「生きづらさ」を考える

ここで改めて、「生きづらさ」について考えたい。わたしはこの本の前書きで、れいわ現象の正体は世の中に漂う「生きづらさ」である、と書いた。ここまで読み進めてくれた皆さんは、わたしの言葉にうなずいてくれることだろう。

現代社会を山にたとえるならば、一見静かにそびえ立つ山の内部には、人びとの怒りのマグマがたぎっている。マグマの原因は貧困だけでなく、マイノリティー(少数者)への差別や偏見、人びとの自由を奪おうとする権力の暴走、などだった。人びとの怒りのマグマが臨界点に達したタイミングを見計らい、山本氏が山の頂上でマッチをすって火をつけた。わたしはそう考えている。

その火が燃え上がる際には、山本氏と共に立候補した9人の力も大きかっただろう。9人の顔ぶれをみて、まず言われるのはさまざまな問題の「当事者」だという点だ。だが、それだけでは言い足りない。わたしからすれば、彼ら彼女らは単なる「当事者」ではなく、「抵抗者」である。社会や身の回りの矛盾から目をそらさず、それに立ち向かおうとしている人たちだ。公示日前の数日間、れいわの候補者が続々と発表されるなか、ツイッター上では「なんかおもしろくなってきた」「こんなにワクワクする選挙は初めて」などという書き込みがあった。こうした書き込みをした人びとは、わたしと同じく9人の候補者たちの中に「抵抗者」の姿を見いだしたのではないだろうか。いま抱えている生きづらさに「ノー」を突きつけていいのだと、鼓舞されたのではないだろうか。

「生きづらさ」が社会を変える

わたしは「生きづらさ」を後ろ向きな意味ばかりに捉えてはいない。むしろ、よりよい社会をつくり、一人ひとりが充実した人生を送るためには、積極的に「生きづらさ」を認めていく必要があると思っている。

「生きづらさとは縁がない」と、そっぽを向いてしまう人がいるかもしれない。それなりの給料をもらい、いわれなき差別や偏見にさらされてはいない。不満や悩みはない。そういう人がいるかもしれない。

しかし、本当にそうだろうか。第3章で紹介した森岡正博氏の言葉を思い出してほしい。「生きづらさはない」という生活を維持するために、本当に大切なものを犠牲にしてはいないだろうか。なぜ長時間労働するのだろう?なぜ子どもに受験勉強を強いるのだろう?なぜ田舎に老いた両親を残して都会で働いているのだろう?生きづらさを感じないために、なにかに失敗してみじめな思いをしないために、わたしたちは自分の人生にタガをはめていないだろうか。

「生きづらさと無縁の人生」を「幸せな人生」と置き換えてみてもいいだろう。「わたしは幸せ」と言い切れる人は日本にどのくらいいるか。国際機関の調査によると、経済大国でありながら、日本人の幸福度は高くない。自分の人生にはめたタガをはずし、当たり前を疑ってみる。深刻な生きづらさに直面していないと感じている人びとも、本当の幸福をつかむためには、そのような姿勢が必要になると思う。そういった意味では、この夏巻き起こった「れいわ現象」から無縁な人は、世の中のどこにもいないのではなかろうか。

前書きのくり返しになるが、わたしが本書で書きたかったのは特定の政党や政治家への後押しではない。政治家に「生きててくれよ!」と叫んでもらう必要があるほど、いまの世の中は生きづらくなっている、ということだ。この状況は改善されなければならない。その意味では、れいわ現象は今後も続かねばならない。火山のさらなる爆発を促し、その爆発力で、生きづらい世の中を変えていかなければならない。

山本太郎氏への疑問

ただし、書いておきたいのは、火付け役は山本太郎氏だったとしても、この先ずっと先頭に立つのが彼とは限らない、ということだ。山本氏とれいわ新選組がどのように発展するか、現時点で見通すことはできない。たしかにわたしは、山本氏の演説に心を動かされた。自信を失っていた人びとを勇気づけた功績はとても大きいと思っている。それを過小評価すべきではない。だが、逆に言えば、今はっきりしている彼の功績は、印象深い演説を行ったことと、多彩な顔ぶれを候補者として選んだことの二つだと解釈している。政治家としては未知数な部分が多い。いい方向にも悪い方向にも行く可能性がある。

期待は多々ある。ここでは、あえて心配な部分を書こう。山本氏は演説の中で、政府や既存の政治家、富裕層、大企業、マスメディアなどを厳しく批判する。批判の方向性は正しい。生きづらい人びとに「抵抗」を促すためには必要な行為でもある。しかし、批判の度が過ぎてしまう心配はないだろうか。

たとえば、参院選後の街頭演説ではこんな場面があった。

生活保護制度について話す場面で、山本氏は、自民党・参院議員の片山さつき氏らが生保受給を不名誉なことだと感じさせる空気を作りだした、と指摘。

「ろくでもない」と厳しく批判した。そして、聴衆に対して「言ってみますか、みんなで」などと誘い、聴衆と山本氏とで「片山さつき、ろくでもない」と何回か唱和した。

たしかに、生活保護についての片山氏の発言は厳しい批判に値する。名指しで批判するのはいい。だが、街頭演説で聴衆に「ろくでもない」と連呼させる行為は必要だろうか。特定の個人への憎悪をあおるのではなく、その個人を取り巻くシステム全体の問題点を突く。そうした姿勢を保ち続けられるかが、山本氏の現状の課題のように思う。

山本氏を妄信せず、必要があれば議論によって軌道修正を求め、場合によっては見限るのも、支持者たちに課された仕事だろう。れいわ現象をきっかけに「生きづらさ」への認識を深めた人びとが、その視点でもう一度各党の政策や政治家の言動を詳細に見比べ、次の選挙で誰に入れるかを決めればいいと思う。

「れいわ現象」のこれから

れいわ現象のエッセンスは何か。わたしは、〝生きづらさを抱える人が現状に「ノー」を突きつけること〞だと考えている。だとすれば、わたしが考える「れいわ現象」は政治の世界に限定されないはずだ。職場で、学校で、家族の中で、矛盾を感じた人は声を上げていい。いろいろな社会問題に対して、人びとは「ノー」の声を上げ、街頭にくり出していい。広い意味での「れいわ現象」が雨後の筍のようにわき上がるとき、世の中はいい方向に変わる。政治も変わるだろう。

れいわ現象の真の主役は、「生きづらさ」を感じるすべての人びとである。

「れいわ現象」の正体
牧内 昇平
1981年3月13日生まれ。朝日新聞記者。2006年東京大学教育学部卒業。同年に朝日新聞に入社。経済部記者として電機・IT業界、財務省の担当を経て、労働問題の取材チームに加わる。主な取材分野は、過労・パワハラ・働く者のメンタルヘルス(心の健康)問題。共著に『ルポ 税金地獄』(文春新書)がある。過労死問題については、遺族や企業に取材を重ね、過労自死をテーマにした「追い詰められて」などの特集記事を数多く執筆し、それらを元に2019年3月に『過労死』(ポプラ社)を上梓。過労死の凄まじい実態をあぶりだしたとして話題になる。

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