「父の会社を継ぐつもりは、まったくなかった」

喜多方ラーメン坂内,中原誠
(画像=THE21オンライン)

――ここで中原社長ご自身のことを聞きたいと思います。創業者の長男ですが、大学卒業後は〔株〕第一勧業銀行(現・〔株〕みずほ銀行)に入行していますね。

中原 その頃はアジアンレストランを考えていたのですが、自分で飲食業をやりたいと思っていました。父の会社を継ぐことは、まったく考えていませんでしたね。外食企業でノウハウを学ぶ前に、世の中の色々な社長を見ておきたいと思って、まずは銀行に入ったのです。

配属は渋谷支店でした。当時の渋谷は「ビットバレー」と呼ばれていて、IT企業がどんどん生まれる活気のある街でした。『牛角』のフランチャイズ1号店が開店するなど、外食産業の新しい流れも来ていました。外回りをしながら有益な情報収集ができる支店に配属されたのは、運が良かったですね。

銀行員を経験したことで資金調達の仕方もよくわかるようになり、それも今の経営に活きています。

同時に、バブル崩壊後の不良債権の回収にも奔走し、ビジネスの厳しさも痛感しました。しかも、第一勧業銀行が不正融資事件を起こしたことで、街宣車が来るからと社員寮から社名の入ったプレートが外されたり、行員も社章のバッジを外したりと、肩身が狭い思いもしました。

――その後、〔株〕ベンチャー・リンク(現・〔株〕C&I Holdings)に転職しています。

中原 外食で店舗数を増やすならフランチャイズだと思い、その方法を学ぶために、『サンマルク』や『牛角』などを手がけていたベンチャー・リンクに入社しました。

ただ、ベンチャー・リンクはフランチャイズ展開をする企業を支援するだけで、外食の現場を経験できる企業ではありませんでしたから、フランチャイズの仕組みがわかったらすぐに〔株〕グローバルダイニングに移りました。外食企業の中でも、最も厳しかったからです。 求人募集は出ていなかったのですが、直接メールを送ると新川義弘さん(現・〔株〕HUGE社長)にお会いすることができ、入れてもらえました。

――麺食に入社することを考えたのは、いつですか?

中原 グローバルダイニングで『モンスーンカフェ』に配属され、お台場の店舗で店長を務めていたとき、麺食の幹部社員たちが食事をしに来たんです。麺食の創業メンバーは父を含めて3人いるのですが、父以外の2人が辞めてしまい、業績が下向いていた時期です。その場で「そろそろ戻ってこないか」という話になって、「とうとうこの時が来たか」と思いました。

実は、それより前に父が頼りなく見えたことがあって、そのことも思い出しました。銀行に入って初任給をもらったときに、父のことは大嫌いだったのですが(笑)、さすがにプレゼントを買って、ゴールデンウィークに実家に帰りました。そこで、母が末期がんで余命3カ月だということを知りました。その後の母の葬儀のときの父が本当に頼りなくて、「支えていた母がいなくなったのだから、これからは長男である自分が支えないといけないのかな」とは思っていたんです。

――入社してみて、当時の麺食はどうでしたか?

中原 創業者が言うことが通っていたので、社員が積極的に発言し、行動する環境ではありませんでした。そこで、合宿をしたり、月に1回の店長会議を始めたりして社内で情報を共有し、社員が自分たちで考え、納得して行動するようにしました。

フランチャイズ加盟店のオーナー会もなかったので、2010年から年1回、開催することにしました。それまで、オーナーの方々は不満を溜め込むしかなかったので、第1回のときはそれが一気に吐き出されて、大荒れに荒れましたね。これは第2回も大変だろうと身構えていたのですが、それ以降は穏やかです。先輩オーナーに相談をしたりと、オーナーの方同士のつながりもできました。オーナーの方に、新たにフランチャイズに加盟したいという方を紹介していただくこともあります。