(本記事は、生島 あゆみ氏の著書『一流と日本庭園』CCCメディアハウスの中から一部を抜粋・編集しています)

神泉苑
(画像=PIXTA)

空海と神泉苑

空海(774年〜835年)と
神泉苑(しんせんえん)【京都】

平安京の禁苑(宮中にある庭)として、現存最古の庭園、泉が湧き出る神泉苑。
権力争いに巻き込まれた空海が雨乞いをし、東寺、西寺の運命を決めた場所でもある。

空海の唐での成果

空海は、お遍路でも有名な讃岐国(香川県)の地方豪族だった佐伯家の三男として生まれました。叔父の阿刀大足(あとのおおたり)を頼って京(長岡京と言われている)に出て、漢学や儒学を学び、18歳のときに大学に入ります。しかし、大学をやめてしまいます。空海自身が24歳のとき著した『三教指帰(さんごうしいき)』で、道教、儒教、仏教の中で、仏教がもっとも優れた教えである と語っています。大学をやめてから、得度せず、山林修行を重ねました(20歳の頃、得度したという説もあります)。修行中、ある沙門(僧となって仏法を修める人)から「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」という密教の行法(真言を百万回唱え、記憶力を高める)を学び、それを実践したことが、将来、弘法大師として真言密教を確立し得た大きなきっかけとなりました。

空海の弟子が編んだ『御遺告』には、聖なる言葉「真言」を唱え続けた空海が比類なき記憶力を得たある日、口の中に金星が飛び込んできた奇跡体験をしたと記されています。

空海は804年4月9日に、東大寺戒壇院で受戒したという説があります。その前後、3年間、東大寺で中国語を学習していたのではないかと言われています。確かに、語学というものは、いきなり現地に行って話せるものではありません。私は英語、仏語の通訳案内士として、外国人のお客様のガイドをしていますが、ネイティブでも帰国子女でもなかったので、語学習得には苦労が多かったです。ですから、空海がどのようにして中国語をマスターしたのか、大変、興味があります。唐から来た僧侶の多かった東大寺で、彼らから中国語を習い、基礎力をつけていたのではないかという説に賛同できます。

また、この奈良滞在の間に、空海は高野山を見つけていたようです。どうして、この辺りに来ていたかというと、水銀の鉱脈を探していたのではという説があります。空海は、日本各地に水脈を見つけるなど、地質学にも長けていました。彼が、いわゆる錬金術師(アルケミスト)だったという説です。では、なぜ水銀を探していたのか。それは唐へ自費で行くためであり、滞在期間は20年とされていたので、その間の資金確保だったと思われます。結局、唐の滞在を20年間から2年間に短縮しましたが、その短期間にたくさんの書籍や法具を買い集めています。そのことからも、空海は自力で、20年間、唐で暮らせる資金を手にしていたと思われます。

長安に入ったのが804年12月、当時の長安は国際都市であり、あらゆる宗教のあらゆる国籍の人々が集まっていました。空海は、早速、精力的に活動します。まず西明寺(さいみょうじ)を寄宿先とし、醴泉寺にてカシミール出身のインド人僧で、ナーランダ僧院に学び、南インドで密教を受法した般若三蔵(はんにゃさんぞう)に師事します。密教経典を訳出した人でした。その後、北インド出身で、ナーランダ僧院で学んだ牟尼室利(むにしり)三蔵に師事します。空海はこの二人から、サンスクリット語やインド思想を学んだとのちに語っています。4ヶ月の期間で、サンスクリット語をマスターするのは、なかなか難しいかもしれませんが、日本で基礎力をつけていたら、可能だったかもしれません。そして、805年5月に空海は、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)と運命的な出会いをします。

真言密教と曼荼羅思想

805年5月、空海31歳のとき、真言宗付法第七祖である青龍寺の恵果(当時60歳)に出会います。すでに、死を予感していた恵果は、空海との出会いをたいそう喜んだそうです。

恵果は、同年6月上旬に胎蔵(たいぞう)界の灌頂(がんじょう)、7月上旬には金剛界(こんごうかい)の灌頂、8月上旬に伝法阿闍梨位の灌頂を空海に与えます。それは集中特別講座のようなものでした。青龍寺の法灯は全て空海に授けられたことになります。当時、青龍寺には1000人ほどの僧がいましたが、恵果は空海を自分の後継に見据えていたのでしょう。それでは、彼の教えとはどのようなものだったのでしょうか。

当時、密教というのは、日本ではまったく新しい宗教でした。印を結び、なりたい仏像をイメージして、聖なる呪文(真言)を唱えます。そして、そのときに必要なものが、曼荼羅(まんだら)(曼陀羅)でした。密教の異なった二つの曼荼羅を「対にして使う」というのが、両部曼荼羅で、大日如来の説く真理や悟りの境地を視覚的に表現しました。一つは胎蔵(たいぞう)界曼荼羅、二つ目は金剛界(こんごうかい)曼荼羅です。

これは恵果による新たな考え方です。空海は、たった半年でその青写真を受け継ぎ、帰国後、実践していくことになります。

恵果は、「御請来目録(ごしょうらいもくろく」で「早く郷国に帰りて以って国家に奉り、天下に流布して蒼生の福を増せ」と空海に言い残しこの世を去ります。空海は師の言葉に従い、滞在を2年で切り上げ、日本に帰ります。「御請来目録」を朝廷に差し出すなど空海が持ち帰った経典には貴重なものも多く、最澄は空海に対し、これらの書物の貸し出しを何度も願うことになります。

帰国した空海にとっての東寺、高野山

809年4月に、嵯峨天皇が即位します。空海はこの天皇との結びつきを深めていきました。そして嵯峨天皇が、真言密教の保護者となります。821年、空海は、讃岐の満濃池の修築にも携わっています。空海は、地質や植物などから、地下水脈が近くにあるかどうか判断できました。水の豊富な高野山を見つけたのも、この能力があったからだとされています。

823年、空海50歳のときに、嵯峨天皇より東寺が勅賜されます。ここを空海は真言秘密道場としました。空海は、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅を両側にかけて、「御七日御修法(ごしちにちのみしゅほう)」をして、天下平安、国家安泰を祈禱しました。また、この東寺で、空海は様々に変様した曼荼羅を作っています。三昧耶(さんまや)曼荼羅は、金剛界曼荼羅の九に分けられた中下の部分を現し、仏・菩薩が一切の生きとし生けるものを救済されるために起こした誓願を象徴するもので、法具と五鈷杵(ごこしょ)が描かれています。種子(しゅじ)曼荼羅は仏や菩薩の図像でなく、種子つまり梵字であらわした曼荼羅で、真ん中の大日如来の場所には、万物の始まりの音である「阿(あ)」の梵字が書かれています。圧巻の曼荼羅は立体曼荼羅です。21体の如来、菩薩、明王、天などの尊像がそれぞれグループとなり講堂に並んでいます。特に、象に乗った帝釈天は「イケメン」像として、仏女(ブツジョ)の人気を博しています。

この時期は、空海は利他行が中心の胎蔵曼荼羅の世界を目指し、庶民救済で徳を積んでいました。後述する神泉苑の雨乞いもそのひとつです。こうして空海は、「大師様」としてあらゆる人々に慕われていきます。

神泉苑の歴史

神泉苑は、観光地として賑わう二条城の南側に位置しています。都を京都に移した6年後、桓武天皇が800年には神泉苑で舟遊びをしていたそうです。神泉苑は、当時は大内裏の南に位置し、湿地帯と花崗岩質の土地とのちょうど間にあり、神泉から流出した大池の中に中島がありました。

元々は、北側に南向きの建物が建ち、その両脇に閣と釣殿(つりどの)がある、典型的な寝殿造(しんでんづくり)の庭園でした。寝殿造の庭園の水の流れというのは、北東から入り、池の中央を東から西に通り、西南に出る形が基本だったので、北東の場所に湧き水があったことが理解できます。

平安時代初期、湧き水の出る湖沼の一部を利用して「禁苑(きんえん)」(天皇御遊の庭園)とし、天皇や皇族などが、龍頭鷁首(りゅうとうげきす)の舟を浮かべ、舟遊びをしていました。それがやがて、空海を始め、雨乞いをする儀式の場となりました。空海以外にも、安倍晴明の息子や、小野小町などたくさんの人が雨乞いにこの地を訪れました。ここで白拍子の静御前が雨乞いの舞をし、義経が見初めたというエピソードも残っています。

奈良時代から平安時代にかけては、非業の死をとげた御霊が世を恨んで疫病をはやらせたり、怨霊になって現れると考えられていました。清和天皇の頃、863年5月20日に、朝廷は神泉苑で盛大な御霊会(ごりょうえ)を催しました。


―貞観十一年(八六九)には、長さ二丈の鉾(ほこ)を六十六本(国の数という)立てて 神泉苑にくりこみ、厄払いをした。―(『東寺真言宗 神泉苑』より)

後世にはこれに車をつけ、飾りを施して祇園(ぎおん)御霊会になったと言われています。つまり、神泉苑で始まった御霊会が、祇園祭鉾巡業の起源なのです。

室町時代以降この場所は廃れてしまいますが、1601年に徳川家康が、湧き水に目をつけ、北側に二条城を建てます。その結果、神泉苑は4分の1ほど境域を失い、縮小されました。そして、この水源は二条城の外堀、内堀、城内の小堀遠州作の二の丸庭園の池の水にも使われたのです。

1392年より1869年まで、京都御所は、大内裏から東に1.7kmの現在地が正式な皇居でありました。不思議なことに、御所を中心に、鬼門の方角の北東には、下鴨神社、修学院離宮、比叡山があり、裏鬼門の南西には、二条城(神泉苑)、桂離宮と全て一直線に並んでいます。これは天皇と徳川家康将軍の鬼門をめぐるパワーゲームのような様相に思えてしまいます。神泉苑がいかに都の重要な場所だったかということが想像できますし、今でもパワースポットと言われるゆえんではないでしょうか。

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(画像=KieferPix/Shutterstock.com)

神泉苑での空海の雨乞い

神泉苑の冊子によると、弘法大師(空海)は天皇より東寺を賜り、足繁く大内裏に参内し、その都度、神泉苑に立ち寄ったそうです。


―淳和天皇の天長元年(八二四)の大旱魃(だいかんばつ)に、西寺(東寺に対して羅城門の西にあった)の守敏僧都(しゅびんそうず)は勅命により祈雨をしたが効験なく、次に勅命は弘法大師にくだった。
守敏はこれをねたみ、三千世界の龍神を水瓶(すいびょう)に封じ込んだ。弘法大師は祈雨修法の効験がなく雨が降らぬので、定(じょう)に入(い)って観じたところ、唯一、北天竺(てんじく)の大雪山の北、無熱池(むねつち)(現在チベットのマナサロワール湖と比定されている)に住む善女龍王(ぜんにょりゅうおう)のみが守敏の呪力(じゅりき)を逃れているのを見出された。そこで、大師は善女龍王を神泉苑の池に勘請(かんじょう)〈おまねき〉し、和気真綱(わげのまづな)を勅使(ちょくし)として種々の供物をそなえ、請雨法を修せられた。善女龍王は大師の懇志(こんし)に感じて池中より大蛇の頭上に金色(こんじき)八寸の御姿を現し、慈雲たちまちにして起こり、甘雨の降ることはあたかも天瓢(てんぴょう)の水を注ぐが如く、早天(かんてん)〈ひでり〉の災はたちどころに解消したという。これは弘法大師御事蹟の一に数えられ、「天長の祈雨」と 称せられ、また俗に「弘法守敏の法力(ほうりき)争い」ともいわれている。―

  『今昔物語』にも、「弘法大師請雨経法(しょううきょうのほう)を修して雨を降らすこと」とあり、干ばつにより、天皇以下人民に至るまで嘆き悲しんだとき、弘法大師が雨乞いを修し、人民を助けたという話が記されています。

空海と高野山 奥の院

832年、59歳になった空海は、自らの悟りの成就のため高野山にこもります。これは深い自然の中に入り、十段階目の金剛界曼荼羅の中心に行く、修行の最後の務めとなります。

835年、62歳のとき、最後の教えとして「吾れ生期、今いくばくならず。仁等、好く住して慎んで教法を慎み守れ。吾れ永く山に帰らん」と説きました。1200年近く前、高野山 奥の院で深い瞑想に入った空海は、今でも生きとし生けるもののために祈り続けていると言われています。ですから、四国88箇所のお遍路を無事に済ませた人は、最後にこの奥の院の空海に報告にくるのです。また、奥の院の墓地には、戦国武将、例えば上杉謙信、武田信玄などあらゆる武将が、空海のそばで眠りたいと集まってきているのです。

空海が御廟で入定されたとき、座ったままだったと語りつがれています。空海は廟所でいまだ生き続け、永遠の祈りをあげていると信じられています。現在に至っても、食事が捧げられる「生身供(しょうじんぐ) 」と呼ばれる儀式があるのはそのためです。

空海と祈雨の庭

庭が権力の象徴として造られたことをメインテーマにしていますが、空海の場合はやや異なります。空海が権力争いに巻き込まれた場面に庭が登場すると言った方がいいでしょう。

『性霊集』は、弟子が編集した空海の漢詩文集ですが、中に神泉苑について詠んだ詩「秋の日、神泉苑を観る」があります。内容は、「神泉苑を散策して、季節の変化を観察すると、うっとりとしてそこから帰ることができない。台閣は、神が作られたようで、鏡のような池は澄み渡り、陽の光を包む。鶴は天まで声を響かせ、御苑に慣れていて、コウノトリは、羽を休めていたが、今にも翔び立ちそう。魚は藻草の間を泳ぎまわり、鹿は草むらの奥で鳴き、私の衣は露に濡れている。神泉苑の空を飛ぶ鳥も地に棲む魚や鹿も、天皇の徳を感じ、秋の月と秋の風はめでる人もないまま扉のうちに入ってくる。鳥獣が草や粟など食べながらそこら中にいる。ゆったり連れ立って舞い、深遠な道理の中にいる」。書や漢詩の名手としても知られた空海が、神泉苑では、生きとし生けるものが天皇の徳を感じながら、道理の中に存在すると説いています。それはまるで、天皇中心に、あらゆる生きものが存在する曼荼羅図のように私には感じられました。

優雅で美しい「禁苑」が「祈雨の霊場」となったのは、日本中の日照りの際、空海が天皇の命を承け、雨乞いをしたことに始まります。では、実際空海は、どのように請雨法を行ったのでしょうか。三つの説をここで紹介したいと思います。

一つ目は、空海が唐で出会った恵果も、人民共済のために雨乞い、雨を止める、病気治癒などを実践していたそうです。空海は、恵果から、その手法を学んでいたのではないでしょうか。のちに東寺で行われたように、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅、この二つの曼荼羅を祈禱する祭壇の両側にかけて念じたのかもしれません。曼荼羅は飾るためのものではなく、瞑想によって曼荼羅の世界に入ることで、仏と一体となり、雨を降らすことができるのだそうです。

二つ目の説は、ヒンドゥー教の「十六のウパチャーラによるプージャ」というのがあり、これは神をもてなす方法です。『最澄と空海』(立川武蔵著)にも記されています。


―ようするに、招きに応じて来た神に、まず座などを差し出して落ち着いてもらい(二―五)、沐浴をさせ(六)、御馳走などを出し(七―一三)、右回りに回るなどした後帰るのを見送る(一四―一六)という手順を経るのである。(中略)このようなプージャの形式は、仏教においてもとり入れられた。虚空蔵求聞持法も、大筋においては今見たような手順を踏んでいる。プージャ(供養、供養法)の中核的部分の沐浴に対応する場面で、虚空蔵菩薩の実質的な観想がおこなわれる。―

「ご馳走などを出し」と書かれているので、和気真綱(わけのまつな)〈官人で空海の外護者〉を勅使として種々の供物を供え、この法力を利用したとも考えられます。

三つ目の説です。空海は自然界の中に身を置いて修行をすると同時に、水脈や水銀を探り当てる特別な技術を持っていました。なので、彼にとって天気予報、つまり風を読んで雨を感じるのは、たやすいことだったということです。ちょうど、雨が降りそうなタイミングで、雨乞いの儀式をしたのではないかと。しかし、これは現実的な考え方なので、私はあえて空海が法力を養っていたとする側に立ちたいと思います。

神泉苑の法力争い後、恨みを持った守敏が空海に矢を放ちます。それを助けたのが矢負いの地蔵だったという伝説もあります。やがて、西寺を司る守敏は力を失い、今は、東寺だけが京都に残っているのです。

神泉苑の池は、空海の雨乞いにより、法成就池(ほうじょうじゅいけ)と呼ばれるようになりました。池の中心には、善女龍王を祀るお社が池に突き出るように建っています。その左横の赤い橋は法成橋です。本堂でお札を買い、一つだけ願いをかけてその橋を渡ると、願い事が叶うと言われています。

一流と日本庭園
生島 あゆみ
大阪府出身、甲南大学経営学部卒業後、カナダ・フランス・ドイツに語学と花を学ぶために留学。現在、旅行会社「日本の窓」に勤務し、英・仏の通訳及び通訳案内士の仕事に携わる。日本の文化・歴史(特に庭園と食、香り)を紹介するため、日本庭園デザイナー、フードコーディネーター、嵯峨御流師範の資格を持つ。有名シェフのアテンドや、クラシック音楽関連のテレビ番組でのインタビューも担当。ライフワークとして、フランス風花束レッスンを京都で開催。カンヌ国際映画祭の会場の花装飾にも協力、参加した経験がある。ヨーロッパ(特にフランス)と日本の文化の架け橋となるべく、独自の“おもてなし文化論”を体系化し、講習会やオリジナルツアーを企画・開催中(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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