アダム・スミスの「国富論」では、教育と仕事についても語られています。国民の教育がなぜ必要なのか。教育によって仕事のしかたはどう変わるのか。教育について、経済の観点から考えます。

(本記事は、大村大次郎氏の著書『超訳「国富論」―――経済学の原点を2時間で理解する』=KADOKAWA、2018年1月18日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

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国富論
(画像=Webサイトより ※クリックするとAmazonに飛びます)

国の富は「優秀な国民がどれだけいるか」にかかっている

国の生産性を上げるには、国民が仕事においてどれだけの技能や判断力を持っているか、優秀な国民の割合がどれだけ高いかにかかっていると思われる。各国の気候や風土よりも、国民性のほうが重要な要素だろう。 国富論序文

国民の質を上げること

アダム・スミスは、生産性を上げることが国を豊かにする鍵だとし、生産性を上げるためには、国民の質を高めるのが最大の要素となると述べています。

「国民の質を高める」

というと語弊があるかもしれませんが、要は「優秀な国民を育てる」ということです。

あまり知られていませんが、国富論は、「いかに優秀な国民を育てるか」ということがサブテーマであるともいえるほど、重視して書かれているのです。

確かに、国が豊かになるためには、国民が優秀であることが不可欠です。資源が豊富だったり、土地が肥沃だったりすれば、国は豊かになるというイメージがありますが、それだけで豊かになった国は、あまりありません。古今東西、豊かな国というのは、国民の教育レベル、文化レベルが高いものです。

アダム・スミスは、つまり、「一番大事なのは、国土が豊かかどうかではなく、国民が優秀かどうかだ」と言っているわけです。

そして、アダム・スミスは、国富論の中で、教育の重要性を繰り返し述べています。

大英帝国が繁栄したのも、イギリスが他の国に比べて教育制度が充実していたことが大きいと思われます。

また、日本が明治維新以降に急成長したのも、教育制度を整えたからだといえます。

日本は明治維新前は、大して肥沃でもない土地に、国民の8割以上が農業に従事する貧相な農業国家に過ぎませんでした。しかし、明治新政府は、わずか数年で義務教育の制度を整え、明治中期には子どもの大半が教育を受けることができました。

日露戦争当時では、日本はロシアよりもはるかに識字率が高かったのです。明治日本は、欧米でもあまりないほどの教育制度が整った国だったのです。日本は、アジア諸国で唯一、欧米の侵攻を受けなかったといわれていますが、その最大の要因は、教育システムを素早く整えたことにあるのではないか、と筆者は思います。

教育を大事にしなくなった現代日本

明治日本は教育を非常に大事にすることで急激な経済発展を遂げたわけですが、現代の日本は決してその伝統を受け継いではいません。

現代日本では、少子化で子どもが少なくなったというのに、その少ないはずの子どもにさえまともに教育を施せていないのです。

今の日本の大学生の約半数は、利子がつく奨学金をもらっています。これは奨学金とは名ばかりで、要は借金です。つまり、今の大学生の約半分は、借金をしないと学業を続けられない状態にあるのです。

なぜこういうことになっているのかというと、不況続きで親たちの経済的余裕がないところに、大学の授業料の大幅な値上げが行われたからなのです。

国立大学の授業料は、昭和50年には年間3万6000円でしたが、平成元年には33万9600円となり、平成17年からは53万5800円にまで高騰しているのです。40年の間に、なんと15倍に膨れ上がったのです。物価は2倍程度しか上がっていないので、かなり大きな負担増です。

しかも、日本では奨学金がまったく充実していません。

だから、大学生の大半は、社会に出るときに莫大な借金を背負うということになっているのです。また、お金がないために進学をあきらめた子どもたちも大勢いると思われます。

これを見たとき、日本の国富はこの先、減じていく一方ではないか、と誰もが危惧を覚えるはずです。日本の財政や教育システムは、早急に根本から見直さなくてはならないと思われます。

国は庶民の教育にこそ力を入れるべき

国富論
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富裕層は、子弟のために喜んで教育費を出す。しかし、庶民はなかなかそれができない。いかにして庶民に教育を施すかが、国を豊かにするための鍵である。 国富論第5篇第1章

庶民は自発的には教育を受けない

国富論では「国を豊かにするには教育が必要」と述べられています。そしてその後には、「国民に教育を施すためには、政府が庶民の教育に対して手を差し伸べなければならない」と続くのです。

富裕層は、自分の子どもが良い職に就いたり、家の事業を引き継いだりするためには、教育が重要だということを知っていますし、教育のためにお金を惜しみません。それは、古今東西の社会で同様のようです。

ただ、庶民はというと、なかなかそれができません。教育の重要性はわかっていても、そのための費用を出せなかったり、教育の機会そのものがなかったりします。また、そもそも教育の重要性などまったく認識せず、子どもが物心ついたときから、働けるだけ働かすという家庭も多かったのです。

だから、庶民に教育を施すには政府が主導しなければならない、とアダム・スミスは提言しているわけです。広く捉えれば、国富論は義務教育を提言しているともいえるでしょう。

学生は教師を自由に選べるようにするべき

大学や教師の値打ちにかかわらず、一定数の学生をカレッジに押し込むのは、教育の質の向上につながらない。学校間や教師間にも、競争がなければならない。 国富論第5篇第1章

大学教授としての大学改革案

アダム・スミスは、大学の教授でもありましたので、国富論の中では、大学や教育機関に対する提言も数多く行っています。

当時のイギリスでは、大学のカレッジなどは、学校側の都合によって学生が振り分けられていたようです。現在よりもはるかに、各大学の学生受入数は少なかったので、学生側の選択の余地は非常に少なかったのです。

そうして人気のないカレッジにも自動的に学生が入ってくるため、大学同士や教師同士には、競争がほとんどなかったのです。

当時のイギリスのカレッジは学寮も兼ねていて、学寮の指導方針や指導者の性質が、教育内容に大きく影響しました。そのため、あまり教育効果のない学校や学寮でも長く存続し、教えるのが下手な教師でも、ずっと教師を続けられる状態になっていました。

また当時のイギリスでは、給費生(授業料などをすべて支給される学生)や、奨学金をもらっている生徒などは、大学や学寮とひも付きにされていました。そのため、一般の学生よりもさらに選択の余地がなかったのです。

アダム・スミス自身、学生のころに、この「カレッジ問題」に悩まされていたようです。アダム・スミスは、スコットランドからの給費留学生としてオックスフォードのベイリオル・カレッジに入りました。というより、スコットランドからの給費留学生は、ベイリオル・カレッジに強制的に入れられていたのです。

そして、当時のベイリオル・カレッジは他のカレッジに比べると教育内容は十分とは言い難いものだったようです。

さすがに現在のイギリスの大学では、当時よりは学生の選択の余地は広がっていますが、教育機関というのは、昔からどこの世界でも競争があまりない場所です。教育機関の質の向上は、世界中の国々の課題になっているといえるでしょう。

日本の学校も同様の問題を抱えている

日本の大学でも、学生は受験のときには選択の機会がありますが、入ってしまった後は、それほど選択の余地はありません。

授業を受けられる学生の数は決まっていますので、人気のある教授の教室に入れなかった学生は、人気のない教授の教室に回されます。また、教授の待遇は、教え方の良し悪しや学生の評判にはほとんど左右されません。

これが公立の小中学校となると、さらにひどい状況になっています。

居住地域によって自動的に生徒が振り分けられるため、各学校は生徒を集めるための努力はしません。より質の高い教育をし、魅力的な学校をつくるような工夫もしなくていいのです。

そのため、公立の小中学校では、学級崩壊が起きたりなどの諸問題が頻発しています。

また教師も、一度、採用されれば、よほどのことがない限りクビにはなりません。どんなに生徒に人気のない教師、教え方の下手な教師であっても、彼らの指導力を向上させたとうたり、反対に淘汰するような仕組みはないのです。

この点は、最近ときどき問題視されるようにもなりました。公立の小中学校でも、越境入学などを認め、生徒から選別される機会をつくるべきだ、という主張も聞かれるようになりました。

しかし、この問題は、実はアダム・スミスの時代から解決されずに続いてきたものなのです。そして、彼が提示した解決策に対し、ようやく世界が目を向け始めているのです。

教育を受けていなければ単純な仕事しかできない

経済の分業が発達すると、下層にいる人々は単純な労働しかしなくなる。そのため、彼らは理解力や創造力を失い、他の仕事ができなくなってしまい、社会の流れに柔軟な適応ができなくなる。それを予防するために、国は彼らに十分な教育を受けさせるべきである。 国富論第5篇第1章

社会が発展すると仕事は多様化する

アダム・スミスは、国を豊かにする鍵は「高度な分業」だと述べました。

ただ、この「高度な分業」を確立するためには、国民一人ひとりが、ただ単純な分業に就いていればいいというわけではありません。

経済や産業というのは、日々変わっていくものです。だから、求められる分業、求められる仕事の内容は、時と共に変化していきます。急に別の仕事をさせられたり、今までの仕事がなくなって他の仕事を求めなくてはならなくなったりするケースも時々あります。

十分な教育を受けていなければ、そういう仕事の変化に対応できません。それが失業問題を悪化させたり、産業の停滞を招いたりするのです。

たとえば、日本では昭和30年代、40年代にかけて炭坑の閉山が相次ぎました。このとき炭坑夫の多くは失業しました。そして、失業した炭坑夫の多くは、新たに職を求めることができませんでした。

多くの人は旧炭鉱地から離れることができず、生活保護を受けたり、失業対策事業の仕事を細々と行ったりしていたのです。そんな状態なので、荒れた生活を送る人が増えてしまい、地域によっては治安が悪化したところもあったようです。

これは、もちろん政策的な問題でもありました。炭坑が閉山した後も、彼らがスムーズに第二の人生を送れるような配慮を、国や自治体は行うべきでした。

一方で、彼らがもし他の仕事ができるような十分な教育を受け、炭坑以外でも働けるスキルを持っていれば、彼らは自力で新しい職に就けたはずなのです。

つまりは、旧炭鉱地の失業問題は、実は国の教育問題でもあったといえるのです。

科学が発展するとき、少なからず職を失う人が出てきます。そのときに、余剰となった労働力がスムーズに他の分野に移動できれば、経済は発展します。

しかし、余剰となった労働力がそのまま失業者となってしまえば、科学の発展は、その国の経済の発展につながらないことになるのです。

誰もが様々な仕事に対応できるスキルを

そして、この問題は、決して過去の問題ではありません。

今でも、「今やっている仕事しかできない」という人は大勢いると思われます。今の会社がつぶれたり今の業種の仕事がなくなったら、やっていけないという人は、かなりいるはずです。

それが産業間のスムーズな人口移動を妨げ、失業率を押し上げたり、果ては自殺に結びついたりもします。とくに、単純労働の分野でそれが多いようです。

アダム・スミスの提言は、現代社会にこそ重い意味を持っています。

現代の仕事は、国富論の時代に比べてはるかに多様化し、複雑化しています。しかも単純労働はどんどん自動化され、人の手から離れていっています。

たとえば、そう遠くない未来に自動車輸送業務の大半は、人の手を離れるかもしれません。そうなると、現在トラックやタクシーのドライバーをしている大勢の人々は、職を失うことになります。そのとき、彼らが新しい仕事にスムーズに就けるかどうかが、経済産業に大きく影響するはずです。

もし、彼らの多くが失業者となれば、「自動車運送業務の自動化」は、社会に何の恩恵ももたらさないことになります。つまり、アダム・スミスが言うところの「分業」が成り立たないわけです。

しかし、彼らが別の分野で仕事をし、社会に新しい付加価値をもたらせば、「自動車運送業務の自動化」が社会経済の発展に直接寄与することができるのです。

「役に立たない科目」は省け

普通の庶民の子どもには、どう転んでもラテン語の授業などは将来、役には立たない。ラテン語などではなく、様々な仕事に役立つ幾何学か機械学を教えるべきである。 国富論第5篇第1章

「ラテン語」が庶民を教育から遠ざけている

アダム・スミスは「幾何学や機械学の応用を必要としない仕事などはないし、高尚な学問に進む場合も入門として必ず必要である」と述べています。彼がここで言っている幾何学や機械学というのは、高等教育においての「幾何学、機械学」ではなく、「算数、科学」というレベルのものだと思われます。

当時のイギリスの学校では、ラテン語の授業なども一般的に行われていたようです。ヨーロッパの学校というのは、最初は教会が牧師や教会関係者を育成するためにつくったものです。そして、この教会の学校では、ラテン語が使われていました。

学校が教会の手から離れ、普通の子弟の教育が施されるようになってからも、ラテン語教育という伝統は受け継がれたのです。そのため、イギリスの学校では、誰も使っていないラテン語の教育が続けられてきたのです。

「ラテン語などではなく~」というアダム・スミスの考えは、確かにその通りだと思われます。ヨーロッパの古い言語を学ばせるために、わざわざお金を出して学校に行かせる庶民はあまりいなかったはずです。またラテン語の授業は、子どもたちにとっても、一番苦痛な授業だったようです。

教育の現場では、意味のない科目が伝統的に残されてしまっている、というケースはよくあります。庶民の子どもたちが、なかなか学校に通おうとしないのは、この教育カリキュラムにも原因があるのではないか、とアダム・スミスは考察しているのです。

日本の教育現場でも同様の弊害が

「教育というのは形骸化しがちだ」というのは、ヨーロッパに限らず、いろいろな国、地域で同様のことが起こっているようです。

日本でも、同様の弊害は見られます。

たとえば、日本では中学校以上では、古文や漢文の授業が行われます。この古文と漢文は、言ってしまえば、実生活ではほとんど役に立たないものです。

漢文というのは、昔の人が中国語の文書を読みやすくするための便法に過ぎません。今、漢文を勉強したところで、中国語がわかるようになるわけではないのです。日本で暮らしている人のほとんどは感じているはずですが、漢文が社会に出て役に立つことはほとんどありません。にもかかわらず、漢文は、義務教育の中で必修となっていますし、高校受験の試験内容に含まれています。

古文も同様です。古文は、昔の人の書いた文章であり、実生活の中でそういう文章に接する機会はほとんどありません。

明治初期、日本で学校制度が始まったころ、学校の多くは江戸時代の寺子屋の施設を使っていました。そして近代教育を受けた教師が充足される前は、江戸時代の寺子屋の師範などが、そのまま授業を行ったりしていました。漢文や古文の授業というのは、その寺子屋で行われていたものなのです。

近代的な学校制度が整えられてからも、その寺子屋の伝統が受け継がれ、漢文や古文が、必須授業となってしまったのです。

漢文も古文も、今の日本社会の中では、「教養」か「趣味」に属するものだといえます。漢文や古文を知っていれば、教養は深まるかもしれませんが、義務的にやっておかなければならない学問ではないはずです。それを義務教育の段階から教えて、しかもそれが高校入試の受験科目になっているというのは、「教育の形骸化」の見本のようなものだといえるでしょう。また漢文や古文の授業は、やはりほとんどの子どもたちにとって苦痛を感じる時間でもあるでしょう。

こうした意味のない伝統の継承が、教育を非効率なものにしてしまう、そういうことを国富論は述べているわけです。

大村大次郎(おおむらおおじろう)
大阪府出身。国税局で10年間、主に法人税担当調査官として勤務し、退職後、経営コンサルタント、フリーライターとなる。執筆、ラジオ出演、テレビ番組の監修など幅広く活躍中。一方、学生のころよりお金や経済の歴史を研究し、別ペンネームで30冊を越える著作を発表している。「大村大次郎」の名前での歴史関連書は『お金の流れでわかる世界の歴史』で初めて刊行、その後「お金の流れでわかる歴史」シリーズを展開。