2020年7月の五輪開催が延期されることになった。それまでの期間に経済政策は、単純な景気刺激策を打てば十分なのか。答えはNoだろう。コロナ・ショックで見えてきた課題解決と、五輪後に待ち構えていた課題に先んじて取り組む発想が必要だ。具体的には、産業のデジタル化を進めて、産業の生産性を向上させることをテーマとすべきだ。
単なる経済対策では十分ではない
東京五輪の延期が決定した。安倍首相は、IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長と会談して、1年程度の延期とすることで一致したという。政府は、五輪延期の打撃に対処するプランを練っておく必要がある。現在、政府が検討している経済対策には、東京五輪という経済イベントが2020年になくなった場合に、起動させるダメージ・コントロールの意味合いもあると筆者はみている。
その経済対策がどうあるべきかを考えるとき、次のように問題設定すると、私たちが検討すべき方向性が明らかになると思う。
「このまま東京五輪開催が、2021年7月に延期されたとき、単なる景気対策を打って停滞を凌げばよいのであろうか?」
ここでの景気対策とは、公共事業や所得税減税といった過去に用いられてきた伝統的な財政政策のことである。
この問いに対する答えは、Noだろう。公共事業などの需要刺激をすることで、1年先の五輪開催を待っていれば、それで済むということではなかろう。
理由は2つある。ひとつは、コロナ・ショックが起きてしまったことで、浮かび上がった「新しい課題」に対処しなくてはいけない。1年後に五輪開催を延期するとしても、各国は日本に対して、感染症対策や予防体制の完備を求めるだろう。新しい課題としては、今まで見えていなかった課題、つまりインバウンド需要が極めて脆弱だったことへの対応というものもあるだろう。それらに対処する視点が経済対策にも必要になる。
もうひとつは、東京五輪の開催の先を見越した対応である。今まで東京五輪が2020年8月に終了すると、しばらくは大きな経済イベントがなくなり、人口減少・高齢化・地方衰退といった長いスパンでの構造問題に向き合わなくてはいけないと予想されていた。そうした課題に対する対応は、もう1年先送りするのではなく、むしろ前倒しで検討する方がよい。具体的には、日本経済が人口制約に囚われずに成長するプランの起動である。
見えてきた課題
コロナ・ショックで見えてきた課題とは、(1)感染症対策が非常に手薄だったことと、(2)インバウンド需要が脆弱だったという2つである。
最初は、感染経路が特定されているという前提で、経済活動を自粛しなくてもよかったが、途中から集団で集まること・イベントの自粛へと方針が変わった。自粛の痛みは大きく、経済活動は麻痺した。本当にすべての集団での活動を疑う必要があったのかは事後的に検証してほしい。合理的に考えると、感染症予防の観点から集団の活動に対するガイドラインが予めあって、それに従って自粛の範囲を決めている方がよかった。例えば、通勤は1m間隔で電車に乗った方がよいとか、コンサートも客席の間隔が2mあれば開催してもよい、という警戒レベルが段階的に設定されていると、もう少し混乱は少なかったと思える。筆者は、医療の専門家ではないので踏み込まないが、もっと技術的・工学的な対処をする選択肢があったと感じる。そうした経験を踏まえたマニュアルが、1年先までに作られてもよい。
もっと経済的視点で言えば、インバウンド需要の脆弱性は、対処すべき課題のようにみえる。すなわち、武漢封鎖が1月23日に起きると、中国人の団体客の渡航が中止されて、訪日外国人の客数が激減する。激減した後で、中国人客への過度な依存が明らかになった。その手前で日韓関係の悪化で、韓国人の訪日客が激減したという伏線もある。もっとアジア全域、欧米からの観光客に地域分散されていればよかったと思える。
視点を変えると、日本の交通インフラは、災害に脆弱である。この認識は、2018年9月に台風21号で関西空港が閉鎖されたショックでわかったことでもある。そして、2019年10月に台風19号でやはり交通機関は麻痺したことでも、「またか」と思った。コロナ・ショックはこうした災害とは違うが、交通インフラの耐久性、頑健性がもっと高いことが望まれる。防災というか、訪日外国人のライフラインとしての交通インフラの充実が求められる。
もっとインバウンド需要が蒸発しにくい性格を持つには、医療ツーリズムを考えてもよいだろう。アジア各国から日本の医療サービスに期待して患者が訪日する。彼らは、長期滞在して日本の観光サービスを楽しむこともできる。また、日本の保健制度の外側で高品質・高価格の医療サービスが発展すると、その効果は国民向けの医療サービスにスピルオーバー効果をもたらすだろう。そうした副次的効果を、日本が医療ツーリズムに政策の舵を切ることは与えてくれるだろう。
筆者が強調したいのは、2020年の経済対策は東京五輪がなくなる代わりに、いくつかの反省を踏まえてテーマ設定をすることが重要だということだ。
中長期的課題に先行して取り組む
これまで私たちは、東京五輪が終了すると、次のテーマがなくなることを心配していた。これは、五輪が延期されてもほぼ同じことだ。ならば、1年前倒しでこの課題に取り組んではどうだろうか。
日本経済の中長期的課題は、人口減少・高齢化・地方衰退である。こうした人口制約は、日本経済を下押ししていくとみられてきた。だとすれば、人口制約に関係なく日本経済が成長できる方法をもっと積極的に推進するのが適切である。その答えを筆者なりに考えると、テクノロジーの活用をもう一段加速させて生産性を上げることだ。現在、ほぼ全産業でデジタル化が進んでいる(図表)。従来のビジネスの流れが、デジタル化されることをデジタル・トランスフォーメーションという。産業の「デジタル変換」というのが直訳になる。
延期された東京五輪までに、このデジタル化をもっと加速させるというテーマを政府は民間企業と共有して、テクノロジー普及を念頭に置いて経済対策を推進するのが適切だ。
実は、こうした問題意識は、コロナ・ショックで明らかになった様々なボトルネックの解消という必要性とも重なる。例えば、テレワークという言葉は、通勤をせずに自宅勤務する方法として、自粛が広がる中で有名になった。しかし、多くの企業では、テレワークをしようと思ってもビジネス環境が整備されてなくて、テレワークを活用できなかった。政府は、テレワークの普及に支援をする活動を行っている。
同じことが、教育のデジタル化にも言える。学校休校で授業が年度末にストップして、一部の学校ではパソコンなどの画面を使ったオンライン授業、eラーニングを試験的に導入する動きがあった。中国では、日本よりも進んでいて、小学校でeラーニングを行っているとされる。
厚生労働省では、自宅療養する軽度の患者向けにオンライン診断を行い、それを特例的に保険でカバーし、薬の処方もするとしている。これは遠隔診療ともいう。遠隔診療ができれば、院内感染を防げる。もっと普及すれば、過疎地域に医師が行かなくても、パソコンやタブレットの画面で医療アドバイスができる。
これらのテレワーク、eラーニング、遠隔診療はいずれでも「産業のデジタル化」の部分集合である。もっと他産業でも同様のデジタル変換を推進して、産業の生産性を飛躍的に高めることを経済対策ではテーマに設定したのよいはずだ。
奇しくも、2020年は5G移行の元年に当たる。コロナ・ショックを奇貨に変える発想が今こそ必要とされている。
テクノロジーが光るコロナ対応
コロナ対策として実施された政策には、テクノロジーを利用したものがいくつかあった。台湾では、38歳のIT担当相、オードリー・タン(唐鳳)氏が薬局のマスク在庫を「見える化」して、消費者の不安感を制御して、買い占めが起こらないようにした。この人物はIQ180という天才肌で、その人物を起用した蔡英文総裁の支持率は、それで上がったという。
中国では、大手IT企業が健康チェックアプリをつくり、健康状態や旅行歴など、いくつかの簡単な質問に答えると、その人のコロナ感染の可能性が判定できるようになった。グリーンの表示がそのアプリで示された人は、交通機関や居住地域・飲食店など出入りが自由になる。赤色や黄色の人は、行動が制限される。経過観察や隔離措置が必要になる。
こうしたIT技術を駆使して、社会の混乱を工学的に制御しよう試みは、日本でも同様のことができればよいとして注目される。逆に、社会の仕組みが柔軟であるから、日本に先んじてそうした社会実験が可能になっているという理解もできる。
東京五輪までの1年間程度は、東京五輪開催をゴールにして、デジタル化を進めることを政策の柱にすればよい。いくつかの数値目標を設定し、事後的に政策の効果測定をする。それで不十分であれば、デジタル化の進捗管理を再度練り直す。そうすれば、コロナ・ショックが東京五輪を延期したことが、奇貨となって日本経済は成長することになる。10年後から振り返れば、「日本はコロナ・ショックに直面してピンチをチャンスにうまく変えることができた」と誰もが思い出すことになるだろう。(提供:第一生命経済研究所)
第一生命経済研究所 調査研究本部 経済調査部 首席エコノミスト 熊野 英生