日本の食品業界で重要な地位を築いた森光氏に、経営哲学や成功の秘訣、未来への展望についてお話を伺います。 森光氏の経験や洞察から、次世代の経営者や起業家にとっての価値ある教訓を得られることでしょう。

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(画像=株式会社八天堂)
森光 孝雅(もりみつ たかまさ)
株式会社八天堂代表取締役
大学時代に食の道に進むことを決め、パン・洋菓子店で修行。1991年に祖父の店を継ぎ、1997年から現職。自ら立ち上げた「たかちゃんのぱん屋」を13店舗展開し、2008年に一品専門店に転換。冷やして食べる「くりーむパン」が大ヒット、手土産市場を確立。現在、多彩な商品を開発・展開し、海外進出も実行。農福連携や観光事業で社会貢献にも注力。
株式会社八天堂
冷やして食べる「くりーむパン」が成功の起点となり、商品開発と人材育成を強みとし、地域社会への貢献を大切にする企業です。

これまでの事業変遷

― 最初にこれまでの事業の展開についてお伺いさせていただければと思います。昭和8年の創業から、昭和28年には法人化されたということで、その途中の変遷について聞かせていただけますか?

広島県三原市で私の祖父が和菓子屋として創業したものが、当社の起源です。しかし、市内に和菓子屋が増える中、父親が昭和30年代に洋菓子を導入して昭和50年に和洋菓子屋として業態を変化させました。その後、洋菓子屋が同じように増えてきて、売上が伸びない中で私が焼きたてのパン業態に変化し、私の代で引き継いでいます。

私がパン屋を開業したのが平成3年で、まだバブルが弾けて間もない頃でした。その時代は大手コンビニエンスストアなども少なく、焼きたてのパン屋も少なかったため、早朝に店を開けばお客さんが来てくれるような時代でした。

時代の流れもあり、私自身の野心も強く、新店舗のパン屋をどんどん出していきました。10年足らずで広島市をはじめとして、県内に13店舗の拡大をしていきました。

しかし、その10年で時代が真逆になってしまい、非常に厳しい状況になりました。余剰資金を投じ店舗展開を進めていましたが、新しい店舗を出せば売上が増え、利益も出て、トータルの収支をカバーするというサイクルが続いていました。

それでも私は自分の夢に向かって突き進み、次の14店舗目を神戸に出そうとしました。そこから大変なことになっていくわけです。

―14店舗目を神戸に出そうとしたところで何か問題が起きたのでしょうか。当時、コンビニや同業の台頭による逆風にさらされていましたが、それが原因で14店舗目は開店されなかったのでしょうか。

実際には、私の右腕とも言える一番できる人間を店長として神戸に据えようとしていましたが、退職を申し出てきました。彼がいなければ、遠隔の神戸での店舗運営は難しいと考え、最終的には14店舗目の開店は見送りました。しかし、この頓挫したことが逆に今の八天堂につながっていると私は考えます。 というのも、もし14店舗目を開店していたら、会社は破綻していたでしょう。無理をして、しかも高金利で資金を借りてまでオープンする予定でしたから。彼が退職すると次々に、各店長も退職を申し出ました。私は人材の育成に力を注いでいたつもりでしたが、自分の夢に突き進むあまり、経営の基本を見失っていました。

―その結果、会社基盤が揺らいでしまったのですね。

そうなんです。私は店舗を開けるためにパンを焼いたりしていましたが、寝る時間もなくなるほど忙しく、社員が辞めていく中で、お客様からのクレームもありました。しかし、経営の根本的な問題に対して目を向けることなく、表面的な部分ばかりを追求していました。私は元々職人出身だったことから、経営に関しては無知でした。

結果、金融機関から呼び出しを受けるという事態にまで至りました。当時、初めて支店長室に通され、メインバンクからは追加融資ができないと言われました。その頃は、貸し剥がしという時代でもありました。そして銀行の担当者から、「明日一緒に行くところがあります」と言われ、行ったところは弁護士のところでした。

弁護士の方から「社長はパン作りできるのか」と問われ、「私はパンしか取り柄がありませんから」と答えたところ、民事再生法の資料を手渡されました。

― それは本当に厳しい状況だったのですね。

はい、その通りです。私は中途半端に事業を大きくしていました。

― 結果、民事再生法を申請せずに、どのように会社を立て直したのでしょうか。

民事再生法の書類が手元にある状況でしたが、すぐに民事再生や破産の手続きが始まったわけではありませんでした。後で銀行の担当者から、本当に倒産させるつもりはなく、社長である私に危機感を与え経営者としての数字の知識や事業計画の立て方を学ばせ、立ち直らせるためだったと聞かされました。

また、当時、30代後半でしたが、まだ具体的な志が定まっていませんでした。しかし、弟からの連絡がきっかけで、乗り越えるべき道が見えてきました。彼は「貯金があるのでこれで乗り越えてほしい」と全財産であろう2000万を差し出そうとしてくれたのです。 また、話は変わりますが、それまで私は親を見下していました。どの組織でも一時の成功があろうと、永続的に繁栄するためには、ナンバーワンとナンバーツーのベクトルが揃っていなければならないということをいろんな歴史から学んでいました。しかし、当時の私のベクトルは会長である親とは合っていませんでした。

― それはどういうことですか?

私の親は一店舗で私を育ててくれました。しかしその時私は、親は小さいことしかできていないのではないかと感じていました。物事を大小でしか判断できない価値観になっており、親との価値感の相違が生まれていました。

しかし、弟が全財産を差し出すといってくれた時に、この弟を育てているのは紛れもなく私の両親だと認識しました。その時に、私にも子供がいることを思い出しました。

そして、私は親としてこのような子供を育てられているだろうかと、改めて親の偉大さを感じたのです。

― それは大変な状況だったと思いますが、それでも親に謝罪するという決断を下したわけですね。

はい、そうです。親に謝りに行った時、逆に父親が私に謝り、私はたまらなくなり、泣き崩れました。 この経験が私を大きく変えたのです。親が私を慰めてくれた時、冷え込んでいた自分の心が暖かくなるのを感じました。

― それはとても辛い経験だったと思いますが、その後どうなったのですか?

その後、何としてもやり直したいと思い、少しでも社会に貢献できるような人間になろうと思いました。これまでの自分の考え方を振り返り、自分の夢や野心が先行していたことに気づきました。

― その後、地域にこだわったパンづくりに取り組むようになったのは何故ですか?

ある方から、地域にこだわったパンがないという声を聞きました。その方の地域には小さなスーパーとコンビニしかなく、私が作った天然酵母のパンを提供することで、地域の人々に喜んでもらえると考えました。そこから「卸売」に取り組むことになりました。

― その取り組みの結果はどうだったのでしょうか?

スーパーの担当者から、喜んでパンを置いてほしいという反応を頂きました。このありがたい言葉が私に大きな勇気を与えてくれ、そこから県内のスーパーを一軒ずつ訪れ、パンを置いてもらうように頼みました。

― 実際にパンを置いてくれたのでしょうか?

はい、たくさんのスーパーにご協力いただきました。しかも、私のパンは「天然酵母」「無添加」「地産食材」などの特徴で高価格でも受け入れてもらえました。その結果、収益性が大きく向上し、事業が順調に軌道に乗りました。周りからもよくやったと言われ、たくさんの賞賛を頂きましたが、私自身は危機感を常に感じていました。

それから信条・経営理念を確立したり、卸売をやり切った後に、一品専売へ舵を切ったりして、多くの客様に美味しいお品をお届けできること、世の中にお役立ちする人財育成を目指して頑張り続けております。

株式会社八天堂の強みについて

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(画像=株式会社八天堂)

―自社の事業の強みと成功の実績について伺いたいと思います。特に、やりきった結果、強い思いで進めてきたところ、それがどういう組織の強みになっているのかを含めてお聞きしたいと思います。

私たちの強みは大きく二つあります。それは人と商品です。まず商品がなければ話になりません。例えば、冷やして食べるくりーむパンという商品は、当時の市場には存在しませんでした。スイーツやパンといった商品は流行りものとよく言われ、流行ったらだいたい一年、長くても三年という商品寿命があります。我々の商品が駅で行列を作った時、バイヤーの方から「一年持てばいいね、三年持てばロングセラーだよ」と言われたことを今でも覚えています。これに対して危機感を感じていました。商品が一年足らずでダメになったら、会社は倒産してしまいますからね。

そこで、いい時に新たな事業の種をまくようにしました。商品から新しい商品を生み出し、事業から新規事業を生み出す。その種まきのおかげで、今が良い状況を持続しているのです。その中で大切なのは、市場を作ることでした。商品だけでなく、パンを手土産にするという新たな市場を作り出しました。個人消費用の商品とお土産用の商品の中間に位置する、新たな市場です。小さい市場ではありましたが、その市場があったおかげで、20年経ってもまだ可能性があると感じています。そして、この新たな商品を広島や地方ではなく、東京で展開できたことが非常に大きいと感じています。

― 様々な地域での反響について、特に東京での影響はいかがでしょうか?また、新しい流行にすぐに追従するという業界の特性は、何か影響を及ぼしていますか?

確かに、私たちの業界では新しいトレンドが生まれれば、それがすぐに広まります。そのため、東京で早く認知度を高めることは重要だと考えています。私たちは東京での成功を目指しました。そして、広島から東京、東京から全国、そして日本から世界へとスローガンを掲げました。地域性を重視するという考え方は最初からありました。

― 人についてはいかがでしょうか?

人財育成で重要なのはやはり新卒採用です。一朝一夕では育たない新卒社員から、今では私の右腕、左腕にまで担ってくれている社員が出てきているので、この点は当社の強みと言えます。

― 東京での活動と世界への展開を進めつつ、地元・広島県に本社を置いていますね。地域との関係性や取り組みについて教えていただけますか?

私は地域との関係性を非常に大切にしています。よく「東京に本社を移すのでは?」と言われますが、それはありません。私はこの地域で生まれ育ち、ここまで来られたのは地域の方々に支えられたからです。だからこそ、地域に恩返しをしなければならないと強く感じています。

― 具体的にどういったことを行っているのでしょうか?

我々はただ商品を売るだけではなく、地域の課題解決にも貢献したいと考えています。私自身、社会福祉の活動にも関わってきました。障害を抱えられている方々にパン作りを教えたり、農福連携や観光事業にも関わってきました。

森光氏が描く未来構想

―森光さんが思い描く未来構想や目指す世界観について教えていただけますか。

私たちは「食のイノベーションを通した人づくりの会社」を目指しています。食のイノベーションとは新しいやり方を生み出すことで、その目的は人材の育成です。

―イノベーションとは具体的にどのようなことを指すのでしょうか。

それは、存在しないものを創造することです。たとえば、私たちのくりーむパンはそれまでのパンになかった「くちどけ」と「冷やして食べる」スイーツのような食感が特徴です。また、商品の販売方法や見せ方、体験を一緒にすることで、他にはないものを提案することができます。私たちは新たな食の企画や業態を創造することに力を注いでいます。

今取り組んでいるものの具体的な詳細はまだ公開できませんが、新しいブランドをプロデュースしたいと考えております。 日本には様々な特産品があります。そこにいろんな要素を掛け合わせていくことが大切です。我々はイノベーションを、あるものとあるものの掛け合わせで新たな結合を生み出すことと定義しています。しかし、それを具体的に落とし込んだ時にスタンダードとなるのが、あるものとあるものという新たな結合です。

次世代の経営者へメッセージ

― 次世代の経営者へ何かメッセージがありましたらお願いします。

挑戦なくして成功はありません。その過程で必ず失敗は発生します。しかし、その失敗を乗り越えていくためには、強い意志が必要です。ただ、一人だけの力で乗り越えていくのは難しいです。だからこそ、支えてくれる仲間や社員が必要です。そして、その仲間やパートナーたちに支持される経営者になることが大切だと思っています。そのためにも、自分だけの利益を追求するのではなく、社会貢献や業界の発展に貢献するという姿勢が大切です。そうすれば、多くの人が応援してくれるでしょう。

氏名
森光 孝雅(もりみつ たかまさ)
会社名
株式会社八天堂
役職
代表取締役