人民元
(写真=PIXTA)

中国人民元が11月のIMF理事会で、SDR(国際準備金の特別引出権)バスケット構成通貨に採用される見通しとなっている。日米欧のエコノミストやアナリストたちは、それぞれ独自の視点からこの問題を論じている。

さまざまな観測や意見が飛び交う中、ほぼ共通した理解となっているのは、中国自身が熱望してやまなかったこと、人民元はさらに自由化しなければならないこと——どうやらこの2点のようだ。

ここでは長年にわたり中国貿易に携わった実務者としての立場から、これまでの人民元の変遷を振り返りつつ、この問題について考えてみたい。


二流通貨からのスタート 人民元にも2種類あった

1990年代前半、広東省・広州駅での光景が忘れられない。香港行き国際特急列車の切符売場だった。発売窓口が人民元用と外貨専用とに分かれていた。外貨窓口はすいていて並ぶ必要はない。

しかし人民元窓口では群衆が長蛇の列をなしていて、あちこちで怒声が飛び交っていた。露骨な外貨優先政策だった。人民元は信頼に値しない二流通貨である、と当局自ら表明していたようなものである。

さらに人民元にも2種類あって、外国人が両替するのは「外貨兌換券」とよばれ、一般の人民元とは異なる二重制だった。

ちょうどそのころ、具体的には1994年に人民元切り下げが行われた。そして同年の1ドル0.116人民元から、2005年の管理フロート制移行までの1ドル0.1221人民元までの12年間、ほぼ対ドル固定相場となっていた。中国にとって輸出ビジネスの黄金時代であった。われわれには「1ドル8.28人民元」という数字が頭にすりこまれていたものだ。

衣料品について、日本繊維輸入組合の統計を見ると、1993年の日本の輸入衣料品に占める中国の比率は46,4%だった。それから毎年増加して2001年には70%を突破し、2009年の79.5%をピークに、2013年まで70%台を保っていた。安い元レートの威力だった。

中国政府は繊維製品の輸出増値税(17%)の還付率を引き下げるなどして、抑制に走った時期すらあった。中国一極集中の危険(チャイナプラスワンの模索)は2005年ころからすでに課題に上っていたが、実際に数字となって表面化したのは、ここ2年のことに過ぎない。


人民元の国際化、改革の第一歩を踏み出した瞬間

2005年になると、実勢より安いレートによる輸出攻勢がアメリカの批判にさらされ、ついに固定相場から管理フロート制と通貨バスケット制を採用した。人民元高となり、価格競争力には陰りが見られるようになる。

しかし沿海部よりコストの安い内陸部の取引先を開拓してカバーするなど、中国貿易の熱気は一向に衰えることはなかった。貿易関係者にとっては、2001年11月の中国のWTO加盟時のインパクトが大きく、WTO効果による取引拡大の余熱が続いていたともいえる。ともかくここから人民元は改革の第一歩を踏み出した。

それ以降、中国は人民元の「国際化」を進める。人民元貿易決済の推進、人民元オフショア市場の拡大、米ドル以外の通貨との直接取引、人民元建て債券の発行などである。そして着実に地歩を拡大していった。しかしいずれも政府によるコントロールから逸脱することはなく、取引、交換の自由はあまり進展しなかった。