日本の税制は、「公平」で「応分負担」にできているのでしょうか。現代日本ではサラリーマンばかりが担税を強いられているようです。税金の原則を解説し、「アダム・スミスの教え」を通して、消費税、固定資産税などについて考えます。

(本記事は、大村大次郎氏の著書『超訳「国富論」―――経済学の原点を2時間で理解する』=KADOKAWA、2018年1月18日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

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国富論
(画像=Webサイトより ※クリックするとAmazonに飛びます)

税金の4つの原則「公平」「明確」「簡便」「低コスト」

税を課す場合は、次の4つを守らなければならない。

「公平であること」
「税金の決め方が明確であること」
「納税しやすいこと」
「徴税するためのコストが安いこと」 国富論第5篇第2章

税金の良し悪しが国力を決める

国富論では、税についても、深い考察と提言がなされています。

ここに挙げた4つの原則、

「公平であること」
「税金の決め方が明確であること」
「納税しやすいこと」
「徴税するためのコストが安いこと」

は、現在の世界中の国が税制の指針としていることです。

「公平であること」というのは、国民が税の支払いに納得するために、第一に必要なことだといえます。

「税金の決め方が明確であること」というのは、税額の計算方法は明確に定められているべきで、誰かの恣意的な判断で税額が決められないようにすべき、という意味です。

「納税しやすいこと」というのは、納税者にお金がないときに無理やり徴収したり、納税者に不便な方法で徴収したりしてはならない、ということです。

「徴税するためのコストが安いこと」というのは、税務当局が税を徴収するときに、あまり費用をかけてはならない、ということです。

この四原則の中でも、「公平であること」が掲げられていることは、特筆すべきことです。

アダム・スミスが生きた当時は、まだヨーロッパは中世と近代の狭間にいるころです。

あのフランス革命も、国富論の刊行後のことです。もちろん基本的人権などは、確立されていません。ヨーロッパ各国では、国王が恣意的に国を治めることが普通でした。

その時代に「税の公平」を主張し、効率的な税制を理論的に提言しているのです。ここでも、アダム・スミスの先見性が発揮されているといえます。

今の日本では、税の三原則として「公平」「中立」「簡素」ということが掲げられています。この三原則の意味は、アダム・スミスの四原則とほぼ同じです。

しかし、日本のこの税の三原則は戦後に設定されたものであり、戦前にはこのような概念はありませんでした。つまり、国富論の税理論は、日本より200年も進んでいたものだったのです。

現代日本でもなかなか守られていない税の四原則

アダム・スミスの掲げた税の四原則は、税の基本思想でありながら、なかなか守られにくいものでもあります。

今の日本でも、守られているとは到底、言い難いものなのです。筆者は、かつて税務署に勤務していましたが、「税の公平を保つ」ことがいかに難しいものであるか、実感として知っています。

権力を持っている人、財力を持っている人は、そのパワーにモノを言わせて、なるべく税を払わないように圧力をかけてくるのです。おそらく、それは古今東西の社会で生じていた現象だと思われます。

そのため税務署の現場では「影の大原則」とでもいうような考え方がありました。

それは「税金は取りやすいところから取れ」ということです。

税金を取るということは、非常に大変なことなので、あまり文句を言ってこない人、黙って税金を払ってくれる人から集中的に取れ、ということが言われるようになったのです。

つまり、権力を持たない人、立場の弱い人、うるさく主張しない人から、税金は取れということです。

アダム・スミスの言っていることとは正反対ですね。

あらゆる階層の人の「担税力」を見極めよ

国富論
(画像=structuresxx/ShutterStock)

あらゆる階層の人々が、それぞれの担税力に応じて納税すべきである。税は地代、利潤、賃金に対して課されているが、このうちのどれか1つに偏ってはならない。 国富論第5篇第2章

公平な課税を実現するために

国富論では、「あらゆる階層の人たちが担税力(税金の負担を受け持てる力)に応じた税を支払うべき」という、現代においても世界中で税の基本とされている思想を掲げています。

アダム・スミスがここで言っている「地代、利潤、賃金」というのは、あらゆる階層の人々の得られる収入のすべてという意味です。世間の大半の収入は、この3つのうちのどれかに当てはまるということです。

地代は、土地や不動産の所有者が得られる収入のことであり、利潤というのは、事業家がその事業で得られる収益のことです。賃金は労働者が得られる収入のことです。

現在では投資家などもいるので、この3つのうちのどれにも当てはまらないものもあるように思えますが、この分け方で考えるならば投資家の収入は「利潤」に入ることになるでしょう。いずれにせよ、アダム・スミスは、「あらゆる階層から公平に税を取りなさい」と言っているわけです。

これは、古今東西のあらゆる国、地域で通用する考え方であり、また、なかなか守られにくいルールでもあります。

日本ではサラリーマンばかりが担税を強いられている

実際、日本の税制を見ても、アダム・スミスの提言はなかなか守られていないことがわかります。

今の日本では「利潤」「賃金」「地代」のうち、賃金に対する課税は非常に厚く、利潤、地代に対する課税が非常に薄いからです。

現代日本では、サラリーマンの給料には、所得税、住民税、社会保険料が課されています。全部合わせると収入の3~4割になります。社会保険料は税ではない、と言われる人もいるかもしれませんが、義務として徴収されるものであり、国民の福祉のために使われるものなので、税とほぼ同じ性質を持っています。人類史の上での定義から見れば、税ということになるはずです。

この社会保険料を含めた日本のサラリーマンの担税率は、世界的に見ても非常に高いのです。

その一方で、投資家の配当金や株の売買益にかかる税金は、20%で固定されています。投資家の税金は、どれほど収入が多かろうが所得税、住民税を含めて20%で済むのです。

しかも、この収入には社会保険料がかかりません。その結果、あのトヨタの社長などは、税負担率が平社員よりも安くなっているのです。トヨタの社長の収入の大半は、持ち株からの配当金だからです。

日本の投資家の税金の安さは、世界的に見てもトップクラスなのです。

つまり、日本は世界的に見て、サラリーマンの税金は異常に高く、投資家の税金は異常に安いのです。

なぜ日本がこういう税制を敷いているのかというと、株への課税を緩くすることで、株式市場を活発にし、株価を上げようということからです。確かに、この税制のおかげもあり、株価は近年、上昇しています。

また日本では、土地に対する税金も先進国に比して低くなっています。だから広大な土地を持っている人でも、税負担は少なくて済んでいるのです。

結局、日本の税金はサラリーマンに依存しているというわけです。

その結果、サラリーマンの生活はまったく良くならず、国の経済社会は長期にわたって閉塞感が漂っています。

「あらゆる階層の人から公平に税を取らなければならない」

というアダム・スミスの教えを守っていない報いなのかもしれません。

税金は「簡単明瞭」でなければならない

税金の支払時期、支払方法、支払額は、すべての納税者に対して簡単明瞭になっていなければならない。徴税役人などによる恣意的な判断の余地があってはならない。 国富論第5篇第2章

徴税役人の不正対策

税の世界では「徴税役人の不正をいかにして防ぐか」ということが、非常に大きな課題になっています。これは、人類が国家というものをつくり、税制を整えて以来、ずっと悩まされている問題です。

アダム・スミスの時代にも、これは大きな問題でした。

中世までのヨーロッパでは、徴税請負人という存在がありました。徴税請負人というのは、その地域の有力者で徴税権を与えられた人のことで、国の徴税を代行していたのです。

その地域の税務行政は徴税請負人の判断に任され、徴税請負人は国に対して一定の税収を納めさえすれば、それでOKだったのです。当然のことながら、徴税請負人は領民から厳しく税を取りたてたり、勝手に新規の税をいくつもつくったりして、私腹を肥やしました。ヨーロッパではそういう状態が、ローマ帝国の時代から延々と続いてきたのです。

もちろん、そんな税制では国民は疲弊しますし、国の財政も潤いません。しかし、政府が国全体の徴税業務を行うことが当時は非常に難しかったこともあり、中世ヨーロッパの各王国は徴税請負人制度をやめることがなかなかできませんでした。

イギリスは、この徴税請負人の制度を、ヨーロッパの国としてはいち早く廃止しました。イギリスが世界の大国になれたのは、この税制の改革のおかげだったともいえます。

アダム・スミスの時代には、イギリスはすでに徴税請負人制度を廃止しています。ただ、徴税役人による不正がなくなったわけではありませんでした。徴税役人が各納税者の納税額を恣意的に決められる余地がまだあったのです。徴税役人が納税者から違法に税を取りたてて私腹を肥やしたり、納税者から賄賂をもらって税額を減らしたりなどの不正が頻発していました。

だからアダム・スミスは、公平な税制をつくるためには、「税の仕組みを誰が計算しても同じになるような、簡単明瞭なものにすべき」と提言しているのです。

徴税役人が恣意的な判断をするのは、税の仕組みが複雑で、「徴税役人が計算しなければ税額が計算できない」という状態になっているからです。そこで、税の仕組みを簡単にして、誰もが簡単に計算できるようにすれば、徴税役人の入りこむ余地はなくなる、というわけです。

この提言も、非常に理にかなったものであり、世界中の国家が「税の理想モデル」としています。

今の日本でも税務署員の不正対策は大きな課題

徴税役人の不正対策は、現在でも、世界各国の政府の重要なテーマです。

たとえば、今の日本でもそうです。

役人が賄賂をもらって税金を負ける、などというのは、時代劇のなかだけの話だと思っている人も多いでしょう。また、日本の役人は真面目なので、不正などはしないと思っている人も多いかもしれません。

ところが、今の日本の徴税役人も、不正をしていないわけではないのです。一部の徴税役人は納税者から賄賂をもらい、納税額を負けたり、特定の納税者には税務調査を行わないなどの不正を働いているのです。

他の国よりは少ないけれども、不正事件は今でも時々起きています。日本でも徴税役人の不正は、決して過去のものではありません。

日本の税務当局では、税務署員がその地域に根付かないように、頻繁に転勤を行っています。地域に知り合いができてしまうと、収賄などの不正が起こりやすくなるからです。だから税務署員は、3~5年ごとに転勤があるのです。

徴税役人の不正をなくすことがいかに難しいか、ということです。

贅沢品税はもっとも理に適った税金である

生活必需品への課税は、あらゆる階層へダメージを与える。しかし、贅沢品への課税は経済社会への害はほとんどない。 国富論第5篇第2章

消費税(間接税)の基本的な思想

税金には、直接税と間接税があります。

直接税というのは、収入や財産に対して直接課される税金です。間接税というのは、物の値段のなかに税金が含まれていて、物を買うときなどに間接的に支払う税金のことです。

直接税は、納税者から直接税金を取ることになるので、納税者の反発が大きいけれど、間接税の場合、納税者は買い物をするときに間接的に税金を払っているので、あまり反発がありません。そのため、古代から間接税は国家の重要な財源とされてきました。たとえば塩の売買に税金をかけることなどは、古代から様々な国や地域で行われていました。

この間接税は、比較的、取りやすい税金であるため、為政者としては多用しがちでもあります。特に国民の誰もが購入する生活必需品に課税すれば、莫大な税収を取りっぱぐれることなく徴収できます。

しかし、生活必需品に課税すると庶民の生活を圧迫するという弊害が生じます。そのことをアダム・スミスは指摘しているのです。

アダム・スミスは、生活必需品に課税すると労働者の賃金が上昇するが、物価が上がるので労働者の生活はよくならない、と述べています。当時は、労働者の賃金は生活するのに必要な額を逆算して決められるとされていたので、アダム・スミスもそう解釈しているのです(経営者は、労働者の生活が維持できるくらいの賃金は支払うはず、というモラルが当時はまだ信じられていたのです。今の日本では消費税が増税されても、それに伴い賃金を上げようという経営者はほとんどいません。アダム・スミスの経済論は最低限のモラルを前提として書かれているのです。現代の経済社会のようなモラルが壊れ尽くした弱肉強食の経済は想定されていません。余談までに)。

だから、アダム・スミスは贅沢品に課税すべきだと述べています。贅沢品に課税しても、物価全体にはほとんど影響がないし、庶民の生活にもダメージはない。贅沢品は、価格が上がったとしても、買わないという選択肢があるからです。生活必需品には買わないという選択肢はありませんので、誰でもほぼ強制的に支払わされることになります。

日本の消費税は愚かの極致

ヨーロッパの間接税というのは、アダム・スミスのこの提言を組み入れているのか、贅沢品には高い税率が課せられ、生活必需品は税率が低くなっていたり、免税になったりしています。

しかし、日本の消費税は、どんな品目も原則として一律8%が取られます(平成年現在)。消費税をめぐっては、これまで幾度も生活必需品を低率にするべしという議論がなされ、政権政党もそれを公約としておきながら、未だに果たされていません。

間接税は、生活必需品には低く(もしくは免税とし)、贅沢品に高く――というのは、世界的に常識とされています。日本の消費税のように、ダイヤモンドにも米にも同じ税率がかかるような乱暴な間接税は、世界的に見ても珍しいのです。

こういう愚かな間接税は、アダム・スミスが指摘する通り、国民生活にダメージを与えます。日本経済は、失われた年と呼ばれる長い低迷期が続いています。アベノミクス等で、名目の上での景気はよくなったことになっていますが、国民生活はまったく改善されず、終わりのない閉塞感が漂っています。

あまり顧みられることはありませんが、日本がこの長い低迷期に入ったのは、消費税が導入された直後のことなのです。「失われた年は消費税が引き起こした」とまでいえる根拠は持っていませんが、少なくとも消費税が日本経済によからぬ影響を与え続けたことは、間違いないといえるはずです。

家賃税を、きちんとかけよ

家賃税をかけても家賃が上がることはない。また家賃税は、金持ちが多くを負担することになるので、不公平ではない。 国富論第5篇第2章

なぜ家賃税が公平なのか

国富論では、導入すべき公平な税として「家賃税」が挙げられています。これは、家賃収入に対して一定の割合で課される税金のことです。

この家賃税については、「家賃税を上げると家賃が上がる」という批判がありました。しかし、アダム・スミスは「家賃が上がることはない」としています。

「家賃税を課せば、人々は家賃の安い部屋に住もうとする。不動産業者は、今までの家賃ではやっていけなくなるので、自分の利潤を削って、家賃を下げる。また不動産業者のなかには廃業する者も出てくる。その結果、全体の家賃の引き下げが行われる。長い目で見れば、家賃は上がることはない」

というのです。

そしてアダム・スミスは、「家賃税は金持ちの負担が多くなるが、それは社会的に不公平ではないこと」とも述べています。

家賃税を導入すると、なぜ金持ちの負担が大きくなるのかと疑問に思われた方もいるかもしれませんが、その理由を説明するには、イギリスの国情を押さえる必要があります。

まず当時のイギリスでは、金持ちも借家に住んでいることが多かったようです。イギリスでは伝統的に都心部の多くの土地を一部の貴族などが所有していたのです。

国富論発刊から100年後の1872年の時点でも、イングランドとウェールズでは、国土の約7割をわずか1万数千世帯が所有していたのです。イギリスの土地所有は、相続税が創設される1949年まで、そのような状態だったようです。

相当な金持ちでも広い家に住もうと思えば、借家に住むしかなかったのです。

「金持ちという人種は、見栄を張りたがるもの。その最たるものが豪邸である。金持ちは豪邸に住みたがるので、必然的に家賃税の支払いが大きくなる」

そのために、金持ちの負担が大きくなるということなのです。

日本の固定資産税は先進国の中では低い

実は、今の日本の不動産に関する税は、国富論の提言の逆をいくようなことになっています。

当時のイギリスと今の日本とでは単純な比較はできませんが、住宅にかかる税金という点では、家賃税と固定資産税はほぼ同じ性質があるといえます。そして、現在の日本の固定資産税は、国富論とは真っ向から反対するような理屈で用いられているのです。

日本の建物の固定資産税は、住宅に関しては通常の6分の1でいいという割引制度があります。これは、貸家や貸マンション、アパートにも適用されています。なぜ貸家や貸マンションなどにも適用されているかというと、「もし固定資産税を普通に課せば、それは家賃に反映されてしまう」という理屈からです。

しかしアダム・スミスの論によれば、固定資産税を課しても、それは建物の所有者の利潤が減るだけで、家賃には反映されないはずなのです。

実際、日本でも戦後の一時期、固定資産税を非常に高くしていた時期がありました。そのときは不動産業者の多くが廃業しました。また、貸家による儲けが減ったため、家の価格が非常に下がり、持ち家率が上昇したのです。つまり、それなりの固定資産税を課すことは、家賃を上げることにはならず、貧富の差を解消する方向に向かうということが過去のデータからもわかっているのです。 それにもかかわらず、現在の日本の住宅の固定資産税には大きな割引制度が設けられ、先進国の中では非常に低い部類となっています。

ここでも、日本の税制は「アダム・スミスの教え」を生かしていないのです。

大村大次郎(おおむらおおじろう)
大阪府出身。国税局で10年間、主に法人税担当調査官として勤務し、退職後、経営コンサルタント、フリーライターとなる。執筆、ラジオ出演、テレビ番組の監修など幅広く活躍中。一方、学生のころよりお金や経済の歴史を研究し、別ペンネームで30冊を越える著作を発表している。「大村大次郎」の名前での歴史関連書は『お金の流れでわかる世界の歴史』で初めて刊行、その後「お金の流れでわかる歴史」シリーズを展開。