この記事は2023年11月3日に「きんざいOnline:週刊金融財政事情」で公開された「「100年に1度」の錯覚が生む財政赤字の膨張」を一部編集し、転載したものです。


「100年に1度」の錯覚が生む財政赤字の膨張
(画像=ronniechua/stock.adobe.com)

(財務省「国債発行額の推移(実績ベース)」)

一昨年末、NHK衛星放送が1982年の特集番組「85歳の執念」を再放送していた。第2次臨時調査会の土光敏夫会長の公私に迫ったドキュメンタリーだ。番組は「国の借金、国債発行残高82兆円。国家財政は今、破産の危機に瀕している」とのナレーションで始まる。それから40年余り。土光氏の執念もむなしく、国債発行残高は今や1,000兆円を超える。なぜ、こうなったのか──。

底流には、高齢人口の増加を背景とする社会保障費の増大がある。しかし、それだけではない。図表が示すのは「階段状に発散する」国債発行の姿だ。

日本では「100年に1度」と呼ばれる危機が起きる都度、大量の国債が発行され、収束後も十分に圧縮されないまま、次の危機を迎えてきた。この「100年に1度の危機」が、近年は10年に1度に満たない頻度で起きている。2008~09年のリーマンショックは、当時の理論モデル上、100年に1度しか起きないリスクが顕在化したものといわれた。11年の東日本大震災は、国内観測史上、最大規模の地震だった。20年からの新型コロナは、世界の死者数が、感染症としてスペイン風邪以来、約100年ぶりといえる水準に達した。

個々の事象は100年に1度であっても、社会全体で見れば、しばしば起きる事象の一つだ。ならば、その理解と覚悟をもって、あらかじめ危機の想定を広げ、被害と支出を最小化する準備が必要である。そうは言っても、すべてのリスクと被害を予測するのは難しいため、まずは危機時の財政出動について、将来の国債償還の道筋を明確にした上で、是非を判断するのが肝心である。危機時にこそ、場当たり的な対応とならないよう、冷静な判断が求められる。それが政治の仕事である。

しかし現実は、「危機」という名のパニックの下、償還財源を問うことなく巨額の国債が発行されてきた。こうなると、収束後に財源議論を蒸し返すのは難しい。選挙が意識される政治の世界では、いったん上った階段を下りるのは至難の業だ。

今年度の新規国債発行額(当初予算)は10年代後半並みの約36兆円とされ、それ以上の削減は行われなかった。さらに今回の臨時国会で、大規模な経済対策が取りまとめられる見込みである。政府は税収増の一部を「国民に還元する」としており、人々の関心はもっぱら還元の方法に向かう。税収増を国債発行の減額に充てる考えは、ほとんど顧みられない。岸田文雄政権が来年度予算の目玉と位置付ける「異次元の少子化対策」も、財源議論は始まったばかりで心もとない。

このままでは、新型コロナという「危機」を経て、国債発行は次の階段を上ることになりかねない。「財政規律」は、すでに過去の言葉となってしまったのだろうか。

「100年に1度」の錯覚が生む財政赤字の膨張
(画像=きんざいOnline)

オフィス金融経済イニシアティブ 代表/山本 謙三
週刊金融財政事情 2023年11月7日号