政府は、65歳までの現役就労をさらに延ばして、「70歳現役社会」へと舵を切りつつある。ただし、70歳現役は、これまでの65歳現役への移行とは異なり、公的年金制度について年金支給開始年齢を一律に65歳から70歳へと後ずらしするものではなさそうだ。年金制度については、選択制を採り、年金減額を回避したければ、なるべく長い期間、つまり70歳まで働くことを選ばざるを得ないことになりそうである。

老人
(画像=PIXTA)

将来不安の解消法は「働くこと?」

国民の大多数が将来不安を抱えている。長生きしたとしても、老後の生活資金が尽きたならばどうしようもなくなる。だから、公的年金は十分に欲しい。ところが、人口構成が少子高齢化して、さらに超低金利・低成長になると十分な金額の公的年金はもはや受け取れなくなる。すでに、国民年金と厚生年金の定額部分(月6.5万円程度)の支給開始は、かつての60歳から65歳へと後ずれしてしまった。厚生年金の報酬比例部分も支給開始が、男性の場合は2013 年度から3年おきに1歳ずつ後ずれして、段階的に65歳支給へと移行している。60~64歳までは、就労を続けるか、貯蓄を取り崩すか、いずれかの方法で生活をしのぐしかない。

政府は、年金改革と連動するかたちで、60~64歳の無年金の期間に困らないようにするために、企業には雇用確保を求めてきた。定年延長や再雇用という対応を雇用者の希望を聞きながら選択できるようにした。要するに、年金不足に対して国民に働き続けることを推奨して、将来不安を和らげようという考え方である。国民からみれば、十分な金額の年金が欲しいのに、その希望が叶わない。働き続けるのは、半ば止むを得ないという気持ちであろう。

今、また新しい制度を政府は用意している。それは、企業に対して政府が70歳までの就業機会を確保するように、努力義務を課そうとしている。60~64歳の雇用延長が、さらに65~69歳まで延長されることを意味するものだろう。

これは、「もしかして、将来、政府が年金支給開始を65 歳から70 歳へと後ずらしすることの布石なのか?」と勘繰る人は多いだろう。筆者も、先々はそれを狙っている可能性はあるかもしれないと思う。しかし、今のところ、政府は国民に対して、別の選択肢を用意している。それは、自主的に年金支給開始の時期を、例えば65歳から68歳へと後ずらしすることで、年金受け取りができる金額を増やすという選択である。

公的年金は、支給開始を1か月ずつ繰り上げると、その月数×▲0.5%ほど減額される。反対に、支給開始を1か月ずつ繰り下げると、その月数×0.7%ほど増額される。計算をわかりやすくすると、5年間前倒しで受け取ると、65歳支給に比べて▲30%カットになり、5年間後ろ倒しにすると、+42%ほど増額される。つまり、70歳まで雇用延長して働き続けて、65~69歳まで年金支給を止めるという選択をする人は、年間100万円の支給予定が142 万円に増えることになる。もしも、自分が90~100歳まで長生きするのであれば、65~69歳の期間は働き続ける方がよいということになる。政府は、今のところ、全員一律で70歳支給に支給開始を遅らせるのではなく、繰り下げ支給による増額という「アメ」をみせることで、自主的に65~69歳までの支給開始の先送りを選んでもらおうとしている。

年金の約2割カットにどう対処するか

年金をこれから受け取る人達にとって不安視されるのは、支給額が切り下げられていくことである。これは、2004年の年金改革で決定されたマクロ経済スライドの仕組みが発動されるからである。2019年度の公的年金の支給額は、政府が想定する現役モデル世帯の所得(平均手取り賃金35.7万円)に対して61.7%である。この割合を今後は時間をかけて50%程度にまで落としていく。50%÷61.7%=81.0%だから、実質価値は▲19%(=100%-81%)ほどカットされることになる。そうなると、年金生活者は生活資金の不足分をどうにか補わなければ、貯蓄取り崩しを余儀なくされる。

そこで利用できるのは、先の支給開始を繰り下げて年金を増額する仕組みである。例えば、19%ほど目減りした分を繰り下げによって取り返そうとすれば、27カ月(=19%÷0.7%)ほど支給開始を遅らせることになる。65歳時の支給開始を、67歳と3か月まで遅らせる計算である。そして、67歳と3か月までは、無年金の状態で就労を続けることになる。

政府が70歳まで就業機会の確保を努力義務として企業に求めるのは、年金カットを回避しようとする高齢者に対して、働き続けることで対処することを推奨しようとしているからだろう。年金不足という不安に対して、長く働き続けるという解決法を提示しているのだ。

働くことへの消極姿勢

実際に年金支給開始を繰り下げている人はどのくらいいるのだろうか。厚生労働省の「厚生年金保険・国民年金事業の概況」(2017年度)によると、厚生年金では0.7%、国民年金では1.5%に限られる。逆に、国民年金では32.3%が繰り上げている。これは、たとえ減額されてでもよいから、65歳よりも早く欲しいと思っている人が多いことを示している。

このデータをみる限りは、今後マクロ経済スライドによって、年金カットが進んだとしても、繰り下げによって増額を選択する人が、それほど増えそうにないことを直感させる。多くの高齢者は、年金の実質的な目減りを我慢するだろう。実際、国民の多くは、長生きして年金不足が生じることのリスクに対処するよりも、目先の60~64歳の生活のために、たとえ減額されてでもよいから早く年金が欲しいと思っているのだ。

さらに、高齢期になっても就労することに対して、国民が消極的であるデータもある。総務省「労働力調査」(2018年)では、55~59歳の労働力人口比率が男性93.4%だったところから、60~64歳83.5%、65歳以上33.9%と落ちていく。やはり、65歳以上になると、ガクンと労働参加の意欲は衰える。この傾向は、女性でも同様である。

日本人の老後に対するイメージは、「年金をもらって引退する」という感覚が強い。これは、年金を支給される時期が遅らされたから働き続けるのが当然という考え方をそう簡単には受け入れたくないという感情につながっているのだろう。シニアの就労を進めようと政府が考えるのならば、ゆっくりと着実に就労条件を向上・改善していく必要があるだろう。高齢期になると、非正規比率が高まっていく。65歳以上は、男性72.4%、女性81.3%と非正規比率は高い(55~64歳は男性29.2%、女性67.9%)。平均的な年収は、高齢期においても、正規と非正規の間には大きな格差がある。働くときの待遇が著しく低下することは、シニアが働く意欲を大きく損なう作用を持っている。

巷間、「今のシニアは昔と違って健康で、働き続けることに何の支障もない」と言われるが、その反面、待遇は50歳代の時に比べて大きく低下する。その理由は、はっきりと語られることは少ないと思える。おそらく、高齢期になると労働者の立場が弱くなり、能力の高い人であっても待遇悪化を受け入れなくては仕方がないからだろう。本来は、能力の高い人はもっと高い賃金をもらい、そうでない人が待遇を落とすという差が表れるべきだ。問題視されるのは、能力の高い人の待遇まで悪くなってしまうことだ。筆者は、現在進められている70歳までの就業機会の確保に向けた制度改正が、好ましいかたちでの「70歳現役社会」の実現になるとは思えない。70歳現役社会とは好ましい待遇で自己実現が叶えられる社会を指す。まだその道は遠く、言葉だけが独り歩きしていると思う。(提供:第一生命経済研究所

第一生命経済研究所 調査研究本部 経済調査部
首席エコノミスト 熊野 英生