(本記事は、生島 あゆみ氏の著書『一流と日本庭園』CCCメディアハウスの中から一部を抜粋・編集しています)

小石川後楽園
(画像=PIXTA)

水戸光圀と小石川後楽園

水戸光圀(1628年〜1700年)
小石川後楽園(こいしかわこうらくえん)【東京】

黄門様が造った小石川後楽園は、当時のテーマパーク。
明から日本へ亡命した儒学者・朱舜水との、深い交流から育まれた庭でもある。

光圀は不良だった?

「水戸黄門」こと水戸光圀が、隠居の身となったときに、助さん格さんと諸国を旅して、葵の御紋の印籠を見せながら、悪代官や商人をこらしめる……。でも、これは完全なフィクションです。当時一国の藩主が、たとえ引退の身であっても自由に旅することなどできませんでした。当然、光圀も、日光東照宮参拝と鎌倉の英勝寺への墓参り以外、水戸藩や江戸を離れることはなかったのです。

「水戸黄門」のフィクションの物語は、18世紀半ば頃に出た『水戸黄門仁徳録』から始まりました。お馴染みの助さん(佐々木助三郎)と格さん(渥美格之丞もしくは格之進)のモデルは、佐々介三郎十竹(さっさすけさぶろうじっちく)〈助さん〉、安積覚兵衛澹泊(あさかかくべえたんぱく)〈格さん〉だったらしく、この二人は、光圀が始めた藩の一大事業である『大日本史』の編纂に関わる、主要メンバーの儒学者でした。

光圀は、1628年、父は初代藩主・徳川頼房(よりふさ)とその側室・久子の間に生まれました。頼房は徳川家康の十一男だったので、光圀は家康の孫に当たります。ただ、久子は他の側室に比べて身分が低かったので、子供を身籠ったときに堕胎するよう申し渡されました。哀れに思った下臣の三木之次(みきゆきつぐ)の計らいで、水戸の三木夫妻の自宅にて、頼房には出生を打ち明けずに生まれた子だったのです。

光圀は、頼房との三男であり、頼房と久子の間に生まれた長男も生きていました。5歳まで三木家の子として育てられます。6歳のときに、数人いた頼房の後継の中から、三代将軍・家光によって世継ぎと選ばれ、江戸に上ることになりました。頼房は久子を寵愛していましたが、長男は、久子を側室として幕府に届け出る前に生まれた子でした。光圀に期待をかけた頼房は、甥である家光に内密に頼み、光圀を後継ぎに据えたというのが実情だったそうです。

江戸で世子(後継ぎ)となった光圀は、特別な教育を受けていましたが、 13歳頃から、江戸で流行っていた「かぶき者」のような格好をしたり、非行的言動を繰り返していました。

光圀がかぶき者の様相で不良的だったのに対し、長男の頼重は模範的好青年だったそうですが、頼房の息子として認められるのは頼重16歳のときでした。光圀はこの兄を差し置いて自分が後継ぎとなる負い目や、自由の利かない生活に反抗するのが要因となり、不良になったのではと、『徳川光圀』(鈴木暎一著)で説明されていました。

同書によると、光圀は18歳のとき、司馬遷(しばせん)の『史記』内の「伯夷叔斉伝(はくいしゅくせいでん)」を読み、兄弟がお互いを思い合い、どちらも後継にならず国を出た話に感銘を受けます。


―光圀は兄弟の高い徳義(とくぎ)に感動し、三男の自分が兄を超えて世子となったことに改めて強い心の痛みを覚えるとともに、この読書体験を契機にこれまでの奔放無自覚な言動を深く反省し、以後、学問に励むようになる。しかも人生の目標として、やがて自分の子に男児が生まれても次の三代藩主には兄頼重の子を立てること、改心の動機をつくってくれた『史記』をみならい、そのような立派な史書を日本の歴史について編纂すること、この二つを決意するにいたった、と伝えられている。―

改心した光圀は実際、兄・頼重の息子を自分の後継ぎとし、『大日本史』の編纂に尽力することになります。

城主としての光圀

水戸光圀は、1654年、27歳のとき、後陽成天皇の孫にあたる泰姫(たいひめ)〈2年後に尋子(ちかこ)と改名〉と結婚します。実は、その2年前に別の女性との間に男児を授かっていますが、その子は内々に光圀の兄の頼重を頼り讃岐高松に移され、やがて頼重の後継ぎとなります。

1657年、明暦の大火で、江戸にある水戸藩屋敷の小石川邸も焼けてしまい、泰姫は体調を崩しそのまま亡くなります。夫婦仲がよかった光圀は、生涯後妻を迎えなかったそうです。また、師と仰いでいた林羅山が、『本朝編年録(ほんちょうへんねんろく)』を編年体という年代順に記述する方式で幕命により編纂していましたが、大火でたくさんの書籍を失ったショックにより亡くなってしまいます。

大切な二人を失くした大火でしたが、1ヶ月後に焼け残った茶屋に史館を置き、『大日本史』を紀伝体(人物ごとの事蹟を中心に記述する方式)で編纂する大事業に取り掛かります。

奈良・平安時代に編纂された『六国史』以後の正史がなかったので、桓武天皇から後小松天皇あたりまで調べて書き上げるという大変な作業でした。68歳の光圀が、京都の遣迎院応空和尚(けんごういんおうくうおしょう)にあてた書簡には、その大変さが記されています。


―私は十八歳のころから少しばかり学問をするようになった。その時分から考えていたことは、わが国にはいわゆる六国史が存在するものの、いずれも編年体で『史記』のような紀伝体でなない。上古から近代までの出来事を本紀列伝(ほんぎれつでん)に仕立て、『史記』のような体裁にしたい、そう考えて史局を設け今日まで40年ほども修史に取り組んできたのだが、思うように史料が集まらず、したがって編集も捗(はかど)らなくて困っているところだ。―(『徳川光圀』鈴木暎一著より)

『大日本史』は、光圀在世中は本紀(73巻)と列伝(170巻)が既に書き終わっていました。志(126巻)、表(28巻)と目録(5巻)と全てが完成したのは、1906年、水戸・徳川家の手によるもので、神武天皇から南北朝の終期に至る歴史が記述されています。史料を尊重し、京都、奈良、吉野、紀州方面をはじめ、中国、九州、北陸の一部、東北地方に館員を派遣し、史料集めにあたらせました。

20代の光圀は、儒教主義が徹底していて、仏教は嫌っておりました。30代半ばで藩主になったときは、仏教嫌いも和らぎ、儒教、仏教、神道それぞれが純正な信仰として保たれるのであれば、認めようとしました。年をとるにつれて仏教への思いが強くなり、70歳目前の1696年に、出家しました。


―かたちよりせめて入(いる)さの法(のり)の道 分(わけ)て尋ねん峯の月影 「せいぜい僧形(そうぎょう)からはいることにしよう、この仏道修行に、道に踏み入って仏教の真理である真如の月が頂上に輝くさまをたずねたいものだ」という意味に解される。―

―光圀の精神は、その中核には武人・武将としての誇りと覚悟が厳然と存在し、それを包み込むように十八歳から自覚的に蓄積してきた儒教・和歌(わか)・和学(わがく)、そしてその外側には仏教の、知識・教養がしだいに層をなしつつ、文人としても厚みを増してきた、という構造になろう。―(前出『徳川光圀』より)

時は五代将軍綱吉の時代です。「生類憐みの令」に反抗するように、光圀は「千寿会」という会合で鷹狩りの話を出すなど、綱吉の政治を快く思っていなかったことがうかがえます。徳川三家を大事にしない綱吉や幕政に批判的だったのでしょう。

しかし、表向きは、将軍・綱吉や柳沢吉保とも波風立てない付き合いをし、黄門様(中納言の唐名)として存在感と影響力を発揮しました。その後、健康状態に不安を感じはじめると隠居し水戸に戻ります。家督を継いだのは、兄・頼重の次男・綱條(つなえだ)でした。水戸の西山荘と呼ばれている山荘で10年隠居し、最後まで『大日本史』の編纂に尽力しました。1700年、73歳で息を引き取りました。

読書,ぜいたく旅,箱根,城崎,小樽
(画像=(写真=PIXTA))

朱舜水との出会い

朱舜水(しゅしゅんすい)は、中国・明の時代の儒学者(1600年生まれ)です。明が滅亡の危機に瀕したときに、長崎に渡り、日本に亡命しました。1665年、光圀によって水戸藩に招かれ江戸に上がり、光圀の師として水戸藩中屋敷・駒込邸に住みました。

舜水の光圀に対する第一印象として、「礼儀正しい態度で気品があり、話す言葉も打ち解けておだやかだった」と述べています。光圀も、一目で舜水の人柄に敬服し、それ以後は師と仰ぎ、色々なことに影響されていきます。

舜水の実理・実学を重んずる独自の学風に感服したと、前出『徳川光圀』に記されています。

後述する小石川後楽園は、頼房が築造したものを光圀が舜水の意見を聞いて、中国式に治したと言われています。

1682年、舜水は、水戸藩に招かれてから18年目に、駒込の藩邸にて83歳で永眠します。光圀は、水戸・徳川家の墓地・瑞龍山(ずいりゅうさん)に明朝式の墓をつくって舜水を手厚く葬ります。この墓地に水戸・徳川家以外は誰も葬られることはなかったので、異例中の異例の出来事でした。国を追われ、祖国に帰ることのできなかった師の無念を思い、日本で丁重に祀ったことは、光圀と舜水の師弟を超えた深い関係性が見えてきます。

光圀は、舜水を水戸に呼び、孔子の大聖堂や城下に大成殿や学校も作りたかったようですが、資金が工面できず、実現しませんでした。

2011年の東日本大震災で被害を受けた、茨城県にある舜水、光圀の墓所(瑞龍山)の復旧工事完了記念の際、水戸徳川家十五代当主と舜水の末裔にあたる朱育成さんが、修復後の墓石に深々と頭を下げていました。二人が友情を育んでから、300年以上の月日が経っていました。

小石川後楽園

小石川後楽園は、江戸初期に造られた大名庭園の一つで、池泉回遊式と言われています。中心に大きな大泉水(池)があり、その周りを歩いて巡る庭園です。大きな建造物はなく、散策の途中に一息つくための茶室や休憩場所が点在しています。

そもそもは、水戸藩の初代藩主・徳川頼房が、京都から徳大寺佐兵衛を招いて、小石川の中屋敷に造らせたものです。池の真ん中に蓬萊島があり、手前に大きな長方形の石が屹立しています。これを「徳大寺石」と呼び、庭師の名前が由来となります。

頼房が富士山や京都の大堰川など名勝を表現した景観を造りましたが、二代目・光圀は庭園を完成させるために、石造りの円月橋や西湖堤など中国のテイストを盛り込みました。

朱舜水の影響が見てとれ、事実、作庭法など彼から学んでいました。丸いアーチ型の円月橋は、朱舜水自身が設計したと言われています。

中国の杭州にあった白楽天など文化人の憧れの景勝地「西湖(せいこ)の堤(つつみ)」の景色の縮図は有名で、以後日本各地の大名庭園に大きな影響を与えました。1.4m幅の細い道が池の中央に約40m一直線にまたがっていて、その真ん中に小さなアーチ型の橋があり、ともすれば見落としてしまうぐらいの光景です。

こうしたことが小石川後楽園の最たる特徴、つまり歩いて巡るだけで、京都や中国の名勝を観賞できる、今で言う「テーマパーク」のような面白みを生むことになります。もちろん、桂離宮にも天橋立を思わせる縮景はありますが、日本と中国の名勝が巧みに配置され、連続して観賞できるのは小石川後楽園だけです。

後楽園という名は、中国・北宋の大臣だった范仲淹(はんちゅうえん)が書いた『岳陽楼記(がくようろうのき)』の中の「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から、朱舜水が命名しました。

庭園は四つの景色に分けられます。まずは、中島(蓬萊島)を中心とする大泉水とその周辺の「海の景」、次に、西湖堤、渡月橋、大堰川、通天橋を結ぶ「川の景」、清水観音堂、小廬山、得仁堂、円月橋を繋ぐ「山の景」、そして、稲田、菖蒲田、梅林の「田園の景」です。巧みな手法により、決して重複することなく、次々と変化に富んだ景色が現れます。

初めて小石川後楽園を訪れたのは冬の寒いときでした。江戸時代の大名達がいかに京都や中国に憧れを持っていたのかがわかりました。光圀でさえ、行動を限定され、旅をするのが困難な時代でした。「行ってみたいな、渡月橋や通天橋の紅葉の名所」。昔の人は、庭を通して憧れの場所に思いを馳せたのでしょう。ましてや、故郷に帰りたくても帰れない朱舜水は、西湖堤や円月橋を眺めて何を思ったのでしょうか。

国籍を超えた光圀と朱舜水の友情・師弟愛は、同じ墓所に眠り永遠のものとなりました。庭造りを通して、光圀と朱舜水は親交を深めていったように感じます。光圀が朱舜水の故郷愛を鑑み、庭園に反映させ、その悲しみを和らげようとしたことからも明らかです。光圀の寛容さと思いやりが、究極のおもてなしの庭を造り上げたのだと思います。

一流と日本庭園
生島 あゆみ
大阪府出身、甲南大学経営学部卒業後、カナダ・フランス・ドイツに語学と花を学ぶために留学。現在、旅行会社「日本の窓」に勤務し、英・仏の通訳及び通訳案内士の仕事に携わる。日本の文化・歴史(特に庭園と食、香り)を紹介するため、日本庭園デザイナー、フードコーディネーター、嵯峨御流師範の資格を持つ。有名シェフのアテンドや、クラシック音楽関連のテレビ番組でのインタビューも担当。ライフワークとして、フランス風花束レッスンを京都で開催。カンヌ国際映画祭の会場の花装飾にも協力、参加した経験がある。ヨーロッパ(特にフランス)と日本の文化の架け橋となるべく、独自の“おもてなし文化論”を体系化し、講習会やオリジナルツアーを企画・開催中(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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