この記事は2022年12月16日に三菱総合研究所で公開された「DX・GX時代に求められる「地域版人的資本経営」後編 : 産業戦略と人材戦略の連携実現に向けて地域ステークホルダーが担う役割」を一部編集し、転載したものです。
目次
POINT
・人材への投資に先立って、地域の産業戦略の確立と可視化を。
・公労使教の協働で産業政策・労働政策・教育政策の連動を。
・「地域版CHRO」を司令塔として、地域での人的資本経営を進める座組みの確立を。
日本での「地域版人的資本経営」実践促進に向けて
日本における現在の政策動向を確認し、「地域版人的資本経営」の実現に向けて、今後地域のステークホルダーに求められるアクションと役割を整理し、本コラムの提言としたい。
岸田政権による「新しい資本主義」の中で「人への投資」は重要課題に位置付けられた。現在、「新しい資本主義実現会議」を筆頭に、経済財政諮問会議による「骨太の方針」、内閣官房に置かれた教育未来創造会議、経済産業省の未来人材会議、厚生労働省の労働政策審議会など、多くの政策の企画・決定プロセスにおいて人材への投資、労働市場改革に関する提言がなされている状況だ。
この中で、個社を超えたリスキリングや労働移動に関連した動向として、改正職業能力開発促進法(2022年4月施行)があげられる。地域における産業界(労使)、教育界などの参画を得つつ能力開発政策の促進を図るべく「地域職業能力開発促進協議会」の設置が義務化されるなど、「関係者の協働による『学びの好循環』」の実現に向け、地域資源の活用を重視する方向性を進める構えだ。
「関係者の協働による『学びの好循環』」が「地域版人的資本経営」の実現に向けてどのようなポイントを踏まえているか、また、今後の具体化に向けてどのような取り組みが必要なのかを、中編で整理した諸外国の実践例からの示唆を踏まえて検討する。
(1)地域の産業戦略に連動した人材戦略・教育コンテンツを可視化する情報整備を
改正法では、地域の産業界の人材ニーズの可視化に向け、「地域職業能力開発促進協議会」の設置を義務付けるなどしている。人材要件の可視化という意味では重要な制度改正といえるが、より重要なのは、人材要件の可視化や教育コンテンツの制作以前の、地域の産業戦略と人材戦略の連動が確保されているか、である。
「地域版人的資本経営」の実践にあたっては、まず、地域全体での産業戦略の構築を行い、地域経済における成長領域の特定を行う。並行して、成長領域で必要とされる人材の要件とボリュームを検討する。
その上で、特に成長が見込まれる領域で活躍が期待される人材のコアスキルの特定、こうした人材を育成するための教育プログラムの策定を行うといった取り組みが望まれる。
こうした領域で活用可能な分析・推計ツールやキャリア形成を支援するサービスなども開発されつつあり(*1)、新たな技術・ツールの活用による科学的な戦略構築も「地域版人的資本経営」の実現に向けた有効策となり得る。
(2)雇用主が従業員のリスキリングに積極的になれる仕組みづくりを
国の「学びの好循環」では、国が用意した能力開発支援制度を所管省庁を超えて網羅的に解説した雇用主向けガイドライン(*2)を2022年6月に公表した。「地域版人的資本経営」では、このガイドラインを参考としつつ、地域(都道府県・特別区および基礎自治体)が提供する支援制度やサービスなども含めてリスキリングの促進に向けた普及啓発を図る必要がある。
その上で、リスキリングを進めていくためには、雇用主に対する裁量と、従業員に対する能力開発を支援するインセンティブ付与の2点が必要である。
例えば、雇用保険料の支払額に応じ、従業員のリスキリングに際して雇用主が公費の助成を受け、訓練プログラムの選定と訓練プロバイダーとの契約を行う裁量を与えることなどが考えられる。
リスキリングは、いわゆる「学び直し」や「生涯学習」といった個人の発意を動機とする学習とは異なり、雇用主が自社の事業・業務において必要となる能力を従業員に身に着けてもらうものだからだ。また、雇用主は、自社の経営戦略に沿った人材要件の可視化と、必要スキル獲得のための人的資本投資を経営の責任として進めていく必要がある。
(3)成長領域の企業と実務人材が関与する実践学修の場の設定を
能力開発をより効果的に行い、実践的なスキル獲得とともに職業適性のすり合わせなども行い得る点から、「地域版人的資本経営」における訓練プログラムでは、実践学修(*3)の組み込みを積極的に取り入れるべきだ。
日本における能力開発で実践学修を導入するためには、企業の協力が不可欠となる。特に成長領域の事業を持つ企業は、地域の教育機関と連携した実践学修プログラムへの職場と実務家教員の提供など、実践学修の機会を拡大していくことが求められよう。具体的には地域の大学などと連携したリスキリングプログラムを立ち上げ、これを公共職業訓練のプログラムとして地域職業能力開発促進協議会において位置付けていくといった方法が考えられる。
(4)能力開発プログラム全体のレベルアップに向けたPDCAの導入を
能力開発プログラム全体のレベルアップを図り、労働市場で求められるスキル水準の上昇に見合ったリスキリング機会の提供を図れるように、能力開発プログラムの整備にあたって職業能力のレベル分けと開発プログラムの上方遷移を促すことを提案する。
開発すべき職業能力ごとにどの程度の教育訓練が必要となるかを特定し、能力開発プログラム全体に占める、高レベルの職業能力開発プログラムの比率を徐々に向上させていく。さらに、能力開発プログラムの効果(転職や再就職に要する期間、賃金等処遇の推移など)を把握・分析し、より有効な能力開発プログラムへと資源を集中させていくといった方法が考えられる。
現在、厚生労働省では、職業訓練と再就職に要する期間との関係についての分析を開始している。こうしたエビデンスに基づくPDCAサイクルを定着させていくことで「地域版人的資本経営」は中長期的に実効性を向上させることができると考える。
(5)制度改正と官民支援で意識改革を促し、「前向きな労働移動」の実現を
DX・GXなどの進展を前提とすれば、産業単位のスクラップ&ビルドとそれに伴う労働移動が発生した場合を検討する必要がある。政府の「学びの好循環」は、原則として能力開発に関する政策の在り方を示したもので、労働移動そのものの支援を目的としたものではない。
一方、国の制度として労働移動の支援を担う仕組みは前編でも述べたように脆弱だ。現状では、公的にはハローワークによる職業紹介のほか、一部産業によって設立された産業雇用安定センターなどがアウトプレイスメント(*4)に対応しているが、マッチングの規模や転職後の職業の将来性、処遇などの点で課題がある。
現在の日本では、産業構造変化を契機とした労働移動を前向きにとらえないのが実情であり、具体的な施策展開は遅れている状況だ。
スウェーデンにおける労使協働による再就職支援の効果の例を踏まえると、産業において生じるリスキリングのニーズを能力開発に活かすとともに、地域における前向きな労働移動のきっかけとすることも、「地域版人的資本経営」には必要だ。アウトプレイスメントにおいて、再就職先における処遇の向上可能性や、現状の生活への影響が少ないといった見通しがあれば、労働移動を前向きにとらえることも可能になる。
こうした前向きな労働移動の実現のために必要となるのが、アウトスキリング(*5)なのだ。
アウトスキリングは、地域の行政での施策展開のみで進めることができるものではなく、地域から国の諸制度への改革提言など広範な取り組みが必要となる。
例えば、円滑な労働移動や能力開発を実行するためには、現状の予告解雇期間1カ月は短すぎる。解雇の発生が予測されたのち、実践的な職業訓練を実施する、職業マッチングを進めるといったアウトスキリング活動を進めるため、在職期間に応じ、訓練プログラムの受講難を勘案し、数カ月単位の解雇予告期間を設定するなど、雇用保護に関する法制度等の見直しも必要になろう。
その他、労働移動の進展に伴って、企業には財政的なリスクや事業承継などの必要性が発生する可能性もある。こうした場合には、地域金融機関などによるM&A支援なども必要となる。また、人材には失業や一時的所得減少などのリスクが顕在化する懸念もある。
こうしたリスクに対しては、一義的には地域行政におけるセーフティーネットの活用が想定されるが、従来の安定雇用を前提とした国の雇用政策や社会保障制度等の改革が必要になる。例えば、失業に際して短期間、ほぼ無条件に給付される失業手当から、可能な限り良好な条件での再就労を目指すため、失業給付を能力開発の実施とセットにするなど、いわゆる「ワークフェア」原理の導入などが考えられる。
以上のような国の制度改革は、今後、「地域版人的資本経営」の検討・実践が進む中で、先行地域からの課題整理、提言などがなされることが期待される。国にはこれらの情報を十分に吸収・検討していくことを求めたい。
また、こうした課題解決に向けた検討を進める過程で、地域の労使団体の協力関係の強化や、いたずらに現状にしがみつくのではなく、より良い可能性のある職業を求めた移動を労使が協働して支援する必要があるといった「労働移動に対する認識の変化」が生まれることも期待したい。
(6)戦略をデザインし、地域の関係機関をまとめ上げる「地域版CHRO」の確立を
最後に、「地域版人的資本経営」を進めるため、これまで見てきたような、産業政策、雇用・労働政策、教育政策の統合的な促進を進めていく視点の導入が必要となる。「ガイドライン」は確かに省庁の壁を越えた施策の活用を促す構成となっている。
だが、実際に「地域版人的資本経営」を進めていくためには、各地域の戦略の中に人的資本投資の在り方を位置付けていく必要がある。産業戦略と人材戦略、教育戦略が統合されることで、人材の育成→産業の成長→教育投資の活性化→地域の教育研究資源の高度化→人材の獲得……というサイクルが形成できる。
こうした地域の戦略を構築し、労使団体、有力企業、教育訓練機関、行政などのステークホルダーを取りまとめていく役割を担う主体が必要になる。企業では、経営戦略と人材戦略の連動を図るキーパーソンとして最高人事責任者(CHRO)の重要性が注目されている。
「地域版人的資本経営」では、地域全体の戦略をデザインし、産業界(産業政策)、労働界(雇用・労働政策)、教育界(教育政策)をつなぐことで総合力を発揮させる「地域版CHRO」の確立を提言したい(図表1)。
改正法では、地域における職業訓練の司令塔となるべき「地域職業能力開発促進協議会」を、都道府県労働局、都道府県、労使団体、教育訓練実施機関、人材サービス事業者、学識経験者等を構成員として設置・運用することを求めている。
こうした、地域のステークホルダーが参集する場を活用し、「地域版人的資本経営」の実現に向けて、「地域戦略の共有と産業戦略との連携」「産業界の人材ニーズの可視化」「可視化された人材ニーズの訓練機関・教育機関との連携」などの促進にイニシアティブを発揮するのが「地域版CHRO」の役割だ。
全国の首長や、地域、産業クラスターを代表する企業の経営幹部、労使団体役員らが、「地域版CHRO」の役割を担うべく立ち上ることを切に期待する。
安定はしていても、成長しない、賃金が上がらないという状況には、何か解決すべき問題が潜んでいるはずだ。「地域版人的資本経営」モデルは、確かに産業の一部領域に縮小や変化を求めることになる。だが、腐朽しつつある市場で成長なき安定を求めるのではなく、地域・産業クラスターが一丸となって、次の成長領域に向けた投資を進めていくことで、道が拓けると考える。
図表1 「地域版CHRO」の確立と産業・労働・教育の連携イメージ
*1:三菱総合研究所では、これまでの研究成果から、「産業構造変化(DX・GXなど)の進展に伴う地域の人材需給のミスマッチ発生シミュレーション」「人材需給のミスマッチ解消に向けたリスキリングの必要規模推計」「産業・職種を横断したキャリア形成・人材戦略構築を可能とする職業シソーラスの整備」などをツールとして、地域の人材戦略や教育プログラム構築の進展に活用できる可能性を見出している。例えばこうした可能性の一端として「JOBMINEs」がある。
*2:厚生労働省(2022年)「職場における学び・学び直し促進ガイドライン」
https://www.mhlw.go.jp/content/11801000/000957888.pdf (閲覧日:2022年11月4日)
*3:ここでいう「実践学修」は、日本において一部の専門職養成課程で、教育の一環として取り入れられている「実習」は意味しない。訓練生として、企業において実際に一定期間就労して学修することを想定している。具体的なイメージは中編図表2のドイツにおける実践例を参照。
*4:雇用調整により人員削減を行う企業からの依頼を受け、解雇・退職した人員の再就職に向けて実施される支援を指す。
*5:雇用調整による人員整理において、解雇・退職前に、より良い再就職を果たすための能力開発プログラムやマッチング支援を組み合わせた労働移動支援サービスをセットで提供することを指す。