日本の漫画『攻殻機動隊』が原作の映画「ゴースト・イン・ザ・シェル」。公開中のこの映画では、ほぼ全身を機械化(義体化)したサイボーグの主人公が「自分は何者か」を自問する。
最近、「AIが人間を超える」といった主張やシンギュラリティーが声高に叫ばれるようになった。Siriやチャットボットなどと接するにつけ、AIを人間らしく感じることはないだろうか。そこで「人間とAIの違いは何か」、さらには「AIは意識を持てるのか」という疑問が頭をもたげ、ついには「人間はどうあるべきか」「人間とは一体何か」という根源的な命題に行き着く。
AIはフィンテックをはじめあらゆる分野で研究・活用が進んでおり、技術者でなくともその理解は欠かせない。最近、『文系人間のための「AI」論』(小学館新書)を上梓した早稲田大学の高橋透教授は、サイボーグの研究者であり哲学者だ。高橋教授に刊行の狙いと映画をどう見たかをうかがった。(聞き手=濱田 優 ZUU online編集長)(文中敬称略)
高橋透(たかはし・とおる)
1963年東京生まれ。早稲田大学文化構想学部教授。ニーチェ、デリダなどの現代西洋哲学研究をへて、サイボーグ技術、ロボット工学といった先端テクノロジーと人間存在とのかかわりをめぐる哲学研究にも取り組む。著書に『サイボーグ・エシックス』『サイボーグ・フィロソフィー』などがある。
映画「ゴースト・イン・ザ・シェル」
1989年に士郎正宗氏が発表した日本の漫画『攻殻機動隊』が原作の映画(ルパート・サンダース監督)。「攻殻機動隊」の舞台は21世紀の日本。脳の神経回路に素子(デバイス)を直接接続する「電脳」技術や、手足にロボット技術を加え人間をサイボーグ化する「義体化」が普及した社会が舞台。そんな近未来社会でサイバー犯罪などと戦う内務省直属の公安警察組織「公安9課」(攻殻機動隊)の活躍を描く。1995年に劇場版アニメ映画「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」(押井守監督)、2002年にテレビアニメ「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」(神山健治監督)が公開。2013−14年には「攻殻機動隊 ARISE」(黄瀬和哉総監督)が公開されている。
なぜ哲学専攻でサイボーグを研究するのか/「AI彼女」に対する学生の反応は?
——今春、書籍『文系人間のための「AI」論』を出版されましたが、その狙いは?
僕自身はサイボーグを研究してきてAIのことは知っていましたが、いわゆる第二世代までのAIはまだまだで、哲学を専攻する者として「人間とは何か」を研究するとき、少し前まではAIよりもサイボーグのほうが適していたんです。
ただ最近、AIやディープラーニングについての記事がWebや新聞、雑誌で目につくようになりました。そこで特に強調されているのは常に、「人間が仕事を奪われる」というような話、AlphaGoの話から始まって「既にAIが人間をしのいでる」という点ばかりです。
そうした論壇やジャーナリズムの動きも見るうち、またディープラーニングの成果があがってきている中で、これはサイボーグとの関連で論じていくべきだと考えだしたんです。
——執筆で大変だったところは?
イメージはあったんですがなかなか考えがまとまらなかったことですね。ポストヒューマンの問題も書かざるをえないとなったとき、そこのところは整理できていなかったので。
乗り越えられたのは、脳の可塑性、プラスティシティー(plasticity)っていう問題意識で貫こうと決めたからですね。脳の可塑性とは、環境や状況の変化に応じて、脳内のニューロンの配線を変えて柔軟に対応することができるという、人間の脳に備わった能力のことです。これは特に人間の脳の特徴を表しています。こうした可塑性があることで、人間は新しい局面に対応し、自分自身を新しいものへと変えることが起こりえると。つまり、畢竟、人間は自分自身を変容させて、ポストヒューマンに発展する可能性を宿しているということです。こうした議論のために、本書では脳の可塑性という考え方をDNAレベルにまで拡張して論じているのですが。
——AIというとフィンテックや金融工学など、数学とか理系の話のように感じます。そもそも文学学術院にいらっしゃる先生がサイボーグの研究を?
イギリスのレディング大学にサイバネティックス研究者のケビン・ウォリックという教授がいます。彼は1998年に左手に改造手術をしてシリコンチップ(RFIDタグ)を埋め込み、センサーを神経につなぐ実験をした人で、「自分自身がプロトタイプのサイボーグだ」と言っているんです。彼は2000年くらいに出した本で、「人間はそのうちAIに抜かされるかもしれないから、人間をサイボーグ化すべきである」というようなことを言ってますね。
当時私が読んだときは、「まだ今のAIでは無理では?」と思いましたが、このところのAIの進化は急速で、サイボーグとAIの両方を考えないといけないと思うに至りました。
そもそも私はドイツ文学専攻の出身で、ニーチェの研究なんかをしていたんです。それで大学に職を得たころに『メディア人間——コミュニケーション革命の構造』(中野収著、勁草書房、1997年)という本を読んだんですが、そこには「最近の若い世代はソニーのウォークマンなどのデジタル機器で武装している」というようなことが書かれていた。
そのとき、デジタル世代がそれまでの世代とはまったく違う生き方をするのだろうなと想像して、人間はどうなるのだろうかといった考えが浮かんだわけです。そこで初めて、テクノロジーを身にまとう人間像というものを分析したいと考えました。それを突き進めた先にサイボーグが当然あるわけです。
哲学の一つ大きな問題として、「人間とは何か」ということがあります。たとえば以前は、機械と人間は違う、動物と人間は違うというような形で論じてくることができましたが、今は人間が機械と融合するとか、あるいはDNAレベルで動物とも融合する可能性についても考えなきゃいけなくなっている。そういったことも含めて「人間とは何なのか」「私たちはどこへ行こうとしているのか」を哲学者として問わなければいけないだろうと。
ある意味時代の必然として、自分がやってきた哲学の専門を拡張しただけなんです。
——本書でも紹介されている映画「her/世界でひとつの彼女」「エクス・マキナ」も観まして、AIと恋愛、より正確にいうとAGI(汎用人工知能)と恋愛できるかということについて考えました。もし子どもを作らないなら、恋愛相手が人間である必要はないのかもしれませんね。AGIとの恋愛という話を先生が学生にした場合、学生の反応はどうですか?
大きく分けると、学生にはいわゆる“リア充”の子とそうでない子がいますから、そこで反応は別れます。今僕のゼミの学生たちはリア充系の子が多いので、AGIと恋愛という話をすると、「なんで?」って顔をする。以前はゼミや授業でアニメやサブカルを取り上げていたんですが、その学生は、別に違和感は覚えてない感じでした。「普通じゃん」って。
——二次元と付き合うとか「俺の嫁」みたいなことですね。
そうです。ゼミ論というのを、ゼミを2年やった後に書かせるんですが、ある学生が美少女キャラとデートするということをやったんですね。たとえばクリスマスにキャラの写真を持って横浜・みなとみらいの観覧車に一緒に乗ってみたり、自分もキャラになってコスプレしたり、下宿から大学まで来たりして人の反応を観察、研究した学生もいました。
ちょうどその頃「ラブプラス」(コナミデジタルエンタテインメントの恋愛シミュレーションゲーム。それまでの同タイプのゲームが『彼女になるまで』を楽しむものだったが、本作は『彼女になってから』を楽しむことが特徴)がはやった頃で、ある大学の大学院生がキャラクターと結婚式まで挙げちゃったって話もありました。だからそういったことを受け入れる余地があることは予想がついていたので、僕自身さほど不思議じゃありませんでした。
『マル激トーク・オン・ディマンド』というネット番組で映画「her」をめぐってジャーナリストの神保哲生氏と社会学者の宮台真司氏が論じていますが、AIだともっと繊細に自分に向き合って、付き合ってくれるような可能性も出てくるでしょう。単なる二次元キャラをもっと超えて、場合によってはAIのほうがより人間らしく感じるようなことだってあるかもしれない。
AIには実体がありませんが、ペッパーのようなロボットも生まれていて、一昔前ですとソニーのAIBOのお葬式の様子なんかを見ていると、もう機械に感情移入しても別におかしくない。それがAI搭載になりさらに精度が上がり、見た目も人間や動物に近づいてくれば、こうした傾向の拍車はかかるでしょう。