数世紀にわたって欧州の中心に君臨した「ハプスブルク家」。その財力で世界屈指の絵画コレクションを築いてきたことでも知られます。ハプスブルク家の栄光と悲哀をご紹介します。
ドイツ、オーストリアで台頭、16世紀には「日の沈まない帝国」に
ハプスブルク家はドイツ地方に興ったとみられる豪族で、13世紀にオーストリア方面に進出しました。ドイツ国王にも選出されるなど、ドイツやオーストリアの地域を拠点に勢力を拡大していきます。15世紀になると、神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の帝位をほとんど独占するほどの権勢を誇るようになります。
神聖ローマ帝国のカール5世(在位1519~1556年)はスペイン国王も兼ねたため、その広大な帝国は、オーストリアをはじめスペインやネーデルランドなども含まれました。カール5世の引退にあたって、スペインやネーデルランドの領土については子どものフェリペ2世が相続することになり、神聖ローマ帝国については弟のフェルナンドに与えることとしました。このため、ハプスブルク家は、スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分かれることとなります。
スペイン国王のフェリペ2世は、フェリペ1世としてポルトガル国王も兼任します。当時はスペインの黄金時代で、欧州をはじめ、南米やアジアにも領土を擁していました。まさしく「日の沈まない帝国」の誕生です。スペイン・ハプスブルク家は17世紀末まで続きますが、断絶後は、フランス・ブルボン家にとってかわられることになります。
一方の神聖ローマ帝国は、スペインとオーストリアの両ハプスブルク家とブルボン家との対立を背景とした欧州の各勢力を巻き込んだ「三十年戦争」(1618~1648年)やオーストリア継承戦争、ナポレオン戦争を経て徐々に解体へと向かいます。ハプスブルク家としては1918年までオーストリア・ハンガリー帝国を統治しました。
ギロチンの露と消えたマリー・アントワネット
こうして、何百年にもわたって欧州で強大な勢力を誇ったハプスブルク家ですが、同家出身の有名人といえばやはりマリー・アントワネットでしょう。フランス王ルイ16世の王妃ですが、浪費癖があったほか民衆を蔑視していたとされます。フランス革命には反対の姿勢を示し、最終的にはギロチンで処刑されました。
啓蒙専制君主の代表マリア・テレジア
マリー・アントワネットの母親のマリア・テレジアもハプスブルク家を代表する傑物といえるでしょう。神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、カール6世は男系の後継者に恵まれなかったためマリア・テレジアを後継者とすることを考えます。1740年にカール6世が死去すると、マリア・テレジアはオーストリア大公やハンガリー女王、ボヘミア女王となりますが、相続問題にはフランスや当時力をつけてきたプロイセンが介入し、オーストリア継承戦争に発展します。
領土の一部を失いますが、イギリスの援助を受けて戦争には勝利。さらに夫を神聖ローマ皇帝フランツ1世として立てることで帝位も取り戻します。娘のマリー・アントワネットをルイ16世に嫁がせたのは複雑化する国際情勢のなかで長年の対立相手だったフランスを味方につけるための手段のひとつだったようです。国内では行政組織や軍政の整備を進めるなど国力の育成に努め、女性ながら啓蒙専制君主の代表的な1人とされます。
「最後の皇帝」は皇太子を自殺で、皇后を暗殺で失う
神聖ローマ帝国の「最後の皇帝」ともいわれるフランツ・ヨーゼフ1世は皇太子のルドルフを自殺で失ったほか、美貌でしられる皇后エリザベートもスイスで暗殺されました。ルドルフの死後に皇太子となった甥もサラエボで暗殺され、これがきっかけとなり第1次世界大戦が勃発します。
国立西洋美術館(東京都台東区)では、2020年1月26日まで、「日本・オーストリア友好150周年記念 ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史」が開催されています。今回の展覧会ではウィーン美術史美術館の協力のもとに、絵画や版画、工芸品、武具などを展示。絵画のなかには、もちろんマリー・アントワネットやマリア・テレジア、エリザベートの肖像画も含まれています。肖像画に描かれた在りし日の王妃や皇妃を通じて、ハプスブルク家の歴史に思いをはせるのはいかがでしょうか。(提供:JPRIME)
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