できるため遺体を探しますが、見つけられませんでした。一方で、羽柴秀吉が信長生存の「うわさ」を流すなどしたため、光秀は一部の武将から協力を拒まれてしまったようです

本能寺の変では信長の嫡男だった信忠も自刃したため、織田家による統治体制が崩壊し、光秀は天下人となります。しかし、その光秀も中国大返しによって近畿に戻ってきた秀吉との戦いに敗れ、本能寺の変から2週間とたたずに命を落としました。その後、秀吉が天下統一を果たすのはみなさんご存じの通りです。

刀は「他見一切無用の事」

井伊美術館(京都府東山区)によれば、光秀が愛用したとみられる刀「備前長船近景」が見つかったそうです。主君を打ち取るという当時の武家社会では許されない行動をとった光秀の愛刀を所持すること自体が避けられてきた経緯もあり、珍しい発見だったそうです。

刀の茎(なかご)には近景という刀工が鍛えたことを示す「備州長船住近景造」といった銘がありました。一時的に光秀に仕えた木俣氏の子孫が明治時代に入って制作した目録の中に、近景の記載があり、刃の長さなどの特徴が一致しました。この目録の中には、近景が光秀の愛刀だったとの記載があるほか、「他見一切無用の事」という但し書きもあったそうです。

歴史に「たられば」はありませんが、本能寺の変の直後に光秀が信長の首級をあげ、秀吉が京に帰ってくる前に態勢を整えることができていたら、近景の存在もまた違ったものとなったのかもしれません。(提供:JPRIME


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