本記事は、桑原晃弥氏の著書『自己肯定感を高める アドラーの名言』(ぱる出版)の中から一部を抜粋・編集しています。
過去の経験を変えることはできませんが、
その意味付けを変えることはできます。
それだけで人は変わることができるのです。
同じ経験をしても、そのとらえ方は人によって違うし、その時の状況によっても大きく変わってきます。
たとえば、「あばたもえくぼ」と言う通り、好意を抱くと、相手のすべてが好ましく思えてくるのに対し、一旦、悪意や敵意を抱いてしまうと、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」となり、かつてはよく見えていたはずのものまで嫌いになり、相手のやることなすことすべてが嫌になるものです。
これは過去の経験についても同じことが言えます。
たとえば子ども時代の不幸な経験に対し、「人生は不公平だ。だから何もかもうまくいかないんだ」と言い訳に使う人もいます。
極端な場合、「自分は不幸な子ども時代を送ったんだから社会に対して復讐してやる」と自暴自棄になる人もいるかもしれません。
その経験を聞いて、「無理もないよな」とつい同情してしまうこともありますが、では、不幸な子ども時代を送った人がみんな同じような生き方をするのかというと、決してそうではありません。
日本一のカレーチェーン店「CoCo壱番屋」の創業者・宗次德二さんは生後間もなく孤児院に預けられ、3歳の時に宗次夫婦の養子になっています。
ところが、養父が無類のギャンブル好きだったため、養母は家出、養父との生活は電気や水道も止められ、食べるものにも困るほど困窮しています。
15歳で養父が亡くなり、養母と暮らすようになり、ようやく「電気のある生活」を経験します。高校もアルバイトをしながら卒業します。
これほどの経験をすれば、世の中をすねたり、恨んでも不思議はありませんが、宗次さんにとってそこに至る経験は「朝から晩まで汗を流して働くことに何の抵抗もない人間に育ててくれた」という感謝に変わったことで、その後の成功につなげています。
「子ども時代の不幸な経験」を、ある人は人生がうまくいかないことの言い訳に使うのに対し、別のある人は「忍耐することを学んだ。がんばることの大切さを教えてくれた」と前向きに捉えます。
このように自分が経験したことをどう解釈するかは人によってさまざまですが、大切なのはアドラーが言うように「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗でもない」と考えることです。
アドラーによると、人は自分の経験によって決定されるのではなく、経験の中から自分の目的に適うものを見つけ出すところがあります。
子ども時代の不幸をある人は「努力」に結びつけるのに対し、別の人は「怠ける」口実に使うのです。
「同じ経験=同じ未来」があるわけではなく、同じような経験をしながらも、人はその経験を自分なりに意味づけをして、そして自分の手で自分の未来を切り開いていくことができるのです。
人は過去にさまざまな経験をして、その中には嫌な経験もあれば、2度と思い出したくない経験や、とても幸福だった経験もしているはずです。
過去の経験を変えることはできませんが、その先にはただ1つの未来しかないわけではありません。
未来は自らの選択次第で変えることができるのです。
アドラーの名言:いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。
過去に安住したり、
言い訳するのはやめにしよう。
進歩を目指して努力することで
人は変わることができる。
アドラーの心理学の特徴は「過去」ではなく、これから訪れる「未来」に目を向けるところにあります。
精神科医やカウンセラーの中には、相談者が抱える生きづらさや困難の原因を「過去」に求めようとする人がいます。
過去に今起きていることの原因を探し、それまで気づかなかったり、あまり気にもとめていなかった出来事を思い出させて、「今あなたは苦しんでいるけれども、悪いのはあなたのせいではない。過去の辛い体験のせいですよ」と言えば、「今の自分」を責めていた相談者の気持ちを楽にすることができるのはたしかです。
しかし、アドラーによると、過去の出来事を持ち出すだけでは、今抱えている課題の解決にはなりません。
仮に過去の出来事が今の困難の原因だとしても、過去に遡って人生をやり直すことはできません。
自分に責任がないと分かることで気持ちは楽になるかもしれませんが、目の前にある課題が解決したわけではないというのが厳しいけれども、現実なのです。
今をより良いものに変えていくためには、「今の自分」を変えていく他ないのです。
そのためには、これから何ができるかを考え、少しでも課題を前に進める方がいいのではないか、というのがアドラーの考え方です。こう言っています。
「進歩を目指して努力する方が、過去の楽園を探すよりもいいことだ」
アドラーはどんな人に対しても、「未来は変えられる」「自分の意志で変わることができる」ということを強調しています。
人生において大きな失敗をして、「ああ、もうダメだ。これじゃあ、この先に希望なんか持てないよ」と、絶望的な気持ちになることがあるのはたしかです。
あるいは、コロナ禍のように「先の見えない不安」から自分の将来についても悲観的にしか考えられないこともあります。
アドラーはこうした未来や将来に対する「陰鬱な予言」を嫌っていました。
ある時、統合失調症の少女の診察を行なった精神科医が、少女の両親に「回復の見込みがない」と言ったところ、アドラーはその医師にこう尋ねました。
「いいかい、聞きたまえ。どうして我々にそんなことが言えるだろう。これから何が起こるかを、どうして知ることができるだろう」
これまでに多くの患者を診てきた医師の言葉は経験からの言葉だったのでしょうが、こうした「陰鬱な予言」は、アドラーの持つ患者に対する優れたケアの感覚とは相いれないものでした。
アドラーは結婚して間もなく、念願だった診療所を開業、内科医として多くの患者を診察しています。
その過程で、遊園地のサーカス団で働く芸人の多くが、幼い頃に生まれつきの虚弱さに苦しみながら、その後、努力して運動能力を磨き、虚弱さを見事に克服していることを知りました。
それはアドラーの子ども時代の経験とも通じるものであり、そんなアドラーから見れば、未来は決まりきったものではなく、自ら変えていくことができるものだったのです。「過去」に安住することなく、進歩を目指して努力することで、「未来」は今よりもより良いものに変えていくことができるのです。
アドラーの名言:進歩を目指して努力する方が、過去の楽園を探すよりもいいことだ。