カンブリア宮殿,ジャパンハート
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医療のないところに医療を~アジアで20万件治療のNPO

ミャンマーの田舎町にあるワッチェ慈善病院。1月下旬、そこにありえないほどの数の患者が押し寄せていた。貧しい人は無料で診てもらえる。

日本から来たばかりだという日本人医師が着いて早々に向かったのは、手術予定が書かれたボードの前。その数14件。午後2時を回っていたが、その日のうちに全部やるという。

一人目の患者は12歳の男の子。先天性の喉の腫瘍が1年前から大きくなってきたという。この病院にはCTなどの設備はなく、開けてみるまでわからない手術も多いという。それでも日本人医師は驚きの速さで進め、開始からわずか10分で腫瘍を摘出した。

医療活動を行っているのは日本のNPO、ジャパンハート。創設16年で20万件の治療を行ってきた。活動を率いるのがジャパンハート、最高顧問で医師の吉岡秀人だ。

次の患者は3歳の女の子。生まれつき唇に腫れが。命に関わるものではないが、将来を考え、取りたいと言う。術後の見た目を考え、吉岡は内側からメスを入れた。中にあった血腫を取り除き、縫合。この手術もおよそ15分という速さだった。

「日本と比べたらリスクがある。それでもやるかやらないかで未来が変わるでしょう。やらなければ幸せになる人はゼロ」(吉岡)

深夜12時過ぎ、全ての手術が終了した。

ジャパンハートの大きな特徴が、日本からボランティアが参加していること。この日は20人が治療などに当たっていた。ほとんどは日本で医師や看護師として働いている。

通常、海外ボランティアというと期間も長く、仕事を辞めて参加するのが一般的だった。しかしジャパンハートは1泊2日から参加できる。

「何も捨てなくていい。日常生活の延長線上で国際協力ができる。多くの人が達成できたら、より多くの途上国の人がハッピーになる。時代に見合った仕組みを作ってきた」(吉岡)

ただし、かかるお金はすべて自腹だ。例えばミャンマーで1週間ボランティアをすると、航空券や滞在費などでおよそ20万円かかる。それでもやりたいと参加している人が年間およそ800人に及ぶ。参加した女性の1人は、「いいバッグを買うことと、自分の人生に投資すること。どちらがいいかとなった時、自分の人生に投資しようと思って」と語る。

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滞在費用は自腹~それでもボランティアが殺到する理由

外科医の木戸上真也はこれが2回目の参加。普段は大阪の八尾市立病院に勤務している。最新の医療機器を駆使しながら手術にあたってきた消化器外科の11年目の医師だ。上司の遠藤俊治に勧められて参加した。遠藤はジャパンハートの常連。その遠藤は「吸収できるものは吸収して、この病院にも還元してほしいと思います」と言って送り出した。

ミャンマー入りしたその日から早速、手術についた木戸上。しかし、始まったのは喉の甲状腺にできた腫瘍を取る手術。消化器外科の木戸上にとっては専門外だが、ここではそんなことは言っていられない。

日本との環境の違いも大きい。例えば日本では使い捨ての電気メスも、ここでは刃先だけを取り替えて本体は何度も使う。麻酔も潤沢にある訳ではないので、手早い処置が求められる。

手術の合間には、「日本の医者はお金の感覚がない」(吉岡)、「時間とお金の節約ですか」(木戸上)といった対話を通した学びの機会もある。

ミャンマー滞在中、ボランティアは病院の近くの寮で共同生活を送る。掃除も自分たちで行う。

飯田晃久は名古屋市の左京山歯科クリニックで働く歯科医師。ジャパンハートに参加する中では珍しい分野だ。出国前、飯田は大量の歯ブラシを用意していた。歯磨き指導をするつもりだと言う。

「現地の人の何かのきっかけになって、それが村に広がっていったら、僕が活動に参加する意味もあるのではないかと思っています」(飯田)

待合室で声を掛けると指導を受けてみたいと言う人がいた。事前に録音したミャンマー語の音声ガイドを使い、まずは歯ブラシの持ち方から指導。歯ブラシの習慣はあるが、正しい磨き方は知らず、興味深そうに聞いていった。

次の日、飯田は手術のサポートに回ると言う。手術中、手にしていたのはラケット型の電気ハエ取り機。ミャンマーではこれが当たり前の光景だ。「ハエ取りがどんなミッションより緊張しました」と笑う。飯田は今回、2週間の参加で費用はおよそ30万円だった。

「(その価値は)100%ありました。絶対日本では得られないもので、いくらお金を払っても来る価値がある。今後も定期的に参加したいと思っています」(飯田)

現在ジャパンハートの活動はアジア6カ国に広がっている。活動資金は年間およそ4億円。その8割以上は個人や企業からの寄付によるが、集め方にも一工夫している。

例えばカンボジアに自前の病院を作った時には、ホームページに必要な医療機器をカタログ通販と同じように値段付きで掲載。寄付をする人が機器ごとに買い上げる仕組みだ。中には324万円もするレントゲンもあったが、これも企業が寄付。何を送ったか実感できるようにし、全ての医療機器を揃えることができた。

活動を続けていく上で、吉岡には信念がある。それは、「どんな患者も断らない」。

この取材中、最も難しい患者がやってきた。2歳の男の子で、半年前にやけどを負い、手の甲が突っ張り、動かなくなっている。付き添ってきたのはお坊さん。寺を孤児院にしていて、この子を引き取った。地元の病院にも行ったが、「皮膚科から小児科に、さらに大きな病院に行けとたらい回しに。日本のお医者さんが来るのを待っていました」。

いつにも増して集中した吉岡。半年前の火傷で患部は硬く固まっていて、時間のかかる手術だが、使える麻酔の量に制限があり、4時間がリミット。まずは、手の甲を突っ張らせている硬くなった皮膚の切り取る部分を決める。この日の手術は左手だけ。切り取る部分を最小限に抑えて、綺麗な皮膚は残す。硬くなっていた患部を取り除くと、手の甲がまっすぐに伸びた。移植用の皮膚は太ももから取って手の甲に移す。小さな手に皮膚を縫い合わせていく。手術開始から3時間が経過。吉岡は時間内に無事手術を終えた。

「やはり誰かがリスクを取らないといけない。そういう人が世の中に増えた時、社会は前に進んでいく」(吉岡)

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ミャンマーへの「恩返し」~ゼロからの格闘25年の歴史 

カンブリア宮殿,ジャパンハート
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まだ夜も明けぬ午前5時。吉岡を乗せた車が出発した。およそ4時間、田舎道を走り、ミャンマー中部のとある村に到着。人だかりができていたのはこの地域に一つしかない診療所だ。普段は看護師しかおらず、今日は吉岡が来ると聞き、集まってきたのだ。

ジャパンハートは病院での治療に加え、定期的にこうした無医村の訪問診療を実施。簡易エコーなども使い、重症の患者がいれば後日、病院で手術できるよう手配している。 実はここは吉岡がミャンマーで初めて医療活動を行った場所。以来25年、吉岡は人生をかけて戦い続けてきた。

吉岡は1965年、大阪の町工場を営む家庭に生まれた。2浪の末、国立の大分大学医学部に入学。卒業後は大阪などの救急病院で働いた。10代から「不幸な境遇の人の為に働く」と決めていたと言う。

人生が動くのは30歳の時。第2次世界大戦の慰霊団の医療スタッフとして初めてミャンマーを訪れた。戦死者は13万7000人。その一方で、多くの飢えた日本兵がミャンマー人に食料をもらい、看病を受けていた。日本兵の遺族たちは吉岡に「恩返し」ができないかと訴えた。

「自分たちの家族はもう死んでいるが、代わりに助けてくれと。本当にミャンマーの人たちのことを気の毒に思ったんですよ」(吉岡)

吉岡は勤めていた病院を辞め単身ミャンマーへ。NGOに入り医療支援の活動を始めた。しかし診療の現場で吉岡は、小児外科医としての技術不足、無力さを思い知らされる。

「助けてあげたいなと思っても助けられない、何もできない。心の中で『ごめんね』と言いながら帰しました」(吉岡)

2年後、吉岡は日本に戻り、小児外科を学び直すことにした。そこで師事したのが、日本の小児外科ではトップクラスの技術を持っていた青山興司医師。青山は当時を「彼は粛々と自分の腕を磨くというか、今後ボランティアをやる時にはこういうことが必要だと一生懸命考えながら、僕らと一緒に診療をしていました」と、振り返る。

青山の元で6年間、技術を磨き続けた吉岡は再びミャンマーへ。そして2004年、全財産を投じ、ジャパンハートを創設した。

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小児がんの患者を救え~人生をかけた師弟の協力

立ち上げ早々、吉岡の元にその覚悟を問われるような患者がやってくる。末期の小児がんを患った男の子、ウィンちゃんだ。この病院では手に負えないと、吉岡は治療を断るしかなかった。しかし半年後、どうにも気になった吉岡は家まで様子を見に行く。そこには息も絶え絶えのウィンちゃんがいた。

救うには日本で手術するしかない。しかしその費用は500万円以上。全ての活動資金をつぎ込むことになる。今、それはできない。

「母親に『また様子を見に来る』と言って帰ろうと思ったんです。それは“死んだのを確かめに来る”ということです。でもそう言ってしまったら、明日から医師をやっていく自信がなくなった。母親の顔を見ていたら、言葉が変わって、『日本に連れて行くか?』と聞きました」(吉岡)

とにかく目の前の患者を救おうと決めた。そして頼ったのが青山だった。

「彼が1枚の写真を持ってきて『この子を手術してくれるか?』と。『できなかったら帰してくれていい』と言われて、それなら受けようかというのが最初でした」(青山)

2004年10月、ウィンちゃんの手術が行われた。腫瘍の状態は予想より悪く、青山も手を焼いたが、なんとか摘出した。しかし、保険外の治療で通常なら500万円以上かかる。吉岡は破産覚悟で青山に聞いた。

「指を3本立てて『これでどうだ?』と言われました。300万円だと思って、すごくまけてくれていい先生だなと思って『本当に300万円でいいんですか』と聞いたんです。そうしたら『300万円じゃない。30万円でいい』と。『CTスキャンもMRIも朝からテストで回してこの子のためには使ってない。原価だけでいい』と言われました」(吉岡)

ウィンちゃんの一件は、吉岡に「どんな患者も断らない」という信念をもたらす。同時に、ジャパンハートの活動を世に知らしめ、支援が集まり、人が来てくれるようになった。

その後、2008年にはカンボジア、2012年にはラオスと、活動拠点を広げ、ミャンマーには孤児院「ドリームトレイン」も建設。子供たちの自立を支えている。そしてついにはカンボジアに自前の病院を建て、小児がんの専門病棟まで作った。

日本の病院でも人手不足に貢献~鍵は「社会貢献」

カンブリア宮殿,ジャパンハート
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ジャパンハートの活動は国内にも広がっている。鹿児島・徳之島。高齢化が進むこの離島も活動の現場だ。

島に一つしかない総合病院、徳之島徳洲会病院の大きな悩みが、慢性的な看護師不足。 「ずっと人手不足でキツキツ。勤務表が組めないんです、人手不足で最初から人数がいない」(中村フミエ看護師長)

そこでジャパンハートが行っているのが看護師の派遣だ。松本光誉はここに来て9カ月。海外ボランティアと違い、地元の看護師と同等の給料をもらっての仕事となる。

現在、ジャパンハートはこうした離島やへき地の病院14カ所に300人以上を派遣している。

病院は給料以外でもサポート。松本が暮らす2DKのアパートは家賃5万円だが、半分は病院がもつ。家具や家電も備え付けだ。

「ちょっと憧れというか、離島といえば奄美群島のイメージがあったので。こういうところに来なければ分からない不便さや大変さが少しだけ見えました」(松本)

松本が働く病院に吉岡が呼ばれていた。始まったのは看護師不足の対策会議。ジャパンハートから2人来ているが、まだ足りないという。人材派遣会社に募集も掛けているが、都会の病院に待遇で劣り、人が来ない。離島やへき地の病院にとってジャパンハートは頼みの綱となっているのだ。

しかも、来る人はやる気満々だ。松本もここの仕事にやりがいを感じていると言う。以前の職場では人工透析の担当だったが、ここでは産婦人科から高齢の患者までなんにでも対応。既に予定を延ばして働いているが、さらに別の島にも行こうかと考えている。

「奄美大島も行ってみようかなと。いろいろなことを得られるという面では、プラスになることが多いような気がします」(松本)

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~村上龍の編集後記~

「質の高い人生」と吉岡先生は言う。そのために自腹を切るのは当然のことだと。説得力がある。自分で得た言葉だからだ。

「医療は経済抜きでは発展しない」「お金が集まるところに人が集まり、そこに物や情報が集まる」「それこそが医療発展の源泉」「いつの日か私たちそれぞれが、やがて死の床に就いた時、存在する価値が確かにあったのだと、自分の人生の価値をきっと再認識するだろう」

趣味ってありますか、と控え室で聞いた。働いているところ以外、イメージできなかったのだ。読書はしますよ、と先生は笑顔で答えた。

<出演者略歴>
吉岡秀人(よしおか・ひでと)1965年、大阪府生まれ。大分大学医学部卒業後、救急病院勤務やミャンマーでの活動を経て、2004年、ジャパンハート設立。

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