不用品を捨てない時代が来ている
1902年創業の産業廃棄物処理会社・東港金属〔株〕の業績を大きく伸ばした福田隆氏は、昨年、トライシクル〔株〕を設立し、新たな事業に挑戦している。それは、オフィスや店舗、倉庫などから出る不用品を、産業廃棄物として処理するのではなく、アプリ上で売買するというもの。東港金属をいかに再建したのか、なぜ新事業を始めたのか、話を聞いた。
入社半年、28歳の新社長が会社を変えた
――福田CEOは、家業である東港金属の社長に、2002年に就任しています。
福田 大学を卒業してからは、メーカーに入社して営業を担当していました。成果を上げることができたので、4年ほど経つと、実力を試したくなって、外資系コンピュータ会社に転職しました。それから1年ほど経ったときに、東港金属の前社長である父から、「いつ戻ってくるんだ。戻ってこないと先が見えないから、設備投資もできない」と言われたんです。それで、それまで考えたこともなかった家業を継ぐということを意識するようになり、2002年2月に東港金属に入社しました。
普通の一般社員として入社して、現場作業なども経験したあと、7月から営業を担当することになりました。それまでも営業担当者はいたのですが、他社で営業を経験した私から見ると「待ちの営業」でしたね。東港金属は大田区京浜島に本社工場を持っています。東京23区内の工業専用地域という恵まれた立地なのに、営業がこれではもったいないと感じました。
それからわずか2カ月後の9月に父が急逝して、他に適任者がいなかったので、私が28歳で社長に就任することになりました。父が亡くなった直後は葬儀などで慌ただしくしていて、それがひと段落した10月頭に9月の月次決算が出たのですが、見ると1,000万円もの赤字が出ていました。
――そこから、どうやって会社を立て直したのでしょうか?
福田 営業を担当するようになったときから引き続いて、営業を強化しました。
当時はまだ今ほどインターネットが普及しておらず、産業廃棄物の処理をどこに頼むのがいいのか、情報があまり出回っていなかったんです。ですから、工事会社や倉庫会社、産業廃棄物の回収だけをする会社などには、取引きをする処理業者を変えるという発想がありませんでした。そこで、当社以外の処理業者と取引きをしているそれらの会社を回って、当社に任せていただくように営業をしました。
その際には、外資系企業で合理的な営業手法を経験していたことが役立ちました。例えば、TCO(トータルコストオーナーシップ)分析という手法があります。コンピュータ会社で言えば、「システムを導入するイニシャルコストは他社よりも高いですが、その後の運用コストが安いので、トータルのコストは当社のほうが安くなります」という提案をすることです。東港金属の場合は、「資源ゴミの分類の仕方を効率化してコストを下げているので、単純な単価は他社よりも高いかもしれませんが、トータルでは安くなります」というようなことです。
また、私が社長になってから、工場を24時間、正月三が日を除く1年362日、稼働させることにしました。店舗から出る廃棄物は営業時間外にしか捨てられないので、お客様に喜んでいただいています。こうしたサービス面の強化も行ないました。
――2007年には千葉県富津市に敷地面積1万2,600坪のリサイクル工場を開設しています。
福田 売上高が社長就任時の約6倍になって、処理する廃棄物の量も増え、質も多様化したので、京浜島の本社工場だけでは対応できなくなったのです。新しい工場の建設地を東京近郊で探して、2005年頃から千葉県企業庁(2015年度末に清算)と話をしていました。建設に当たっては、銀行4行から20億円の借入れを行ないました。千葉工場の稼働率はほぼ100%になっています。
産業廃棄物の量は、この20年間ほど、横ばいなんです。ですから、事業をさらに拡大するためには、量を追うだけでなく、質も高めなければなりません。つまり、再生資源の回収率を上げるということです。そのための新しい機械も導入しました。
――入社からわずか半年、28歳で就任した社長が会社を変えるのは、大変だったのではないでしょうか?
福田 それまで頑張ってくれていた社員が会社の変化に対応できなくなったりして、雰囲気が悪くなった時期はありました。成長痛のようなもので、避けられないことだと思います。
今はその次の段階に進んで、会社の向かう方向がはっきりと見えていますから、社員は安心感を持っているのではないでしょうか。