本記事は、ジム・ロジャーズ氏の著書『捨てられる日本』(SBクリエイティブ)の中から一部を抜粋・編集しています。
「失われた30年」の正体
「英国病」と「日本病」―経済はこうして停滞する
平成から令和にかけて、数十年にわたる停滞にあえぐ今の日本の姿は、まるで「英国病」に悩まされたころのイギリスを見ているかのようだ。戦後の一時期、この国は「一流国」であった。しかし、そのころの栄華はいまや見る影もなく、もはや「二流国」に転落した、と言っても過言ではない。
一流国は永遠に続くことはなく、台頭してきた別の一流国に取って代わられる。これは歴史の必然で、日本もこの法則から逃れられなかった、ということである。「英国病」とは、第二次世界大戦後、イギリスで長期間続いた社会・経済の停滞現象だ。とくに1960年代から1980年代の状況を指して言われることが多く、工業生産力や輸出力の減退、国民の勤労意欲の低下、慢性的なインフレ、国際収支の悪化、それにともなう英ポンドの下落、および、こうした数々の問題があるにもかかわらず、対処することができなかったイギリス特有の硬直性を総称した言葉である。
「歴史上、成功し続けた国は存在しない」と私はよく話すが、「英国病」は、そのことを端的に教えてくれる。19世紀には覇権国の座にあったイギリスだが、歴史が証明する通り、その栄華は永遠に続くことはなかったのだ。
当時のイギリスは、ヨーロッパ諸国から「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほど悲惨な状況にあった。その背景には、「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれた充実した社会保障制度、石炭・電気・ガス・鉄道や運輸・自動車産業や航空宇宙産業といった基幹産業の国有化、固定的な階級制度、労働力の不足、頻発する労働組合のストライキ、保守的な経営による合理化の遅れなど、さまざまな要因が存在した。
では、イギリスはどのようにしてこの悲惨な「病」から立ち直ったのだろうか。
サッチャー政権(1979~1990年)の構造改革が起爆剤になったという人もいるが、サッチャー政権時代にイギリス経済は一時的に持ち直したものの、英国病の克服といえるほどの絶大な効果があったかというと、疑問が残る。
復活の決定打となったのは、1960年に開発が始まった北海油田だ。イギリスは1980年から2005年までの間、石油の純輸出国となり、外貨を豊富に獲得できるようになったのである。
以降のイギリス経済は、1992年から2007年まで連続してプラス成長を続け、2001年には、ブレア政権が「英国病克服宣言」を行うに至った。
イギリス衰退は、「スウィンギング・ロンドン」の時代に始まっていた
この「英国病」は、いつから始まったのだろうか。ずっと以前からポンド安はまっていた―このようにいうと、驚く人もいるかもしれない。当時、大半のイギリス人は事態の深刻さに気づかなかった。そして、彼らが気づいた時にはすでに手の施しようがないほど病が進行してしまっていた。今日の日本の姿にそのまま重なる。
イギリスは第二次世界大戦の戦勝国となり、国全体が浮き足立っていた。やがて、1960年代の「スウィンギング・ロンドン」が到来する。これは、若者たちが担い手となった一種の「文化革命」であり、現代性と新しい快楽主義を強調した一大ムーブメントだった。芸術・映画・音楽・ファッションなど、さまざまな分野が盛り上がり、世界中の若者たちがイギリスに熱い視線を送った。
その象徴的存在が、ビートルズやミニスカートを世界に流行させたモデルのツィギーであり、サイケデリック・アートもこの時期に誕生している。よもやこの時点で、国が「病(衰退)」を発症していようとは、多くのイギリス人は気づくはずもなかった。
第二次大戦で支出が膨張し不況に見舞われたことで、次第にイギリスは債務に苦しむようになる。同じような状況に見舞われた国はほかにも存在したが、なぜかイギリスは対策を怠り、債務超過に陥った。
戦勝国になったうぬぼれも一因だったかもしれない。経済成長へと舵を切るための起爆剤となりうるイノベーションは、当時のイギリスには存在しなかったのである。
こうして資金難に見舞われたイギリスは、国土から遠く離れた植民地を統治する余力を失い、引き揚げることとなった。
イギリスは、スエズ戦争(第二次中東戦争)での敗北以降も、アジア地域に軍隊を駐留させていたが、その維持費がイギリス経済を圧迫するようになった。1968年、労働党のウィルソン内閣は、1971年までにマレーシア連邦、シンガポールから撤兵することを表明したのである。
当時、イギリス海軍は世界最高峰の実力を備えていた。しかし、築き上げた巨大な帝国を維持するためには、えてして莫大な資金がいるものだ。「植民地からの撤退」という選択は、軍隊の海外駐在という負担をなくすためのものだったが、これにより、かつてアジアを支配したイギリス帝国の残滓は消えてしまった。シンガポールを発つ時、ある海軍将官が「イギリスの支援がなくなればシンガポールは終わりだ」と話した。しかしこれは大きな勘違いだった。
「シンガポールの奇跡」はなぜ可能だったのか
その後、イギリスは、世界を牽引した19世紀の栄華を見る影もないほど破綻し、イギリスの後ろ盾を失ったように見えたシンガポールは一大経済大国になった。いまや、世界的な金融ハブである。
私は、2007年に家族でシンガポールに移住したのだが、この国は面積が約720㎢、人口約600万人の小さな国だ。国内市場だけで得られる経済的成功にはどうしても天井が存在するため、東南アジアにおける人・モノ・金の流れがシンガポールを経由して行われるような施策を展開した。
たとえば、チャンギ空港は世界有数のハブ空港として世界各国に路線を展開しているし、外国人駐在員やその家族が暮らしやすい環境も整備されている。また、英語教育を徹底しているので、ほとんどの国民が英語を話すことができる。
そして、税制の優遇処置によって多国籍企業を積極的に誘致し、知的労働者を中心に移民も積極的に受け入れている。こうした官民を挙げた、国際競争力を高めるための取り組みがあったからこそ、「シンガポールの奇跡」を起こすことができたのだ。
資金難によりシンガポールの地を去ることになったイギリスは、どう考えても敗者だ。この期におよんでも他国より自国が優れていると思いあがってしまったのはなぜだろうか。
イギリスは巨大な帝国を築き、世界中のさまざまな地域に干渉したが、自国経済が停滞し始めると、領土を広げた分、過重負担に悩まされ、結果として債務超過に陥り、破綻の道をたどった。
「世界一裕福な国」だった日本に起きた異変
かつてのイギリスと現在の日本の姿が重なるのはここまで見てきた通りだ。この先、日本がたどる道もイギリスと同様のものになるかもしれない。山積する諸問題に対して、日本政府は有効な策を打てていないと感じられるからだ。
私は1990年に世界一周の旅の途中で日本に立ち寄った。その時驚いたのは、日本はすばらしい観光の地であり、それにふさわしい豊かな文化と伝統を持っていたことだ。
当時の日本は、世界最高のインフラを備えていた。新幹線、地下鉄、何もかもが見事に機能しており「世界一裕福な国」だった。
私はそんな日本を今も愛してやまないので、日本が現状直面している諸問題を乗り越えてくれることを願っている。
イギリス経済は北海油田の開発で復活したが、国内にほとんど資源がない日本において、北海油田に代わる復活の起爆剤になるものは、残念ながら思い浮かばない。
出生率を上げる、移民を受け入れる、減税を実施し歳出を減らすという解決策は存在するが、現状、日本ではそれほど積極的には実施されていない。
もし日本人が経済成長をしたい、あるいは、少なくとも現状の生活水準を維持したい、と望むのであれば、今すぐ人口を増やすべきだ。国を開いて移民を受け入れる、増える一方の財政支出を削減する……こうした抜本的解決策に対して真剣に取り組んで初めて、日本は長く続いた停滞期から脱することができる。
栄光は永遠には続かない
一時代を築き、覇権を握っていた国は、いつか必ず衰退の道へ至るものだ。
これは人類史上の必然である。例外は存在しない。
たとえばイギリスが覇権国の座につく前、16~17世紀の時代には、オランダが世界の覇者であった。
スペインから独立したオランダはアムステルダムを中心として、驚くべき経済成長を遂げた。1602年に世界初の株式会社、オランダ東インド会社を設立し、香料の産地である東南アジアへ勢力を広げた。それと時を同じくして奴隷貿易にも参入し、全世界に商圏を拡大させたのである。
皆さんは、Dutch uncle(オランダ人の叔父)という表現を耳にしたことがあるだろうか? 「教育、激励、あるいは忠告するために、率直なアドバイスをくれる人」という意味だ。
この言葉が生まれた経緯は次の通りだ。オランダは当時、先進国であり、各地に最新の技術と資本をもたらした。文字通り「世界のアドバイザー」だったのである。
17世紀初めには、世界の発明の約4分の1がオランダによって生み出されたという。彼らはすばらしい造船技術も有しており、少ない人手であってもたくさんの貨物を運ぶことができる「フライト船」を開発。これを武器として、世界貿易において高い競争力を獲得した。
イギリスは、オランダから造船技術を盛んに取り入れた。そしてついに17世紀後半、イギリスは世界一の海洋国家となり、覇権の座はオランダから移り変わる。軍事力で優位に立ったイギリスは、18世紀半ばに最盛期を迎える。世界的な経済大国となり、通貨ポンドは世界の基軸通貨となった。