要旨

● 年金改革により、年金の繰り下げ受給可能年齢が延長されることになる見込みだ。既存制度では原則65歳から最大70歳までの繰り下げが可能、その際の年金増額率は+42%だが、これを最大75歳・+84%まで選択できるしくみになる。

● この増額率はあくまで額面ベースだ。繰り上げ・下げを選択する家計にとっては、税・社会保険料負担等を勘案した手取りベースで見るほうが適切だろう。特に社会保険料では累進性が効いており、繰り下げによって年金額を増やすと負担が増える。一定の前提を置いて試算すると、70歳への繰り下げによる増額率は額面ベースの+42%から手取りベースでは+3割程度に、75歳では額面+84%から手取り+6割程度まで縮小する。

● また、給付面でも年金受給中の所得が増えることで、自己負担割合が高くなるケースが生じ得る。家計の繰り下げ受給の損得勘定は、年金受給の額面のみで考えるよりも遥かに複雑である。

● 年金は本来、“いつまで生きるかわからない”というリスクに対する“保険”であり、損得勘定のみで受給年齢を選択すべきものではない。しかし、行動経済学でも実証されているように、“損をしたくない”という心理には抗いがたいものがあり、制度設計ではそれを踏まえることが必要だろう。「働き損」にならない制度を構築するために、繰り下げを行った場合でも増額前の年金額を基準に税・社会保険料を徴収する、といった仕組みが考えられるのではないか。

社会保障
(画像=PIXTA)

75歳まで繰り下げOKに

全世代型社会保障改革の一つの目玉に、年金の繰り下げ受給可能年齢の延長がある。既存制度においても、公的年金制度には受給開始年齢の繰り上げ・繰り下げオプションがあり、原則65歳開始の年金受給開始を前後5年の範囲で選択することができる。支給開始の原則年齢は65歳なので、60歳~70歳の間で受給開始を選べるということになる。受給開始を早めた場合、毎年の年金額は「0.5%×繰り上げ月数」分減額される。反対に受給開始を遅くした場合には、「0.7%×繰り下げ月数」分増額される仕組みだ。

これが、今回の改革によって後ろ10 年の繰り下げが可能になる。つまり、60歳~75歳までの間で受給開始時期を選べるようになる。また、繰り下げによる年金の増額率は現行制度と同様に「0.7%×繰り下げ月数」となった(※1)。65歳で受け取った場合の支給額を100としたときの受給開始年齢毎の支給水準をまとめたのが資料1だ。このため、75歳まで受給開始を遅らせることで、年金額は最大+84%(=0.7%×120か月)増やすことが可能になる。

年金繰り下げ受給の損得勘定
(画像=第一生命経済研究所)

税・社会保険料を踏まえて、手取りベースで損益分岐年齢を試算してみた

個人単位で考えると、年金を繰り下げて受給した場合、年あたりの受給額が増える。一定年齢まで生存すれば、生涯の年金受給額(年あたり受給額×受給年数)は繰り下げしなかった場合を上回ることになり、繰り下げした方がより多くの年金をもらえる、いうことになる。以下、この“一定の年齢”を損益分岐年齢と呼ぶことにする。仮に70歳まで繰り下げをすれば、毎年の年金受給額は+42%増え、損益分岐年齢は82歳となる(82歳まで生きれば繰り下げが得)。同様に75歳まで繰り下げをすれば、毎年の受給額は+84%、損益分岐年齢は87歳と計算することができる。

ただし、これはあくまで“額面ベース”での試算である。実際には、ここから税金や社会保険料の支払いが発生することになる。個人単位では、この税・社会保険料を勘案した“手取りベース”で考えた方が有用だろう。それを試算したものが資料2・3だ。

年金繰り下げ受給の損得勘定
(画像=第一生命経済研究所)
年金繰り下げ受給の損得勘定
(画像=第一生命経済研究所)

税・社会保険料を差し引いた手取りベースの増額率は、額面ベースでの増額率を下回る。これは、社会保険料を中心に所得レベルに応じて累進的に負担額が増える仕組みになっているためだ。今回の試算の条件のもとでは、67歳受給開始で額面:+16.8%→手取り:+11.8%、70歳:+42%→+31.3%、75歳:+84%→+64.2%との結果が得られた。これに応じて損益分岐年齢も後ずれし、それぞれ額面ベースに比べて4~5歳程度後ろ倒しされる結果となった。

なお、税・社会保険料は居住地の自治体や所得水準、家族の世帯構成などによって左右されるため、さまざまな仮定を置いている点には留意を要する(資料2注釈を参照)。

年金が増えて、給付が減ることも

また、負担面のみでなく給付面への影響も重要だ。健康保険や介護保険の給付には所得要件が存在するものが多く、高所得者ほど自己負担分が高くなる体系になっている。毎年の年金額を増やす選択をした場合に所得分類が高所得者となり、受けられる給付が減る、ということが起こりうる。具体的には、資料3に示すように医療・介護の自己負担割合や、高額療養費の基準額に影響する。繰り下げ受給の損得勘定は、所得水準や世帯構成によってかなり複雑なものになる。

年金繰り下げ受給の損得勘定
(画像=第一生命経済研究所)

損得がすべてではないが、個人にとって損得は重要な選択基準

筆者は、基本的には年金繰り下げを“損得”で判断すべきではないとの考えである。年金の本来的な機能は長生きに対する保険だ。個人の抱える“いつまで生きるかわからないリスク”を社会全体で分散し、より長く生きた人に長く年金を支給することで、老後の金銭不安を和らげる枠組みだ。結果的に損をする人、得をする人が生じるのはやむを得ない面がある。繰り下げによって本来よりも高い水準の年金額が終身に亘って得られることになる。老後の金銭不安は、いつまで生きるかわからないという不確実性によるものであり、これを和らげることにつながるだろう。

しかし行動経済学の世界でも実証されているように、“損をしたくない”という心理には抗いがたいものがあることも事実だ。本稿で述べてきた損得勘定は、個々人の選択に影響を及ぼすことになるだろう。最新の生命表では、65歳時点の平均余命は男性で19.7年(65歳を足すと84.7歳)、女性で24.5年だ(89.5歳)。今回試算における75歳までの繰り下げによる損益分岐年齢は90歳近いわけだが、特に男性では平均余命との乖離がある。損得勘定で考えてここまでの繰り下げを選択する人は少ないのではないか。繰り下げを行う方が“損”をすると見なされれば、繰り下げ受給は普及していかないだろう。

“働かない方がお得”にならない制度設計を

制度設計のうえで重要なのは、家計側が“損”を感じさせる要因を少しでも取り除いていくことではないか。例えば、繰り下げで年金を増やした場合でも、増額前の年金を受給していると見做して、税・社会保険料を徴収する枠組みが考えられる。年金繰り下げは受給時期の移転に過ぎないのだから、それによって税・社会保険料の負担が変わるのは不自然、という理も立つのではないか。

一方で実現のハードルは高そうだ。既存の制度でも、繰り上げ・下げをした場合でも、繰り上げ・下げをしない65歳で受給した場合の年金額をベースにする制度はある(※2)。ただしこれらの枠組みは、いずれも「年金制度」の中で完結しているものだ。税金や健康保険の社会保険料の算定にまで65歳時点の年金額を用いようとすれば、制度間での横断的な情報共有が必要になる。ここは実務的な壁になる可能性がある。

しかし、税と社会保障の間に制度間の線引きはあっても、個人ベースでみれば税も社会保険料も同じ負担であり、そこに大きな差異はない。今後も高齢化が続いていく中で、「社会保障に支えられる側から支える側へ」は必要な理念・方向性だ。働き手の就労長期化を促すのであれば、“働かない方がお得”にならないしくみを、制度側の目線ではなく利用者側の目線で構築することが重要だろう。それは、個々の制度の枠を超えたもの、税・社会保障を包括した制度が望まれる。(提供:第一生命経済研究所


(※1)  なお、受給開始年齢の繰り上げについてはその減額率が見直され、▲0.5%/月から▲0.4%/月になる。

(※2) 例えば在職老齢年金においては、繰り下げをした場合でも65歳で受給したとみなした額に基づいて将来の年金支給減額が行われること、遺族年金については繰り下げ後の額ではなく65歳時点で受給した場合の年金額が遺族に支給されること、がそれにあたる。


第一生命経済研究所 調査研究本部 経済調査部
副主任エコノミスト 星野 卓也