(本記事は、生島 あゆみ氏の著書『一流と日本庭園』CCCメディアハウスの中から一部を抜粋・編集しています)

枯池
(画像=PIXTA)

宮本武蔵と本松寺庭園

宮本武蔵(1584年〜1645年)
本松寺(ほんしょうじ)庭園【明石】

剣豪・宮本武蔵も作庭していた。
禅と剣の修行を重ねた上での、武蔵がたどりついた庭園とはどのようなものだったか。
枯池式枯山水の庭に込めた武蔵のこだわりとは。

宮本武蔵

宮本武蔵というと、佐々木小次郎との巌流島の決闘、そして京都一乗寺下り松での吉岡一門との決闘が有名です。ただ、彼の一生を見てみると、命を賭けての戦いは若い一時期のことであり、以降は建設的な人生の歩みを重ねています。

彼は、安土桃山時代から、徳川家康・秀忠の時代を生き抜き、関ヶ原、大坂夏の陣、島原の乱など、大きな合戦にもたびたび参戦したそうです。そして、死の直前には、兵法の道を書いた『五輪書』を纏めて、その道理を説いています。水墨画にも素晴らしい才能を持っていた武蔵。明石滞在中に、明石城建設時の町割りを担当し、いくつか枯山水の庭も造っています。彼が残した足跡について、辿っていきましょう。

武蔵壮年期

武蔵の出生は、1584年というのが通説ですが、若干の誤差があるかもしれません。出生地は、『五輪書』では「生国播磨の武士」となっています。美作(みまさか)説もあります。一節によると「田原家貞の次男」だったそうです。義父は、新免無二斎という十手二刀の剣術家でありました。幼少期は美作に住んでいました。

武蔵は9歳で家を出たと言われています。13歳で初めて勝負して、28、29歳までに60余りの勝負を挑み、全て勝ちました。これが武蔵の武勇伝となり、日本国中に広がることとなりました。

21歳のとき都に出て、父親とも因縁の関係にあった吉岡一門と戦います。まずは、清十郎を一撃で倒し、その弟・伝七郎も、伝七郎持参の五尺余りの木刀を奪い、一撃で絶命させました。どちらも、刻限後に来て、イライラさせてからの勝利でした。三度目は、一乗寺下り松にて少年だった清十郎の息子・又七郎を大将とした吉岡一門多数との決戦でしたが、今回は意表を突き一同が到着する前に、決闘の場に忍び入ったのです。突然名乗って、清十郎を殺し、一門の多数相手に一人で戦い、山に入って姿を消したそうです。真偽のほどはわかりませんが、今や武蔵を語る上で欠かせない、吉岡一門との一乗寺下り松での決戦です。その後、武蔵は「兵法天下一」の自負を持って自らの術理を書き、「円明(えんめい)流」としました。ちなみに、円明とは、月の名所でもある明石の月から来ているそうです。

巌流島

1612年武蔵29歳のとき、船島(巌流島)で、佐々木小次郎と勝負する「巌流島の決闘」は、あまりにも有名ですよね。武蔵は、父の門人の小倉藩主・細川忠興に、小次郎との試合を申し込みます。遅れて行くのは、吉岡一門との戦いと同様の戦法です。この勝負では武蔵は、小次郎の長い刀を使った技を見越して、長い木刀を作りました。その長さが相手に悟られないように、木刀を肩の上で水平に持ち、小次郎が打ち込んだ間合いを見て、一撃したのです。

小次郎との戦いに勝ち、武蔵は天下一の実力を示しました。江戸時代は平穏な時代に差し掛かり、正面切って勝負に挑むこともなくなりました。 30代以降になると、自分の兵法を違う形で発展させていきます。

立身出世と文武両道

大坂夏の陣では、徳川側として参加しています。三河刈谷藩主・水野勝成の嫡男・勝重の騎馬武者として配され、ボディガードの役割を担っていたそうです。大木刀を持って、橋の上で敵をなぎ倒したと記録にあるそうです。

戦がなくなり太平の世が訪れると、諸大名達は外交(幕閣や他の代名、旗本との交際)を円滑にするために、文武の道を行き、諸芸諸能を身につける傾向へと変化してきました。武蔵は著名な武芸者だと優遇され、大名の「客分」としての処遇を受けるようになりました。本多家、小笠原家の客分として、播磨に滞在することになります。 

また、武蔵は諸芸、特に水墨画に優れていました。誰かに師事したというより、我流で兵法とともに鍛錬したようです。全て、自分流なのですね。ただ、その筆運びは素晴らしく、線は勢いよく、一点の迷いもなく見事に描かれていると定評がありました。

武蔵の書家としての画風は、長谷川等伯の影響を受けたとも言われています。江戸滞在中は、儒官の林羅山とも交流があり、武蔵の画に羅山が賛を入れた人物画もあります。武蔵の絵は、主に「花鳥画」「道釈(どうしゃく)人物画(達磨や布袋(ほてい)など)」で、彩色なしの墨絵でした。特に「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず) 」は有名で、天に伸びる長い枯枝の上に鵙(もず)が止まっている姿は繊細で美しく、一本筋の通った直線の枯枝は、力強く迷いがありません。下のほうにもう一本短い枯枝が交差しているのは、武蔵特有の「二刀流のバランス感覚」で描かれたからかもしれません。

1617年7月に、「徳川四天王」の一人であった本多忠勝の嫡男・忠政が、池田家に代わり姫路城に入りました。また、その嫡男・忠刻(ただとき)には、大坂城から救い出された将軍・秀忠の娘であり豊臣秀頼の正妻であった千姫が再嫁していました。そして、隣の明石には、家康の孫の子の小笠原忠真(ただざね)が信州松本から入りました。この二つの譜代大名と武蔵は深い関わりを持っていくことになります。

武蔵は二人の男子を息子として養子に迎えています。一人目の養子・三木之助は、本多忠刻の小姓として勤めていました。しかし、忠刻が若くして病死したため、三木之助は追腹を切ったそうです。二人目の養子として、伊織を迎えています。伊織を立派な武士にするべく教育をしましたが、剣は伝えなかったようです。伊織は小姓として、小笠原家に出仕しました。その後、武蔵の援護もあり、島原の乱にも幕府側として参戦し、小笠原藩の家老にまで立身出世するのです。

お金で読み解く日本史
(画像=thebunwangs/Shutterstock.com)

明石での町割りと作庭

1617年11月、信濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真は、明石に城を築きます。明石の築城は大事業でした。このときに、城下の区画を造成する「町割り」を担当したのが武蔵だったと伝えられています。

武蔵が明石にいた頃は、将軍・秀忠の娘和子が後水尾天皇に嫁ぎ、幕府の強力な後援により、王朝文化の復興がなされました。修学院離宮が建設されたのもこの頃です。寛永文化の風潮の中、姫路や明石で客分として迎えられていた武蔵は、本格的に画を描き、そして庭も造るようになったと言われています。

本松寺庭園と圓珠院庭園

魚住孝至著『宮本武蔵』の中で、武蔵の造営に関して次のように記されています。


―明石藩史書『金波斜陽』には、武蔵が「元和八年頃、姫路城下に仮寓し、寺院の造園等に参画す」という記事がある。明石上の丸の本松寺(ほんしょうじ)など三カ所に、武蔵が造営したという伝承がある庭が残されている。『小笠原忠真公小伝』には、明石城内三の丸の細長い曲輪(くるわ)を、「樹木屋敷」と称する庭に造営した時に、「泉水、築山、樹木、花圃(かほ)、茶亭(ちゃてい)、鞠場(まりば)等の結構布置を遊寓の名士宮本武蔵に嘱して担任せしめ」、樹木は三木、明石両郡の山々より選び、石は阿波(あわ)、讃岐(さぬき)、小豆島(しょうどしま)などから運んで、約一年かけて造営したという記事が載せられている。「遊寓の名士」とは、武蔵が「客分」として諸芸に遊ぶ余裕もあった名士だったことを示している。―

武蔵の造った庭というのはどういうものだろうという好奇心から、私も明石に足を運びました。

JR明石駅の周辺には武蔵の造った庭園があったとされる明石城(現明石公園)、雲晴寺(うんせいじ)、本松寺、福聚院(ふくじゅいん)、圓珠院(えんじゅいん)などが点在しています。現在のJRの北側に明石公園があり、位置は変わりましたが平成15年に、明石城内に武蔵が造ったとされていた庭園が復元されています。他に、武蔵が造ったとされる雲晴寺は庭園跡が出土して移築中です。福聚院の庭園は手入れされていません。本松寺と圓珠院の庭園は酷似しています。池泉の形や大滝、小滝があることなどが類似点です。

最初に明石城の東側に当たる本松寺を訪ねました。人丸山(ひとまるやま)の坂を登ると本松寺があります。日蓮宗「法栄山本松寺」が正式名称です。1956年、豊臣秀吉の家臣・藤井与次兵衛勝介が林崎の船上城下に建立し、「本正寺」と呼ばれていました。審理院日甫開祖となっています。1617年、小笠原忠真が信州松本から明石に移ったときに、明石城が築城され、それに伴って町の中心も明石側以東に移ったようです。本松寺は、1691年に現在の地に移転しました。武蔵の頃は何宗だったかはわかっていませんが、庭園の規模が小さく、枯池式枯山水であることなどから、当時の寺院のために武蔵が庭を造ったのではないかと想像されます。

私が本松寺を訪ねたとき、庭園を観たいと言うと、寺の方が中に入れてくれました。庭自体、予想以上に小ぶりなので、びっくりしました。庭園の説明文には、―浅い枯池を穿ち、軽い築山を東西二箇所に築いている。そして谷を渓谷にして枯流れとし、切石橋が架かる。また二つの築山には、それぞれ大小の二つの枯滝を大滝・小滝として組み、大滝には水分石を池中に据えている。池泉は瓢簞型で、降雨の時のみ水が溜まるという枯池である。手前に出島があるが、亀出島である。護岸は池が浅いために一段の護岸石組を組んでいる。石橋は自然石が架かるがもとは櫟の橋であった。全体的に見て、石組は小振りであるが、平面構成を重視し、視点による変化をもたせたまとまりのよい作庭といえる。(庭園研究家、西桂 記)―となっていました。

独特なのは、枯池式枯山水であり、形が瓢簞型であることです。後の章で紹介しますが、大徳寺黄梅院(おうばいいん)に千利休が秀吉のために造った池の形が、瓢簞型でありました。これは、秀吉が瓢簞を好んだからです。時代から考えると、武蔵も黄梅院の庭を観ていたのではないかと思われます。大徳寺内別塔頭(たっちゅう)大仙院にて、沢庵和尚が、21歳の武蔵に禅の極意を教えたという話も残っています。

また、降雨時に水が溜まる枯池式枯山水ですが、これはもともと水を引いて池泉を造る規模の庭ではなかったからだろうと考えられます。石組の石も大きいものではなかったです。前記の「樹木屋敷」には石を運ばせ造築に約一年かかったとされています。本松寺の庭は、樹木屋敷の規模とは比較にならないくらい小さいので、何かの合間に造ったか、縁のあった寺の住職に頼まれて造ったか……とにかく大掛かりなものではなかったと推察されます。

最も特徴的なのは、大滝・小滝です。枯滝の流れを水分石によって二つに分けることはありますが、大滝・小滝としっかり区別している庭は少ないように思います。推測の域を超えませんが、これは武蔵の二刀流の剣を表しているのではないでしょうか。武蔵にとってバランスが良かったのかもしれません。武蔵が描いた水墨画「竹林の図」(東寺観智院客殿の襖絵)でも、二本の竹が勢いよく天を指して、交差しています。

庭の手前には礼拝石がありました。〈書院や離れ座敷を視点にして作庭された〉とも紹介されていましたので、歩きながら観るというよりは、室内から鑑賞するために造られたのでしょう。禅式庭園の基本に忠実な作庭法だと感じられました。作庭家・武蔵の真面目さがうかがえます。

JR明石駅の南側、明石港の西側に位置する圓珠院も観に行きました。本松寺の庭園と類似し、大滝、小滝もありました。枯池式枯山水庭園です。枯池に切石橋が架けられ、東西に小さな築山(つきやま)が築かれています。大小の枯滝を据え水の流れに変化をもたらしています。ここでは、大滝の水分石が鯉魚石的で龍門瀑形式を取っています。池泉は瓢簞型で降雨時のみ水が溜まります。数段の護岸石組が組まれていて、本松寺より少し手が込んでいるようにも思われます。築山に蓬萊山を表す蓬萊石も置かれていて、禅寺枯山水特有の石組が見られます。圓珠院は、1532年〜1555年に善楽寺の律院として定仁師により開基されました。今は天台宗となっています。善楽寺は、明石で最も古い寺(飛鳥時代創建)と言われています。

本松寺も圓珠院も禅宗の寺院ではありませんが、武蔵は最後、熊本の禅宗曹洞宗の雲厳禅寺(うんがんぜんじ)の霊厳洞という洞窟の中で、座禅をしながら『五輪書』を書き上げています。それ以前に、禅の修行をどこで行ったかはわかりませんが、各国を武道行脚しながら、禅宗の寺院や庭園を観る機会はたくさんあったのではないでしょうか。

晩年の武蔵

武蔵は九州に渡り、養子・伊織とともに、島原の乱の鎮静化に努力します。

また、縁深い細川忠興の息子・忠利の誘いで、熊本で過分な待遇付き客分として過ごしますが、忠利の死をきっかけに、60歳のとき、霊厳洞にこもり、兵法の極みと言われている『五輪書』を纏め上げます。五輪とは、「地(二天一流、兵法のあらまし)」、「水(二天一流と実際の剣術)」、「火(一対一も集団対集団も同じ、戦い方の心構え)」、「風(昔、今風、他の流派について)」、「空(兵法の本質)」を表しています。最後の「空の巻」で武蔵は空について次のように語っています。


―空といふ心は、物毎のなき所、しれざる事を空と見たつる也。勿論空はなき也。ある所をしりて、なき所をしる。是(これ)すなわち空也―(『宮本武蔵』魚住孝至著より)

武蔵は出世欲があったと言われていますが、彼は自分が生み出した究極の兵法を万民に広めたかったのではないでしょうか。62歳で死ぬ直前に、『独行道(どっこうどう)』という二十一の短文を箇条書きにし、自誓の書として自筆で残しています。―他に頼ることなく、独立不羈の精神を貫いて生き、兵法の道を極めて「万事におゐて我に師匠なし」(前出『宮本武蔵』より)―まさに、すべて自分で切り開いた兵法哲学を後生に残したいという武蔵の魂の叫びが聞こえてくるようです。

宮本武蔵が庭を造った理由

武蔵が、明石で町割りだけでなく、どうして作庭をしたのかはわかりません。町割りをするために、寺社仏閣を奔走するうちに庭造りまで引き受けたのかもしれません。

しかし、作庭の基本をきっちりと把握し、独特の美意識も持ち、いくつかの庭園を今に残すだけの、才能を持ち備えていたことは確かです。

庭を平面的に見捉えてデザインする手法は、雪舟をはじめとする画家が作庭した場合の特徴です。本松寺や圓珠院の庭からは、遠山石を据えて奥行きを演出するなど、水墨画に造詣の深かった武蔵らしい技巧が感じられます。大滝・小滝は、唯一のアイデンティティ(二刀流)として自己表現したものではないかとも考えられます。

二つの庭園を注意深く観ると、武蔵は町割りという役目のためだけではなく、修行の一貫として水墨画を描くように作庭したのだと推測できます。作庭時には、武蔵は口で説明するより、下図を描いて、職人たちに説明していたのではないでしょうか。武蔵らしい緻密に計算されたバランスの良い庭園でした。

一流と日本庭園
生島 あゆみ
大阪府出身、甲南大学経営学部卒業後、カナダ・フランス・ドイツに語学と花を学ぶために留学。現在、旅行会社「日本の窓」に勤務し、英・仏の通訳及び通訳案内士の仕事に携わる。日本の文化・歴史(特に庭園と食、香り)を紹介するため、日本庭園デザイナー、フードコーディネーター、嵯峨御流師範の資格を持つ。有名シェフのアテンドや、クラシック音楽関連のテレビ番組でのインタビューも担当。ライフワークとして、フランス風花束レッスンを京都で開催。カンヌ国際映画祭の会場の花装飾にも協力、参加した経験がある。ヨーロッパ(特にフランス)と日本の文化の架け橋となるべく、独自の“おもてなし文化論”を体系化し、講習会やオリジナルツアーを企画・開催中(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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