将棋界において、25年以上にわたって一度も無冠になったことがなく、トップの座をキープし続けている羽生善治氏。変化のスピードが速く、「情報戦」の様相を呈しつつある将棋界において、羽生氏はいかに膨大な情報を処理し、素早い判断につなげているのか? お話をうかがった。
時代遅れの情報は惜しまずに捨てる
ITの進化などによって変化のスピードが速くなっているのは、ビジネスの世界だけではなく、将棋界も同じだ。
将棋の公式戦は年間2,000局以上行なわれており、今はそれらの棋譜をパソコンで検索することが可能になっている。また、主だった対局については、インターネットでの中継も頻繁に行なわれるようになった。そのため、新しい戦型を編み出しても、すぐに研究されて、通用しなくなってしまうようになっているのだ。
さまざまな戦型が次々と試され、同じ棋士でも戦い方のスタイルがどんどん変わっている今の将棋界。そんな中で勝ち続けるためには、情報の収集と分析が欠かせない。だが羽生氏は、「情報とのつきあい方に気をつけないと、情報がかえって勝負の邪魔をすることが少なくない」と言う。
「私は、対局の前に、対戦相手の最近の戦い方の傾向をチェックするようにしています。あらかじめ情報収集をしておくことのメリットは、予想どおりの展開になったとき、最初の30~40手ぐらいまでの間は、あまり考えることなく進めていけることです。前半にエネルギーを温存できるぶん、本当の勝負どころで集中力を発揮することができます。
しかし、情報収集にはデメリットもあります。1つは、物理的に多くの時間を取られてしまうこと。最新の動向を吸収することばかりにとらわれていると、自ら創造的な手を編み出していくことの研究に時間を割けなくなってしまいます。
もう1つは、情報を収集して対策を練れば練るほど、思い入れが強くなりすぎてしまうことです。ある新しい戦型を1カ月間かけて勉強し、自分のものにしたのに、そのときにはすでに時代遅れのものになってしまっていることがあります。ところが、『せっかくこんなに情報を仕入れて勉強したのに』という思いが強いと、容易に捨てられず、判断の遅れにつながることがあるのです。情報収集をしすぎたり、対策を練りすぎたりすることが、かえって時代に取り残されてしまうことになりかねないということです。
ですから、『捨てるべきときには、過去の蓄積を惜しまずに捨てる』という覚悟が重要になります」
情報を覚えるのではなく全体像を把握する
もちろん、羽生氏は情報を軽視しているわけではない。意識しているのは、時間が限られている中で、自分にとって重要だと判断した情報だけを適切に選択していくことだ。
「選択する情報はテーマによって変わってきます。たとえば、ある戦型を体系的に分析するときには、その戦型の歴史を振り返り、転換点となった対局の棋譜をいくつか探します。また、何か新しいアイデアを得たいというときには、過去に誰かが試みた一手でヒントになりそうなものをピックアップします。テーマが違えば、必要となる情報も違ってくるのです。
そして、『これはぜひ自分のものにしたい』という棋譜については、プリントアウトをしたうえで、実際に盤に駒を並べて覚えるようにしています。
プリントは、ある程度溜まったら捨てています。捨てることで『ここで覚えておかないと、しばらく見ることができない』という緊張感が生まれるからです。
ただし、覚えるといっても、暗記をするというより、その場面の状況を全体像として把握しておくという感覚です。将棋の場合、『過去に見た棋譜と似ているが、歩の位置が少し違う』といったように、似て非なる場面というのが非常に多いんですね。そこで、全体像を覚えておけば、実際の対局の中で初めて経験する局面になったときでも、『あのとき覚えたあの場面の状況に似ているぞ』というふうに類推が働き、対処法が見つかることがあります。
情報は、ただ見て暗記するだけだと、しばらく経ったら忘れてしまいます。これは時間のロスでしかありません。収集した情報を経験知として活かせるように、しっかりと自分のものにすることが大切です」