(本記事は、生島 あゆみ氏の著書『一流と日本庭園』CCCメディアハウスの中から一部を抜粋・編集しています)

西芳寺,苔寺
(画像=PIXTA)

スティーブ・ジョブズと西芳寺

スティーブ・ジョブズ(1955年〜2011年)
西芳寺(さいほうじ)【京都】

京都を愛したスティーブ・ジョブズが、足繁く通ったのは、苔寺としても有名な西芳寺。
禅僧に帰依した彼はこの庭から何を学びとったのか。
マインドフルネスの原点はここに。

異端児スティーブ・ジョブズ

スティーブ・ジョブズと西芳寺の関係を見る前に、まずスティーブの人生を知ろうと、彼公認のバイオグラフィーであるウォルター・アイザックソン著『スティーブ・ジョブズ(Ⅰ・Ⅱ)』を読んでみました。パソコン、スマートフォン界に画期的な新風を巻き起こし、現代人の日常生活を大幅に進化させる多大な業績を残したのは周知のことです。成功者ではありますが、何か日本人の常識とは大きく違う生き方だと感じました。つまり、ビジネスの成功のためには手段を選ばない、そういう側面を受けとりました。

まず、彼のビジネスに対する姿勢のところです。バイオグラフィーにもよく出てくる言葉ですが、「ジョブズの現実歪曲フィールド」があります。他人を説得するために、目力と言葉で、人々を操ることです。本当のことでなくても、本当のように聞こえます。良く言えば「交渉上手」なのですが、悪く言えば「エゴが強い」ということでしょうか。難しい人格を備えていたように思います。

複雑な人間性形成は、スティーブの生い立ちからも見えてきます。彼は生まれるとすぐ養子に出されます。実父はシリア人でしたが、父と息子として対面することはなかったそうです。実母は大学院生だった頃にスティーブを生み、養母が死んだのちに再会を果たし、血の繋がりのある妹とも後々会って交流することになります。養父母であるジョブズ夫妻は、中流クラスの温厚な夫婦でしたが、スティーブを大学に進学させることを条件に、養子縁組を成立させ、スティーブを引き取ります。幼少期の彼は、とてもいたずら好きの手のかかる子供でした。高校生のとき、ヒューレット・パッカード社でインターシップとして働き、スティーブ・ウォズニアックという優れた技術者と運命的な出会いをします。

スティーブは高校を卒業する頃には、時代を象徴するようなヒッピーになり、LSDというドラッグ漬けになっていました。また、ヒッピーらしく、菜食主義で肉を食べませんでした。ヒッピーは、当時のアメリカの制度や慣習、価値観に縛られることに抵抗していました。また、アメリカ人のベースとなっていたキリスト教に反発して、その真逆の東洋、神秘主義への憧れを持つようになります。禅や瞑想はヒッピーに人気があり、サンフランシスコのゴールデンゲートパークの日本庭園で、瞑想することが流行っていたそうです。スティーブが禅宗に傾倒していくことは、自然の成り行きだったのでしょう。

スティーブは、インドへも旅しました。インドの田舎で7ヶ月を過ごし、田舎にいる人々の直感力の鋭さに気付きます。自分を静観し時間をかけて気持ちを落ち着かせると、とらえにくいものの声が聞け、直感が花開き、物事がクリアに見え、現状が把握できたそうです。今まで見えなかったものが見えるようになるのが修養であり、そのためには修行が必要だと気付きます。スティーブは、帰国後両親の住むロスアルトス市に戻り、サンフランシスコにある曹洞宗、鈴木俊隆の禅センターに通い始めます。

スティーブ・ジョブズの功績

1976年に、スティーブ・ウォズニアックと組んで、独自に開発したApple ComputerⅠを、販売することになります。そして、Apple ComputerⅡも順調に売り出されました。その後、社内を分割するような二つのプロジェクト、Lisa(ジョブズの最初の娘の名前)とMacintoshが同時に開発されました。スティーブは、横柄な立ち居振る舞いを理由に、Lisaのプロジェクトから外されます。そして、彼が、Macintoshに参画したことで、最終的にMacintoshが勝つことになります。スティーブが強引にオペレーティングシステムにまで口出ししたこと、シンプルで美しいデザインを好んだことが勝因でした。1984年、Macintoshが売り出され、大成功をおさめます。

挫折と禅僧との出会い

1985年、スティーブはアップル社の業績が赤字に転落した責任を取らされ、全ての仕事から追い出されてしまいます。自分が作ったアップル社を追われたスティーブは、初めての挫折を味わいます。この頃に通っていたのが、ロスアルトスの「俳句禅堂」という曹洞宗の禅センターです。この禅道場に、乙川(知野)弘文という僧侶が住み込んでいました。

弘文は禅宗の僧侶の三男として生まれましたが、7歳のときに、大好きだった父親を亡くします。1956年18歳で得度し、新潟県耕泰寺(こうたいじ)の知野孝英老師の養子に入り、寺を継ぐことになっていました。駒澤大学卒業後、京都大学大学院で仏教研究に没頭しました。しかし、机上の論理に嫌気がさし、禅を体感できる僧院で二年半に及ぶ修行をします。そして、カリフォルニアの鈴木老師から、アメリカ行きを打診されます。養父からは反対されますが、逆らい、1967年に渡米してしまいます。一度は帰国しますが、アメリカで禅の普及に務めたいと1970年再び渡米、スティーブ・ジョブズと運命的な出会いを果たします。養子だったこと、大学の勉強より実践を好んだことなど、スティーブの人生と重なるところがありました。

弘文が修行していた永平寺は、スタンフォード大学フットボール部のレギュラー選手なども参禅していたそうです。彼らの面倒を見ていた弘文の評判が、自然とサンフランシスコの鈴木老師にも伝わっていたようです。

1985年アップル社を去ったスティーブは、同年NeXTを設立し、弘文が宗教顧問となります。スティーブとローレン・パウエルの結婚時の婚礼も禅式で、弘文が司りました。

しかし、その後、弘文はスティーブと疎遠になります。弘文は、禅を広めるためヨーロッパに赴任します。再婚をし子供が増え幸せな家庭を持ちますが、あるときスイスの池でおぼれた娘を助けようとし、父娘とも死んでしまいます。

まったく異なる国で生を受けたスティーブと弘文が、スティーブの挫折期に密接に関わりました。生い立ちや型破りな考え方、そして幸せな家庭から一転、壮絶な死に至るまでの類似点を眺めるに、不思議な縁でこの二人が結ばれていた気がします。

スティーブ・ジョブズの復活劇

アップル社を去ってから、スティーブがまず手がけた仕事は、高等教育向けコンピューター構想をベースに始めたNeXT社です。最先端のOSをこの世に出しますが、生産コストが高くついた反面、業績があまり伸びませんでした。スティーブはソフトウエア部門だけを残し、ハードウエア部門を出資していたキャノンに売却してしまいます。そして、ソフトウエア部門も最終的にアップル社に買収されます。

一方で、1986年ルーカスフィルムのコンピューター関連部門を買収し、ピクサーと名付けました。全編コンピューター・グラフィックスの『トイ・ストーリー』公開後に、株式を上場させて、多額の資産を手に入れます。その後、ディズニーがピクサーを買収します。そして、彼はディズニーの個人筆頭株主になります。

1996年、OS開発が暗礁に乗り上げたアップル社によるNeXT社買収をきっかけに、スティーブは、アップル社に復帰することになります。アップル社の経営陣は辞任、再びスティーブが実権を掌握することになります。

アップル再建に着手したスティーブは、その後、iMac 、iPod 、iPhone 、iPadと次々と画期的な新製品を開発します。特にスマートフォンという新しい定義のiPhoneは、2011年スティーブがアップル社のCEOを退任するまでに、総売上の半数を占めるまでに成長しました。スティーブは、アップル社を揺るぎない会社に発展させていきました。

iPodのデザインは、無駄なものを一切省いたシンプルなもので、円の中にボタンがあるだけです。無駄なものを省くことや円相などは、スティーブが禅の思想から影響されたデザインだと言われています。

新商品のプレゼンテーション時には、イッセイ・ミヤケのタートルネックに、リーバイスのジーンズ、ニューバランスのスニーカーを着用していました。多くの人にとって鮮明な印象を残したプレゼンテーションの姿ですが、これは、毎朝何を着ていくか悩む時間を節約するための彼独自のファッション・スタイルでした。ノームコア(究極の普通)と呼ばれましたが、この考えも禅から来たものかもしれません。

アップル,株価
(画像=Jane Rix / Shutterstock.com)

京都の旅と病気

プライベートでは、スティーブにはリサという娘がいましたが離れ離れになっていました。1990年、スタンフォードの講演の際、知り合ったローレン・パウエルと、翌年、ヨセミテ国立公園で結婚式を挙げます。その後、一男(リード)二女(エリンとイブ)に恵まれ、ローレンと子供たちと幸せな家庭生活を送ります。

彼の人生が、公私ともにようやく順風満帆なときに、新たな悲劇がスティーブを襲います。2003年すい臓がんと診断され2009年に肝臓の移植手術をしますが、すでに手遅れの状態でした。2010年にiPadを発表したのち、病気を理由に2011年アップル社のCEOの職を退き、同年10月5日、すい臓腫瘍の転移により、自宅で死去します。

スティーブは、日本の、特に京都が好きで、よくお忍びで来ていたそうです。『スティーブ・ジョブズ Ⅱ』(ウォルター・アイザックソン著)には、最初の子供のリサも、パウエルとの子供リード、エリン、イブも、それぞれ別々に京都に連れてきてもらったと記されています。エリンを連れて訪れたときに老舗の「俵屋」に泊まり、その近くの蕎麦屋でやはり創業300年の「晦菴河道屋(みそかあんかわみちや)」に行ったようです。京都市内の麩屋町姉小路界隈が、スティーブお気に入りの場所でした。七条の渉成園(しょうせいえん)近くの「すし岩」は「こんな美味しいお寿司は初めてだ」とiPhoneにタグ付けしたそうです。

西芳寺とスティーブ・ジョブズ

前出『スティーブ・ジョブズ Ⅱ』にこのようなくだりがありました。


―有名な禅寺もあちこちまわった。エリンがとくに気に入ったのは苔 (こけ)寺として知られる西芳寺(さいほうじ)。黄金池を中心に広がる庭に100種類以上もの苔が生えている。―

西芳寺(苔寺)は、京都の西山、洪隠山(こういんざん)の山裾に位置しています。歴史は古く、もともとこの地に聖徳太子の別荘があったと言われています。奈良時代に行基が法相宗の寺として開山しました。その後、空海も入山したそうです。鎌倉時代に法然上人により、浄土宗に改宗されました。1339年、室町時代初頭、荒廃していたこの寺は、高僧であった夢む窓そう疎そ 石せきによって、臨済宗の禅寺として再興されました。

夢窓疎石が再興したときは、今の苔寺の様相とはまるっきり違っていました。池泉式庭園の部分は、黄金池の北側にある阿弥陀堂を西来堂と名付け、その南西に二層の楼閣・瑠璃殿が建っていました。瑠璃殿の上層部は仏舎利を収めた水晶の塔が祀られていました。

この瑠璃殿こそが、足利三代将軍・義満の建てた鹿苑寺(金閣寺)と、八代将軍・義政の建てた慈照寺(銀閣寺)のモデルとなります。『禅僧とめぐる京の名庭』(枡野俊明著)に記されています。


―夢窓国師の年譜(伝記)を残している臨済宗夢窓派の禅僧・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)は、当時のこの庭の見事さを次のように評しています。岩の間より湧き出る水は、さらさらと流れてたいへん美しい。白砂(はくしゃ)の州浜(すはま)、形の良い松が植えられた島、木々の合間に据えられた形の良い景石(けいせき)、舟を浮かべ漣(さざなみ)の立ったところに映る館の影、これらは天下に誇る絶景であり、人の力の及ぶところではない。―

この文献によると、西芳寺は、当時は苔むす場所というよりは、白砂青松(はくしゃせいしょう)でありました。瑠璃殿をはじめ全ての建物が焼失し、庭は苔むして、当時とは全く違った風景になりました。庭園内の湧き水が出る池や、京都西部の気候条件、つまり適度な湿度(特に朝露)によって、月日が経つ中で、120ほどの苔の種類を生息させました。織りなす苔の絨毯と池や石の美しさは、息をのむほどです。私は何度となく訪れていますが、季節、時間、天気、光の加減によって庭の表情は常に変化します。ベストシーズンは、やはり苔が青々としている梅雨時だと思います。

夢窓疎石が残したであろうというものは、石組から推察できます。西芳寺の庭園は二段構成になっています。庭園は上部下部に分かれており、下の池泉の部分では、二列になった夜泊石(よどまりいし)、霧島と呼ばれる島にある三尊石(さんぞんせき)、その両側に鶴島、亀島を見つけることができます。これは、金閣寺にも同様の石組の配置が見られるので、夢窓疎石の残したものであろうと言われています。

池泉を離れ向上関(こうじょうかん)と呼ばれる門をくぐって石段を上がっていくと、左手に亀石組が見えてきます。そして、夢窓疎石の像が祀られている指東庵(しとうあん)の前には、三段枯滝があり、枯山水の原点と言われています。滝ですが、水が流れていた形跡はありません。ここは龍門瀑(りゅうもんばく)とも言われ、鯉魚石があり、鯉が滝を登ろうとしている様子がイメージできます。「枯山水」は、平安時代に書かれた庭園作成のマニュアル本『作庭記』にも著されているのですが、実際に観ることのできる枯山水としては、ここが一番古いとされています。

指東庵から本堂に戻る道には、夢窓疎石が瞑想していたという座禅石や、泉が湧いていた龍淵水(りょうえんすい)と呼ばれる蹲の原型があります。残念ながら、向上関から上は、外国人だけでなく日本人でさえも、ほとんど素通りしてしまいます。庭園好きには、この辺りが一番心踊る「歴史的なハイライト」なのですが。

西芳寺は、以前は一般公開していましたが、地元の方々の静かな生活を守るため、往復葉書の申し込み制にして拝観料を高くし、1日限定160名ぐらいを受け入れています。本堂で本尊を拝んでから、庭園への入場が許されます。

西芳寺の関係者から聞いたことですが、スティーブは家族を伴う来訪以外にも、おそらくいく度かお忍びで訪れているようです。でも、西芳寺の方々は誰も気がつかなかったらしいです。お忍びの訪問は、スティーブ・ジョブズの伝記本によって初めて知ったそうです。ということは、VIPであった彼も、他の人たちと一緒に、ちゃんと本堂で参拝を終えてから、庭園に入ったことになります。一般客と同じでも、ひとり静かにここで時間を過ごしたいとの思いだったのかもしれません。

では、スティーブは西芳寺庭園のどこがどのように気に入っていたのでしょうか。ここからは私の想像の域を超えませんが、三つほど考えられます。

まずは、やはり、清楚で美しい苔の景色を好んでいたのではないでしょうか。シンプルなデザインを好むスティーブには、自己主張が少なく、自然がただただ美しいこの庭の美意識に魅了されたのではないかと思います。二番目は、禅に傾倒していたので、夢窓疎石の残した石組の力強さに感銘したのではないでしょうか。そして三つ目は、西芳寺庭園全体から醸し出される無(悟り)の境地、平穏で心を落ち着かせ瞑想状態になれる環境、その心地よさが好きだったのかもしれません。苔は空気を浄化する役目があります。湧き出る泉に苔の蒼さ、喧騒を離れた幻の世界(宇宙観)を感じていたのかもしれません。

庭園というのは、死が近づくと何か特別な観え方がすると言います。また、もともとここは浄土を表す庭園だったとも言われています。死生観というか、死との向き合い方を、修行に訪れた人々に教えてくれる場所でもありました。

スティーブ・ジョブズの美意識と哲学

スティーブの美意識というか、美に対しての追求は、コンピューターのデザインに大きく反映されました。そのベースに禅の教えがありました。

スティーブの言葉に、「シンク・ディファレント(違う考え方をする)」があります。クリアティビティ(創造力)には、普通の物差しではなく、新しい目で物事を見据える能力が必要です。違う考え方をすることは、視点を変えることで、ものづくりには大切なことだと思います。公案(禅問答)はまさしくシンク・ディファレントのドリルだったのではないでしょうか。

スティーブはエンジニアではありませんでした。でも、高い目線から全体を見ることのできる「総合判断力」に長けていたのでしょう。だからこそ、人々が想像すらできなかった新たな商品を次々と開発することができたのだと思います。これは、禅の「俯瞰して観る」ことと類似していると思います。

数奇な運命を駆け抜けたスティーブは、私から見ると、生き焦りをも感じていたのではと思えるほどです。そのような中、一時の平穏を、彼がもし西芳寺で見つけていたとしたら、それは禅の目的地、ニルバーナ(悟りの境地)であったのでしょう。

一流と日本庭園
生島 あゆみ
大阪府出身、甲南大学経営学部卒業後、カナダ・フランス・ドイツに語学と花を学ぶために留学。現在、旅行会社「日本の窓」に勤務し、英・仏の通訳及び通訳案内士の仕事に携わる。日本の文化・歴史(特に庭園と食、香り)を紹介するため、日本庭園デザイナー、フードコーディネーター、嵯峨御流師範の資格を持つ。有名シェフのアテンドや、クラシック音楽関連のテレビ番組でのインタビューも担当。ライフワークとして、フランス風花束レッスンを京都で開催。カンヌ国際映画祭の会場の花装飾にも協力、参加した経験がある。ヨーロッパ(特にフランス)と日本の文化の架け橋となるべく、独自の“おもてなし文化論”を体系化し、講習会やオリジナルツアーを企画・開催中(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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