(本記事は、守屋洋氏の著書『ピンチこそチャンス 「菜根譚」に学ぶ心を軽くする知恵』小学館の中から一部を抜粋・編集しています)
子どもに期待するな
- 冬が来て丸裸になった樹木を見れば、ありし日の花や葉がすべてはかない栄華であったことに気づかざるをえない。 人間も、棺(ひつぎ)に納まるときになって、子どもや財産がなんの役にも立たないことに気づくのである。
樹木(じゅもく)は根(こん)に帰(き)するに至(いた)って、而(しか)る後(のち)に華萼枝葉(かがくしよう)の徒栄(とえい)なるを知る。人事(じんじ)は棺(かん)を蓋(おお)うに至って、而る後に子女玉帛(しじょぎょくはく)の無益(むえき)なるを知る。(後集七八)
- 徒栄 いたずらに栄える。
- 人事 人間社会のこと。
樹木至帰根、而後知華萼枝葉之徒栄。人事至蓋棺、而後知子女玉帛之無益。
どんなに子どもに期待をかけても、どんなにたくさんの財産を残しても、人は必ずこの世を去っていきます。
ここで『菜根譚』が語っているように、子どもや財産がなんの役にも立たないという指摘はよくわかります。いや、財産についてはむしろ、なまじ残すと、決まって相続をめぐる争いが起こるといわれます。それでは役に立たないどころか、わざわざ争いのタネを残してやるようなものかもしれません。
ここは、子どもに財産を残そうとするよりも、「児孫(しそん)には自(おのずか)ら児孫の計あり」(『宋詩紀事(そうしきじ)』)と考えたいものです。
子どもや孫には、それぞれ自分の考えがあり、その考えに基づいた計画があるはずです。親はそんなことを気にかけずともよいというのです。
そうした財産のあれこれは別にして、死とどう向き合うかは、私にとっても悩ましい問題です。
これまでそれほど真剣に考えたことはありませんでしたが、そんな私の胸に去来するのは、次の二つのことばです。
まず、『呻吟語(しんぎんご)』のことばから――。
「衰老病死(すいろうびょうし)は、これ我独(われひと)り当(あ)たる。妻子(さいし)と雖(い)えども代(か)わる能(あた)わざるなり。自(みずか)ら愛(あい)し自ら全(まっと)うするの道は、自ら心を留(とど)めずして、将(は)た誰(たれ)に頼(たよ)らんや」(養生(ようせい)篇)
衰え、老い、病、死は、自分だけの問題である。妻子といえども、代わってもらうことはできない。自分を大切にし自分を全うする道は、結局のところ、自分以外には誰も頼ることはできないのである。
自分の責任で結末をつけるよりないということでしょうか。その覚悟が求められているように思われます。
もう一つは、『列子(れっし)』という古典の次のことばです。
「人みな生(せい)の楽(たの)しみを知(し)るも、いまだ生の苦(くる)しみを知らず。老(お)いの憊(つか)れを知るも、いまだ老いの佚(いつ)なるを知らず。死の悪(にく)むを知るも、いまだ死の息(いこ)いたるを知らず」(天瑞(てんずい)篇)
人はみな、生きることの楽しさは知っていても、その苦しさまでは知らない。老いのくたびれきったさまは知っていても、その気楽さまでは知らない。死の忌(い)まわしさは知っていても、その安らかさまでは知らない。
死とは生きている苦しさから解放されることだというのです。
そう受け止めることができれば、嘆くこともなく、悲しむこともなく、淡々と受け入れることができるかもしれません。
できれば、そんな境地を目指したいものです。
骨肉の争い
- ころりと態度を変えるのは、貧乏人より金持ちのほうが激しい。ねたみそねみは、他人より肉親同士のほうが深い。 こんなとき、冷静、かつ穏やかな気持ちで対処しなければ、毎日を悩みと苦しみのなかで過ごさなければならない。
炎涼(えんりょう)の態(たい)は、富貴(ふうき)更(さら)に貧賤(ひんせん)よりも甚(はなはだ)しく、妬忌(とき)の心は、骨肉(こつにく)尤(もっと)も外人(がいじん)よりも很(はなはだ)し。此(こ)の処(ところ)、若(も)し当(あ)たるに冷腸(れいちょう)を以(も)ってし、御(ぎょ)するに平気(へいき)を以ってせざれば、日(ひ)に煩悩障中(ぼんのうしょうちゅう)に坐(ざ)せざること鮮(すくな)からん。(前集一三五)
- 炎涼 人情が厚いと薄い。
- 冷腸 冷たい腹わた。ここは冷静な態度を指す。
- 煩悩障 もろもろの煩悩によって心が悩まされること。
炎涼之態、富貴更甚於貧賤、妬忌之心、骨肉尤很於外人。此処若不当以冷腸、御以平気、鮮不日坐煩悩障中矣。
肉親同士による骨肉の争いは、昔から激しいものと相場が決まっていました。
現代では、親の遺産相続をめぐってきょうだい間で骨肉の争いが繰り広げられるという話はよく聞きます。
さらに近年では、親の介護をめぐっても、きょうだい間のトラブルが絶えないようです。
もめる最大の原因は、誰が介護を引き受けるかです。
親の介護に直面する中心世代は、やはり五十代前後ということになります。五十代が人生におけるさまざまな不安を抱えている世代だということは、これまでにも見てきました。
それだけに、先行き不安な状況のなかで親の介護を引き受けることに消極的にならざるをえない事情もあるのでしょう。
ほかにも、共働きだったり、子育て中だったり、受験生がいたりと、それぞれの家庭にはそれぞれの事情があります。
そんななか、なんとか折り合いをつけて介護を引き受けても、ほかのきょうだいはまるで他人事(ひとごと)のような顔をして協力しようとしない。にもかかわらず、ああしたほうがいい、こうしたほうがいいと口出しだけはしてくる。そんな不満といら立ちが、きょうだいの仲をギスギスしたものに変えていってしまうようです。
さらに介護が長引けば、金銭的な問題も出てきます。
親の貯金だけでは足りないとなると、今度は誰がお金を出すのかが、もめ事のタネになっていきます。
ここでもやはり、家のローンだ、教育費だと、それぞれの家庭の事情を主張して、みんながお金を出し渋ります。
介護を引き受けている人が、お金ぐらい出してくれてもいいのにと思う一方で、ほかのきょうだいたちは、親の資産が介護者のもとに行ってしまわないかと、遺産の行ゆくえ方を心配していたりするのです。
金銭が絡むと事態はより複雑になり、ドロ沼化していきます。
不信や憎悪の果てに、裁判沙汰にまでなってしまうケースもあるようです。
数十年前までは、家を継ぐ長男が結婚後も両親と一緒に住むのがふつうでしたから、親の介護も「長男の嫁」が当たり前のように引き受けていました。しかし今は家族のあり方がすっかり変わりました。子どもたちは、それぞれ独立して家を構え、それぞれの家庭を持っています。
そんな家同士の利害関係の対立が骨肉の争いを生んでいるのです。
いずれにしても感情を激発させてしまっては、よい結果は望めません。
親の介護については、骨肉の争いになる前に、きょうだい間で話し合って、役割分担を決めたり、介護費用の積み立てをしておくとよいかもしれません。
「冷静、かつ穏やかに」――これはどのような事態においても、またどんな相手に対しても、そうありたい心構えといえるでしょう。
肉親の情愛
- 親は子をいつくしみ、子は親に孝養をつくす。兄は弟をいたわり、弟は兄をうやまう。 これは、肉親としてきわめて当然の情愛である。どんなに理想的に行なったとしても、感謝したり感謝されたりする筋合いのものではない。もし、そのことで恩着せがましい態度を取ったり、施しを受けたような気持ちになるならば、それはもはや他人同士の関係となり、商人の取引と変わりがない。
父は慈(じ)に子(こ)は孝(こう)に、兄は友(ゆう)に弟は恭(きょう)に、縦(たと)い極処(きょくしょ)に做(な)し到(いた)るも、俱(とも)にこれ合当(まさ)に此(かく)の如(ごと)くなるべし。一毫(いちごう)の感激の念頭(ねんとう)を着(つ)け得(え)ず。如(も)し施(ほどこ)す者は徳(とく)に任(にん)じ、受(う)くる者は恩(おん)を懐(おも)わば、便(すなわ)ちこれ路人(ろじん)、便ち市道(しどう)と成(な)らん。(前集一三三)
父慈子孝、兄友弟恭、縦做到極処、倶是合当如此。着不得一毫感激的念頭。如施者任徳、受者懐恩、便是路人、便成市道矣。
道徳的にこうあるべきというのではなく、自然の情愛として、こうありたいというのです。
家族の形はここ数十年ですっかり様変わりしました。
子どもが独立して家を出れば、そのあとは夫婦二人の生活になります。わが家のまわりを見渡しても、やはり夫婦二人の家が多くなっています。
ところが、仕事の忙しさにかまけて家庭をないがしろにしていると、夫婦二人になったとき、会話が成り立ちません。定年後に妻から突然、三下り半を突き付けられる熟年離婚の原因は、そんなところにもあるようです。
親子きょうだいは肉親の情で結ばれますが、夫婦は思いやりの心で接したいものです。感謝も形であらわしたほうがよいでしょう。
死を思い、病を忘れるな
- 激しく燃え上がる色欲も、もし病気になったらと考えたとたん、たちまち冷えきってしまう。名誉や利益の甘美な味わいも、一度死に思い至ると、とたんに蠟(ろう)を嚙むように味気ない。 つねに死を意識にとどめ病気のときを忘れなければ、かりそめの色欲や利益に惑わされず、求道の心を持続させることができよう。
色欲(しきよく)は火(ひ)のごとく熾(さか)んなるも、而(しか)も一(ひと)たび念(おも)い病時(びょうじ)に及(およ)べば、便(すなわ)ち興(きょう)、寒灰(かんかい)に似(に)たり。名利(めいり)は飴(あめ)のごとく甘(あま)きも、而も一たび想(おも)い死地(しち)に到(いた)れば、便ち味(あじ)、嚼蠟(しゃくろう)の如(ごと)し。故(ゆえ)に人常(つね)に死を憂(うれ)え病(やまい)を慮(おもんぱか)らば、また幻業(げんぎょう)を消(け)して道心(どうしん)を長(ちょう)ずべし。(後集二四)
- 幻業 幻のようにはかない営み。ここでは色欲や名誉、利益を求めること。
- 道心 求道の心。
色欲火熾、而一念及病時、便興似寒灰。名利飴甘、而一想到死地、便味如嚼蝋。故人常憂死慮病、亦可消幻業而長道心。
大病を患ったり、命にかかわる大事故に遭ったりすると、人生観が一変することがあります。それまで価値があると思っていたものが、生きるか死ぬかの瀬戸際では、なんの意味もないものに思えてくるからです。
それで『菜根譚』は死をつねに意識のなかに置いておけというのです。実際に死に直面しなくても、死を思うことで、がんじがらめになっている欲望から解き放たれることもあるでしょう。
死や病気というのは、ふだんはあまり考えたくないことです。しかし、頭のどこかにとどめておけば、自分の欲望や行動にブレーキをかけることができるかもしれません。