大分県の第二地銀、豊和銀行。無尽組織から相銀、さらに普通銀行への転換と第二地銀の“定番”コースを歩むが、2000年代に大きな辛苦を味わうことに……。前途に待ち受ける金融再編の荒波をどう乗り越えるか?
歴史上にもう1つの豊和銀行
豊和銀行は大分県の第二地銀である。ただし、県下には資本関係はないものの、歴史上、もう1つ豊和銀行があった。1940(昭和15)年に設立され、わずか2年で地元の有力地銀、大分合同銀行(現大分銀行)に買収された豊和銀行である。
この豊和銀行は、県下にあった玖珠銀行、高田実業銀行、朝陽銀行、直入銀行、別府銀行、両豊銀行という小規模な6行の合併により誕生した。
ところが1940年は第二次大戦を間近に控え、日本全体の戦時色が強まってきた時期だ。それは、国による一県一行主義のもと、銀行の統廃合が進んでいた時期でもある。そのため、この豊和銀行も地域大手の大分合同銀行に飲み込まれた格好になった。
戦後の看做無尽が源流の豊和銀行
時代は昭和から平成へと移り変わり、1989(平成元)年2月、現在の豊和銀行<8559>が誕生した。この豊和銀行は、もともと1949年12月に設立された大豊殖産無尽を源流とする。大豊殖産無尽は看做(みなし)無尽に分類される組織だったという。
看做無尽とは、1949年5月の無尽業法の改正により認められた業態の1つ。典型的な無尽組織は一定の口数で「組」と呼ばれるグループをつくり、抽せんや入札で給付する順序を決めていたが、看做無尽では「組」という組織も、抽せんや入札といった仕組みもなく、一定の給付金額を定めて一定の期間内に掛金を払い込み、期間の中途か満期に給付を行う組織だった。
この見做無尽の時代を経て、大豊殖産無尽は1953年1月、相互銀行免許の取得により豊和相互銀行と改称した。そして1989年に普通銀行に転換し、豊和銀行となった。
豊和銀行は普通銀行に転換した翌1990年12月、福岡証券取引所に上場する。大豊殖産無尽の頃から今日まで、大きなM&Aはない。
2014年、再び公的資金注入行に
なぜ、たとえば破綻する信用組合の受け皿になるなどM&Aによる規模の拡大を図らなかったのか。端的に「それどころではなかった」のかもしれない。
豊和銀行は2014年3月、金融庁からの金融機能強化法に基づく公的資金注入を受けている。2006年10月に次ぐ再申請で、注入額は160億円だった。
2006年、初回申請時の注入額は90億円。この際は、西日本シティ銀行から30億円の増資を受けるなど他の金融機関、県内大手企業などからも支援を受けた。
同年9月には、経営陣の法令順守とリスク管理の認識が希薄であり、経営改善の指示や問題解決の対応策を講じていなかったことなどを理由に、金融庁から「業務改善命令」を受けている。また、業績悪化により頭取や専務が辞任、新しく整理回収機構(RCC)関係者を役員に据えた。なお、旧役員陣に対する損害請求賠償訴訟や行員の不祥事などもあり、2006年から2008年頃、豊和銀行の経営状態は大きく揺れていた。
2006年の申請時は改正前の金融機能強化法に基づく不良債権処理が主眼であり、それをもとにリスタートを切った。だが、初回の公的資金の注入は実効を上げたとはいえず、2014年の再度の申請となった。
160億円の完済は2029年を目指しているという。それまでは「いちばんに、あなたのこと」という地域密着を合言葉に、取引先企業の販路開拓支援など金融から派生したビジネスにも本腰を入れ続ける。
文・菱田秀則(ライター)