(本記事は、中山 亮氏の著書『社長、僕らをロボットにする気ですか?』2020年8月28日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

マニュアルは″悪者″なのか?

社長、僕らをロボットにする気ですか?
(画像=tyler-olson/stock.adobe.com)

否定され、拒絶されるマニュアル

みなさんは「マニュアルとは何か?」と聞かれたら、なんと答えますか?

「基準書」「仕様書」「手順書」「説明書」「ルール」「ガイドライン」「テクニック集ーー」多くの人はそんなふうに答えるんじゃないでしょうか。

中には、一歩踏み込んで、具体的な仕事の場面を想像し、「単純作業」や「定型業務」について書かれているもの、と答える人もいるかもしれません。

「マニュアル」という言葉を辞書で引くと、

①機械・道具・アプリケーションなどの使用説明書。取扱説明書。手引き書
②作業の手順などを体系的にまとめた冊子の類
③操作などが、手動式であること。「マニュアル車」と定義されています(デジタル大辞泉/小学館より)。

この本で取り上げるマニュアルは①と②についてですが、みなさん、言葉の意味としては正しく理解されているようです。

では、マニュアルそのものについてはどう思いますか?

おそらく、たいていの人はあまりいい印象を持っていないでしょうね。

そのことをよく表しているのが、「マニュアル人間」という言葉です。

たとえば、誰かを指して「あいつはマニュアル人間だからな」と言う場合、そこには必ず「マニュアルに書いてあることしかできない」「機転が利かない」「独創性がない」「人間味が感じられない」といった否定的な意味が含まれています。この言葉が使われるときには、マニュアルの存在が″ダメなもの″であることが前提となっているわけです。

僕自身も、これまでにマニュアル導入を決めた企業へ伺った際、社員の方から「僕らをロボットにする気ですか!」とか、「マニュアルで縛られたら、窮屈になって仕事の自由度が減ってしまう」というように、明らかに拒絶的な反応をされたことがあります。

要するに、世間一般では、マニュアルは圧倒的にネガティブなイメージで認識されているわけです。

「スマイル0円」が日本のマニュアルのスタート

マニュアルという概念が日本に入ってきたのは、ファストフード店の代表格ともいえるマクドナルドからだといわれています。

1971年(昭和46年)、東京・銀座の三越1階に日本第1号店をオープンしたマクドナルドは、調理方法から接客にいたるまで、手順やサービス内容を事細かに定義したマニュアルを持ち込みました。

マクドナルドのシステムが画期的だったのは、食品でありながら、工業製品と同様の発想で、高品質と低コストを両立させた点でした。「合理的な生産と消費」という、これまでにないシステムに出会った日本のサービス業は、こぞってマニュアルによるスタッフ教育を取り入れるようになりました。マクドナルドはハンバーガーを日本の日常食にしただけでなく、「スマイル0円」という表示に象徴される、徹底したマニュアル化という文化ももたらしたわけです。

マニュアルどおりに動けば、誰でも一定レベルの仕事をこなすことができる。経営者としては人材育成がしやすくなるうえ、品質やサービスの均一化が図れる。従業員としても、作業の手順で迷ったり、悩むこともなく、短時間で仕事を覚えられる。そんなメリットがあります。いつ、どこの店舗に行っても、同じ味のものを食べられて、同じサービスを受けられるという、消費者にとってのメリットもあるでしょう。

こうして見ると、マニュアルがもたらすのはいいことばかりのように思えますよね。

それなのに、いつの間にかマニュアルにはマイナスイメージがつきまとい、まるで″悪者″のような扱いをされるようになってしまいました。

ファストフードやコンビニの接客態度のことを、よく「マニュアル対応」や「マニュアル的接客」と言ったりします。この言葉からは、「ただ、『いらっしゃいませ』を言えばいいわけじゃないだろ」「全然心がこもってないよ」というように、店員の形式的な接客態度に不満を持った人たちの声が感じられます。

マニュアルに書かれているから、形だけ「いらっしゃいませ」や「ありがとうございます」と言う。お弁当を買った人には、温めが必要か、お箸を入れるかどうかを機械的に聞く。

そこには接客する人の意思や感情は何も入っていません。

マクドナルドのマニュアルで、「質の高い接客」の象徴のはずだった「スマイル0円」は、こんなマニュアル的接客が増えたせいで、今ではマニュアル化のマイナス面を語る際に、″ネタ″的に使われる言葉に成り下がってしまいました。

僕もつい最近、このマニュアル的接客に遭遇しました。

近所のスーパーマーケットへちょっと買い物に出かけたところ、レジで、
「袋はよろしいですか?」
と聞かれました。

そのときの僕はといえば、スウェット着用で、荷物は何もなし。

思わず、心の中でツッコみましたよ。

「いやいや、手ぶらでスウェット親父のポケットから袋は出てこないよ。そんなこと見ればわかるでしょ?マニュアル仕事かよ!」

もちろん袋はもらいましたが、なんとなくもやもやしながら店を後にしました。

でも、これはマニュアルの存在そのものが悪いわけではありません。

働く人の思考を停止させるようなマニュアルの内容が悪いんです。

あるいは、その組織のマニュアルの使い方が下手なだけなんです。

そして、残念なことに、世の中の多くの企業や経営者、そしてそれを使う側の従業員がマニュアルに負のイメージを抱くことになり、マニュアルの価値をチープなものにしてしまっているわけです。そんなふうにマニュアルが″おとしめられている″現状は、僕に言わせてみれば、もう憤りを感じるレベルですよ。

ちなみに、マニュアル導入の先駆者であるマクドナルドは、人材育成に非常に力を注いでいます。社内に「ハンバーガー大学」という教育部門を設け、社員はそこでマネジメントスキルやリーダーシップ、コミュニケーションなどを学びます。その充実したカリキュラムによって、仕事面だけでなく、人間的な面でも成長できるシステムが整っているのです。

マクドナルドのマニュアルは、「ただハンバーガーを売るためのもの」ではなく、同社のそうした企業姿勢も盛り込まれた重要な接客ツールと言えるでしょう。

マニュアルはいつから″悪者″になったのか?

ここで少し、マニュアルの歴史について触れてみます。

昔から、国や地域、時代ごとに、行動規範や規則、なんらかの説明書きなど、マニュアル的な要素のものはあったと思いますが、現代に通じるマニュアルの基礎ができたのは、今から約140年前、19世紀末のアメリカでした。「経営学の元祖」といわれるフレデリック・ウィンズロー・テイラーが提唱した「科学的管理法」が、マニュアルの原点といわれています。

この科学的管理法を導入した工場の生産性はグンと向上し、生産現場に近代化をもたらしました。一方で、厳格に仕事を管理するやり方だったため、現場の労働者から反発を買い、「人間の個性や心理といった人間性を軽視している」とか、「人間を機械と同一視している」という批判の声も数多くあがりました。やがて、「人権侵害につながる問題」として、大きな反対運動にまで発展してしまいました。

今で言うところの「マニュアル人間化」の否定です。

言ってみれば、マニュアル(の原型)は、誕生したときからすでに偏見を持たれ、否定され、″悪者″扱いされる宿命にあったわけです。

そして、日本にマニュアルが入ってくると、そこに「お家文化」や「ご近所文化」、「鎖国意識」といった、保守的な秘匿文化ともいえる日本特有の要素がかけ算されて、マニュアルに対するネガティブなイメージが、余計に深くなってしまったようです。

でも、本来、マニュアルは″悪者″なんかじゃありません。

そもそも「仕事が遅い」と言われてしまう人のほとんどは、「能力がなくて仕事が遅い」わけではなく、どうしていいかわからずに悩んだり、迷ったり、うまくいかずにやり直したりすることで、結果として仕事が遅くなっているだけです。

そこで、「悩む」「迷う」「やり直す」という仕事の生産性を邪魔する三要素をなくし、「探究する」「新しい発想を生み出す」「創意工夫をする」といった、頭の中の空き容量で行うことのために時間を増やす役目を果たすのがマニュアルなんです。

″マニュアル屋″や″マニュアル職人″を自認し、マニュアルを普及させる活動に従事している人間として、僕はこの本を通して、みなさんのマニュアルに対する誤解や偏見、勘違いを取り払い、正しいマニュアル導入へと導きたいと思っています。

マニュアルがなければ文化も消える!?

昔の曲が弾けるのは楽譜があるおかげ

「仕事の標準化」から生まれたマニュアルですが、その概念や考え方は、何も仕事にばかり結びつくものではありません。みなさんのマニュアルに対する認識を変えていただくために、もう少しマニュアルの存在意義についてお話ししたいと思います。

『エリーゼのために』というピアノ曲があります。
「聴いたことがない」と言う人がいないくらい、超有名な曲ですね。

実は結構テクニックが必要な難しい曲なんですが、小学生くらいの子が見事に弾きこなしていたりしますよね。子どもたちのピアノの発表会でも人気の曲だそうです。

作曲したのはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。こちらも言わずと知れた大作曲家です。この曲が作曲されたのは1810年なんですが、僕がすごいと思うのは、200年以上も前に外国で作られた曲を、21世紀の日本の子どもたちが弾ける、という点です。もちろんベートーヴェンに限ったことじゃないですが、何百年も前に作られた曲を、直接聴いたことのない後世の人間が再現できるんですよ。すごいことだと思いませんか?

「楽譜があるんだから当然じゃないか」と思うかもしれません。
そうなんです。「楽譜があるから当然弾ける」んです。

楽譜は、音楽を一定の約束(ルール)に基づいて、記号や数字などを使って書き表したものです。ルールや記号の意味が決まっているからこそ、時代や国が違っても、その音楽を再現することができるわけです。

これ、マニュアルも同じことなんですよね。

やるべきことやその手順を、誰でもわかるように、そして誰でも再現できるようにするためのもの、それがマニュアルです。

だから、楽譜もひとつのマニュアルと言っていいでしょう。

もし、ベートーヴェンの曲が、誰かが耳で聴いただけだったり、ピアノの弾き方を見ただけで伝えられてきたとしたら、現代の僕たちは″ベートーヴェンが作ったっぽい曲″しか知らなかったでしょう。きっと、それはもう彼が作曲した曲とは別物になっていたんじゃないでしょうか。曲が楽譜に残されて、旋律や強弱などが示されているからこそ、いつの時代にもベートーヴェンが考えたそのままのメロディやリズムを味わい、楽しむことができるわけです。

ただ、ちょっとだけ惜しいと思うのは、楽譜には作曲者の「思い」や「気持ち」が書かれていないことです。

『エリーゼのために』の楽譜には、音階や速さは書かれていても、エリーゼがどんな女性で、ベートーヴェンが彼女に対してどんな思いを込め、どんな情景を思い浮かべてそれぞれのフレーズを作曲したのか、という情報までは書かれていません。だから、厳密に言えば、ベートーヴェン以外に、彼が表現したかったとおりの『エリーゼのために』を弾ける人間はいないことになります。

でも、本来のマニュアルはそうであってはいけません。誰が、いつやっても、同じことを再現できるように書かれているのが正しいマニュアルです。そういう意味で、楽譜は「マニュアルの一歩手前」に位置するもの、と言うのが正解かもしれません。

余談ですが、『エリーゼのために』は、実はどうやら「テレーゼ」という女性に捧げた曲だったようです。彼の字が汚すぎて、「テレーゼ」と書いてあった部分を「エリーゼ」と読み間違えられてしまった可能性が高いんだそうです(ほかにも説はあるようですが)。

消えゆく文化と受け継がれる文化の違いとは?

もうひとつ。

先日、とある伝統芸能の家元から、「今後、我々の文化を後世に残していくにはどうすればよいのでしょうか?」と相談されました。

その家元のところでは一子相伝で芸を伝えていて、教室の運営もされているそうですが、テキストなどはなく、すべて口頭によって指導しているということでした。いわゆる「口伝(くでん)」です。

つまり、可視化したものがいっさいない状態だというんです。

これは伝統芸能や伝統文化に限りません。

たとえば、自分たちが受け継いできた習慣や風習について、「文化を残したい」「次の世代に受け継いでいってほしい」なんていう話、よく聞きますよね。

でも、そう言っているわりには、ほとんどの場合、それが可視化されていない。「文化や芸能は可視化なんてできない」と思っている人が多いようですが、「できない」のではなく、「しようとしていない」だけなんです。

会社でも同じことが言えますよね。

「うちの会社、業務は口頭での指示が基本だから、業務の資料とかマニュアルなんて何もないよ」
「引き継ぎ資料とかあればいいとは思うけど、自分はもうわかってるからいいかなって」
「うちの業務は担当者にしかわからないから、担当者が退職したり、異動になったりすると、いつも引き継ぎで大変なことになるんだよ」

もし、こんなセリフに思い当たるなら、あなたの会社も「可視化しようとしていない」だけの残念な会社かもしれません。

しかし、伝統文化でもしっかりと可視化され、継承されているものがあります。茶道を考えてみてください。

茶道(茶の湯)は、戦国時代の茶人、千利休が完成させたものとして知られていますが、その茶道文化は実に400年以上も受け継がれています。

僕はその理由に、「利休七則」の存在があると思っています。

利休七則とは、「茶は服のよきように点て」から始まる、茶道で守るべき基本的な精神と作法を説いた利休の言葉です。利休の教えはこの7つの心得に凝縮されていますが、こうして言葉として残されていた、つまり可視化されていたからこそ、長い年月を経てもその教えや文化が失われることなく、継承されているわけです。

このように、昔から続いている文化で、今もたくさんの人々に親しまれているものには、可視化、つまりマニュアル化されていることが多いといえます。

誰もがそのマニュアルに書いてあることを忠実に行うので、教える人が変わっても、その「教え」や「心得」は変わることなく、昔のまま脈々と受け継がれているのです。

継承されずに姿を消していく文化と、後世まで受け継がれていく文化の違いは、可視化されているかどうかにあると思います。これをマニュアルっぽく言えば、ノウハウ(=文化)が可視化されずに″人″に残るか、可視化されて″組織″に残るか、ということです。

人に残ったノウハウは、その人がいなくなれば途絶えてしまいますし、頑張って口伝で残しても、少しずつ何かが変わっていってしまう可能性はゼロではありません。一方で、組織に残ったノウハウは、人が入れ替わっても形を変えることなく、確実に受け継がれていきます。

そうやって考えると、伝統芸能や伝統文化に限らず、陶芸や工芸、祭りや地域のしきたりなど、可視化されないまま廃れていってしまった文化って、たくさんあるんじゃないでしょうか。

ノウハウを可視化したマニュアルさえあれば……。
なんとも惜しいことだと思います。

社長、僕らをロボットにする気ですか?
中山 亮
株式会社2.1代表取締役
内閣官房「業務の抜本見直し推進チーム」アドバイザー
長崎大学大学院を修了後、株式会社アルファシステムズに入社。SEとして従事。その後、株式会社リクルート、プルデンシャル生命保険株式会社に勤務。住宅情報誌の提案営業でのMVP受賞、業界の上位1%の保険営業マンに贈られるMDRTの称号などを獲得後、部下のマネジメント業務を行いながら組織づくりにおけるマニュアルの重要性に気づく。しかし、多くの企業に戦略的なマニュアルが無く、そのことで生産性が妨げられ、人材の活躍までも妨げられている事実に気づき、2014年、企業の人材育成や業務の改善を、マニュアル導入によって実現するサービスを発案し、株式会社2.1を創業。代表取締役に就任。これまで500社以上の企業に対し、マニュアルによる業務改善を行い、2019年より、内閣官房「業務の抜本見直し推進チーム」アドバイザーに就任。

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