破天荒経営者,中内功,藤田田
(写真=The 21 online)

慣習・前例・既成概念は壊すためにある!

中内 功(ダイエー創業者)
「いくらで売ろうと勝手。メーカーに文句をつけさせない」

「よい品をどんどん安く、より豊かな社会を」をミッションとして掲げ、日本の小売業界に価格破壊をもたらしたダイエー。その急成長の原動力となったのは、創業者・中内のカリスマ性だった。

中内は口グセのように「フィリピンでの野戦でいったん死線を通ってきたのが私の原体験」と話していた。そして、「まず物質的に飢えのない生活を実現していくことが、我々経済人の仕事ではないかと思います」と語る。好きなものを腹いっぱい食べられることが幸せである。そのために必要なのが、価格破壊だったのだ。

フィリピン・ルソン島北西部のバンバン平地で、中内はオーストラリア軍の陣地に斬り込んだ。そのとき、至近距離から投げられた手榴弾が目の前で爆発した。衝撃と激痛の中で頭に浮かんだのは、裸電球のもと、家族6人でつついた牛肉のすき焼きのにおいだった。

復員した中内は、神戸の闇市で香港から密輸された薬品を売って資金を作り、ダイエーを開業した。1959年に三宮2号店をオープンしたとき、目玉商品として用意したのが、戦地で恋い焦がれた牛肉だった。普通は安くても100g70円はしたものを、100g39円で売り出したのだ。その後も、赤字覚悟で、9年間もこの価格を維持した。

安売りは、食料品だけではなく、消費者の身の周りにあるあらゆる商品に対して行なわれた。ダイエーの急成長により強力なバイイングパワーを手に入れた中内は、より安い価格を実現するため、メーカーに対して多額のリベートを要求した。「価格決定権をメーカーから消費者の手に奪回する」ことが正義であると中内は考えていた。

しかし、リベートを要求されるメーカー側はたまったものではない。花王石鹸(現花王)は、65年、ついにダイエーとの取引停止を決めた。すると、中内はすぐに第一工業製薬というメーカーと提携して、プライベートブランドの洗剤を開発してしまった。しかも、花王石鹸を独占禁止法違反の疑いで訴えたのだ。事態を大きくすることによって、ダイエーは全国的な知名度を上げることになった。10年後の75年に至るまで、取引は再開されなかった。

同様の対立は松下電器産業(現パナソニック)との間でも起こしており、こちらは実に30年間も取引停止の状態が続いた。

このような攻撃的な姿勢を、中内は、社外にだけではなく、社内にも向けていた。副社長を務めた大川栄二によれば、在庫を見た中内が「この在庫に保険はかかっているか? かかっているなら、今すぐ火をつけてこい! 」と叫んだことがあるという。別のある幹部は、子会社の不良債権処理がうまくいっていないことで呼び出され、「生命保険に入っているか? 入っているなら、今すぐこのビルから飛び降りろ! 」と言われた。もっとも、その後、中内はその幹部を飲みに誘い、「この前は言いすぎた。堪忍してくれや」と頭を下げたそうだ。

徹底して現場主義だった中内は店舗の巡回を頻繁に行なった。そして、売り場担当者にも厳しく指導した。パン売り場では、目測で5m離れたところで大きく息を吸い込む。それでパンの香りがすれば合格。しなければ、即刻、改装が命じられる。「甘い! 巨峰」と書かれたPOPを見ると、「誰が甘いと決めたんですか? こんなもん、詐欺でしょ! 」と糖度計で計らせる。結果は14度。「ほらみてみい。甘いと謳うんなら18度ないとあかんわ」と叱りつけた。機嫌が悪いときは、少しでも鮮度の悪いモヤシを見つけようものなら、そのモヤシをザルごと頭からぶっかけたという。

その徹底した現場主義がダイエーの急成長をもたらしたのは事実だが、その歪みにより、晩年は凋落することになった。

《参考資料》佐野眞一『カリスマ』日経BP社・恩地祥光『中内功のかばん持ち』プレジデント社