茨城県のトップ地銀は常陽銀行だが、他の第二地銀もユニークなM&Aの歴史を持っている。そんな茨城県出身の2行を見ていく。
“2度目”の正直、「筑波銀行」の誕生
筑波銀行の誕生は、他の地銀・第二地銀と比べると2010年3月と新しい。茨城銀行と関東つくば銀行が合併して誕生した。本店を茨城県土浦市に、本部をつくば市に置く。
この2行のうち茨城銀行は1921(大正10)年6月に創立した茨城無尽が始まりで、1952年2月に茨城相互銀行に、1989年2月に茨城銀行と改称した。相互銀行法の制定、相互銀行から普通銀行への転換と、銀行再編の時流に応じて転換・改称していった。
一方の関東つくば銀行は、2003年4月に関東銀行とつくば銀行が合併して誕生した。
関東つくば銀行と茨城銀行は、実は、いったん合併が決まっていたにもかかわらず破談となってしまった経緯がある。
合併は「ひたちの銀行として2006年7月に」と新行名や日程なども決まっていた。だが、システム統合方針の決定に手間取ったことなどもあり、白紙に戻った。その後、損害賠償問題に発展するものの和解し、2009年に再び合併することで基本合意した。法律上の存続会社は関東つくば銀行であり、茨城銀行は解散となった。筑波銀行の設立は1952年とされているが、それは存続会社の関東つくば銀行の合併前、関東銀行の設立年である。
金融機関では合併の際などに、急な支店の統廃合を避ける目的もあり、複数の支店を1か所の窓口にする「ブランチ・イン・ブランチ(店舗内店舗)」方式を採用することがある。
筑波銀行でも合併に際してブランチ・イン・ブランチを採用している。その対応は10年以上続き、合併から10年を経た2020年3月には6支店でブランチ・イン・ブランチによる店舗移転(統合)が行われた。
“東京の地銀”になった「東日本銀行」
茨城県出身の銀行の2つ目は東日本銀行である。本店は中央区日本橋茅場町に置いているが、もともとは1924(大正11)年3月、茨城県水戸市に設立された常磐(ときわ)無尽である。大正後期から第二次大戦後しばらくは無尽組織として営業を行い、1951年10月に常磐相互銀行に改称。そして1952年6月に東京都千代田区に本店を移し、以後は東京の“相銀”として営業網を拡充していく。
行名をときわ相互銀行とひらがなに改称したのは1973年10月、東日本銀行に改称したのは普通銀行への転換時、1989年2月のことだ。M&Aに関しては2001年5月に経営破綻した新潟中央銀行の営業の一部を譲り受けている。
その後東日本銀行は、2016年4月に横浜銀行と株式移転方式により経営統合し、コンコルディア・フィナンシャルグループ<7186>を設立。横浜銀行とともに、その完全子会社となった。
この経営統合の際には、同じ地銀でも圧倒的な差がある横浜銀行が、なぜ東日本銀行と?などと話題を呼んだ。
確かに両行の経営統合により、コンコルディア・フィナンシャルグループはふくおかフィナンシャルグループ<8354>を上回る最大の地銀グループとなる。株式交換比率は、横浜銀行を1とすると東日本銀行を0.541。両行にとっては圧倒的な規模の差はあるものの、「首都圏を共通の営業地盤としながら、両行の営業エリア・顧客基盤・得意とする業務分野などに競合関係が少なく補完関係が多い」(東日本銀行の2015年の臨時株主総会資料より)という状況に着目したようだ。
東日本銀行の都内店舗は23区内が多いが、武蔵野・多摩地区をはじめ都内を広域をカバーするには他行との統合も必要だっただろう。現在、東日本銀行は都内に61店舗を擁し、茨城県内にも12店舗、神奈川県に11店舗を置いている。
2016年は茨城県のトップバンクである常陽銀行が、栃木県の足利銀行と経営統合を果たし、めぶきフィナンシャルグループ<7167>が発足した年である。東日本銀行はその足利銀行と2010年当時、経営統合交渉を行っていた。2010年代、関東圏の地銀は生き残りをかけて再編の波に立ち向かっていた。
文:菱田秀則(ライター)